第4話
火曜日の朝、ドアをノックする音で智花は目を覚ました。
カーテン越しに太陽の光が部屋に入り込んでいる。
「智花、もう起きなさい」
ドアから母の声が聞こえる。寝返りを打ってスマホを探した。枕の脇にあったスマホを手に取る。充電器を抜いて画面をつけた。
午前八時二十三分。
深く息を吸い込んでスマホを伏せる。
「ちゃんと起きなさいよ。朝ごはん出来てるから」
ドアの前から気配が消えて足音が遠ざかる。
智花はシーツの模様を目でなぞった。それからゆったりとした動作で布団をまくる。
そのままの格好で階段を降りた。
リビングへ行くと、テーブルにはすでに朝食が並んでいた。焼きシャケと味噌汁の匂いが鼻に届く。
自分のために作られたごはんと、自分のための席がある。
座る気になれず、コップを取りに行った。シンクの前に立つ母が智花を見る。
「智花…今日は午前中だけでも学校に行って来なさい」
母と目を合わせないように、棚の中を探る。手前のコップを一つ掴んで取り出した。
水の流れる音と食器のぶつかる音が、背後から聞こえる。そしてまた母の声。
「先生がね、保健室が嫌なら図書室でもいいって。図書室なら本もあるし…そんなに退屈しないんじゃない?」
「うん、そう…かも」
覇気のない返事をして、そそくさとリビングへ戻った。
テレビに映る女性アナウンサーがニュースを読み上げる。事故があって人が死んだとか、川から遺体が見つかったとか、朝から気分の重たくなるものばかりだ。
「智花」
椅子へ座った智花に鋭い声が飛んできた。智花は心の中でいただきますを言い、箸を手に取る。
「そう“かも”じゃなくて、ちゃんと返事して。お母さんの目を見て、行くか行かないか決めなさい」
味噌汁の椀をもったまま手が止まる。水道が止まり、冷たいリビングにはテレビの音だけが聞こえた。
揺れる具材と水面を見下ろす。
教室のこと、授業のこと、休み時間のこと、ゲームセンター…そして、昨日のこと。様々なことが智花の脳内を駆け回る。
結局、智花は何も言わず、母のことを見ることもせず、食事を再開した。
母はそんな智花を、微動だにせずじっと観察していた。しかし答えが返ってこないと悟ると、ため息をついて再び皿の汚れを擦り始めた。
智花は出来るかぎり早く、口の中へご飯を詰め込んだ。
空になった皿を重ね、キッチンカウンターへ置いた。母は黙ってそれを受けとる。それ以降、リビングで歯を磨いても、前を通り過ぎても、彼女が智花を見ることは無かった。
冷えたフローリングを歩く。自分の部屋のドアを押し開け、中へ入った。
部屋へ戻った智花は、まるで雨の中を傘もささず数分走ったような気分だった。ひどく疲れて、クローゼットの前で立ったままじっとする。
視界の端に制服がうつる。シワも汚れもほとんどない。
それを乱暴にわきへよけ、代わりに無地のズボンとTシャツを引っ張り出した。
もう誰もいない靴箱で、亜咲美は急いで上履きに履き替えていた。
今朝は寝坊して、家を出るのが三分ほど遅れてしまったのだ。朝の三分は驚くほど影響が大きい。
ここへ着くまでに同じ制服の生徒を見かけなかったため、亜咲美はよけいに焦っていた。
靴を靴箱に押し込んで、階段を一段飛ばしで駆け上がる。二年生のフロアへ出ると、小走りで教室へ向かった。
一組と二組の前を通り、中央階段をこえる。
三組の開けっ放しのドアに体を滑り込ませた。もう担任が教卓に立っており、ほとんどの生徒が席についている。
バッグを肩から下ろしながら自分の机に行く。
椅子に座って深く息を吸った。教室の時計を見る。
八時二十三分…ギリギリ間に合ったようだった。
スカートのポケットから鏡とくしを取り出す。自分を落ち着かせるように前髪を整えた。ふと、昨日のことが頭をよぎる。ゲームセンターの向こうの世界…。
朝礼が終わると席を立ち、友達の元へ行く。窓際で向かい合って座っていた二人は、亜咲美を見ると手を振った。一人はショートカットにセーター姿、一人はお団子ヘアーでもう半袖を着ている。
「おはよー。今日めっちゃぎりぎりだったね」
「休みかと思っちゃった」
亜咲美も手を振りかえす。
「おはよう。今日寝坊しちゃってさ、ほんと焦った」
空いている近くの椅子を引っ張ってくる。そこへ座って彼女たちに向き合った。
「ねえねえ、ちょっと聞いてほしいんだけど」
二人の視線が亜咲美に集中する。
「私さ…昨日異世界行っちゃったんだよね」
真剣な表情でそういう亜咲美に、二人は一瞬止まった後顔を見合わせた。
「………はぁ?」
方や怪訝な目で、方や興味津々で亜咲美を見つめた。
必死に身振り手振りで説明する。
「ほんとだって!こう、いきなりクレーンゲームの中に入ってさ。そこを抜けたら別のゲームセンターがあって」
その話を聞いて、ショートカットの女子が頬杖をつく。
「ねえ、ちょっと映画の見過ぎだよ」
「違うって、マジなの!」
「えー…じゃあもし本当だとしてさ、証拠あるの?」
亜咲美の動きが止まる。頭が徐々に冷えていった。
「……ないかも」
「ないんじゃん!」
吹き出す二人を前に、もどかしげに口を引き結んだ。
「あ!じゃあさ、その異世界?の写真撮ったらいいんじゃない?」
お団子の女子が身を乗り出す。
「亜咲美この間カメラ持ってるって言ってたし、撮るの上手だし」
亜咲美は目を丸くしてぽんと手を叩いた。
「あ、そっか、確かに!」
「でもなんでカメラ?スマホで良くね?」
彼女は首を振った。
「ダメだよ。だって最近なんでもAIで作れるじゃん」
ショートカットの女子は納得したように頷いて、姿勢を正した。
「なるほどね。…てか、その異世界ってそんなポンポンいけるのなの?」
再び亜咲美に視線が集まる。亜咲美は腕を組んで「うーん」と唸った。
「分かんない…今日部活終わりにもう一回行ってみる。ねえ、一緒に行こうよ」
「ごめん私、今日塾ある」
「私も今日はちょっと厳しいかも、ごめんね」
「そっか…」
思わず肩を落とす。しかしすぐに顔を上げて小さく笑った。
「まあ、気にしないで。絶対いい写真撮ってくるから」
釣られるように二人も笑う。
「いい写真って何」
「うん、楽しみにしとく」
予鈴が鳴り、各々椅子を戻す。自分の席へ戻った亜咲美は、智花について考えていた。
基本はゲームセンターにいると言っていたから、今日もいるかもしれない。帰ったら連絡してみよう。
ほどなくして教師が入って来る。亜咲美はイヤイヤ数学の教科書を開く。ページをめくりながら、放課後について思いを巡らせていた。




