06‐ 陰の護衛
大きく息を吸い込み、全身に力を込めてからイノリは口を開いた。
「拒絶します」
はははは、と軽蔑の笑い声をあげて男が大振りのナイフを横に振った。イノリのこめかみから両眼、そして反対側のこめかみまでが真一文字に引き裂かれる軌道だ。
振り切った男の手の先でナイフの刃が消失していた。イノリは恐怖を堪えながら緊張に顔を強張らせたまま、だが無傷で男を睨んでいる。イノリの背後から銀色の細い糸が伸びている。糸は肩越しに空中を伸び、最初に男がナイフを構えていた場所でナイフの刃に絡まりついていた。糸に支えられて折られたナイフの刃も空中に浮かんだ形になっている。
異常を察知したイーサン、そして二人の男、二体のアンドロイド、誰もが動けずにいた。恐怖や緊張の為ではない。物理的に体の自由が奪われている。そうと悟ったイーサンがイノリの背後に注目した。
「……体が動かないだろう? 筐体を巡るオイルも、関節を潤すグリースも金属に置換えられた。動く道理を失った彫像の中に意識を押し込められた気分はどうだ? イーサン・モンロー?」
笑いを含んだ少女の声がイノリの背後から聞こえてきた。透明な濃霧の中からゆっくりと巨獣が歩み出てきた様に現れたのは半蟲半人姿の金属の塊。巨大な蜘蛛と少女のキマイラの姿だった。イーサンの口から驚愕の呻きが漏れる。
「アンファンテリブルの…… ラウラ…… 何故」
「久し振りだな、イーサン。戦争ごっこで給料をもらえる後方部隊にイノリの護衛は勤まらないよ。本職の戦争屋の私がイノリの陰の護衛に就いているから」
緊張に身を強張らせる体を庇うようにラウラが両腕を伸ばして背後からイノリを抱きすくめた。
「侵蝕部隊のドロシアは馬鹿じゃない。自分の部隊の弱点を誰よりも承知している。部隊が無力化された時にイノリを護る事を条件に私に取引を持ち掛けてきた。悪い条件ではなかった。何よりも今、貴族のマナー講習などと言う“退屈な仕事から解放された喜び”でいっぱいだ。イノリ、よく頑張ったね」
背後から顔を寄せてきたラウラがイノリに頬を摺り寄せた。
東ブリアでの激戦の直後、仮想空間にラウラを呼び出して体の引き渡しと最新装備の供給、メンテナンスの引き換えにドロシアが提案してきたのがイノリの護衛だったのだ。ラウラの体を構成する金属から作り出したペンダントトップをイノリが肌身離さず身につける事でラウラはイノリの状況を常に把握できる態勢まで作り上げていた。
「……侵蝕部隊が大統領特別指令に逆らったのか? 無事で済むと思ってるのか?」
イーサンの呻く様な恫喝はラウラの笑い声に消された。
「報復よりも自分の部隊が存続できるかどうかを心配した方がいい。この不始末は中央情報局上層部だけでなくお前達と反目する関係にある04マディソンチームと08ビューレンチームにもリークされている。非武装の一般人一名を強襲して返り討ちに遭いました。しかも大統領特別指令のお膳立て付きでした。あは、あはははは」
「何故…… マディソンやビューレンチームが……」
イノリが大きく息を吐きだした。目の前でナイフを振り切った姿勢をとっている若いヒューマノイドはその姿のまま全身が銀色の彫像と化している。視聴覚が稼働しているのかも分からない状態だ。
「大使館員保護最優先の要請を後回しにした報復がある事は可能性の一つとして予想していました」
その可能性を危惧していたのはイノリとドロシアだけだった。アイリーは明確に否定したほどだ。合衆国から個別の報復があるのならば最初に行われるのは侵蝕部隊の解任だろうとイノリは予測した。実行部隊として選ばれるのは大統領府直轄の性格を持つ中央情報局強襲部隊だろうとドロシアは予測した。
解任指令が出たらドロシア達はイノリに有益な情報提供が出来なくなる。その為にイノリは符丁を用意した。イノリが何らかの質問を侵蝕部隊のその時に居合わせたメンバーに問いかける。
「知らない」「教えられていない」「聞かされていない」「知ろうとも思わない」「確かめようとも思わない」「聞こうとも思わない」 6つのキーワードを組み合わせる事で9つある強襲部隊から特定された部隊名をイノリに伝える。
強襲部隊同士が利害の衝突から反目関係にある事は周知の事実だった。ならば部隊が特定できた時点で反目する部隊に事故原因調査室から情報をリークさせる。実行部隊を退ける自信を持つ侵蝕部隊だからこそ思いつけた、事後処理のための保険だった。
もう一つ。緊急時にアイリーの様子を確かめるときはクラリッサの名を、ラウラとの連携を確かめる時にはドロシアの名を使う。これも事前に取り決めていた。他にも無数の取り決めを設けていた。アンジェラの冷淡な態度は監視と記録による責任追求をかわす為に予め打合せも済ませていた演技だった。
事故原因調査室の鬼才と評される室長・イノリだからこそ出来た予測と備えだ。今の時点でイーサン・モンローのチームはイーサンの頭部を除き全員の全身が銀色の金属に置換えられてしまっている。
「力こそが序列の世界で無能を晒した部隊に援護や再挑戦のチャンスがあるか否か。お前なら分かるだろう? イーサン。もう会う事もないだろうから別れの言葉を述べよう。力の衝突がある所すべてが私の庭だ、イーサン。戦争ごっこでナルシストが世界最強を名乗る様は最高に滑稽だったよ」
イーサンの顔が氷結のスロー動画の様に銀色の金属塊に変わっていくのを見届けた後、ラウラはきつい抱擁からイノリを解放した。
「訓練通りとは言え、よくあの重圧の中で貴重な時間を稼ぎ出した。最大の賛辞を贈るよ、イノリ」
イノリが大きく息を吐き出す。まだ緊張の糸は張りつめられたままとなっている。当然だろう。それでも気丈にイノリは感謝の言葉を口にした。
「圧倒的な力の差を体験する事が出来ました。今、無事である事は貴女のおかげです、ラウラ。最初の2分間を自力で切り抜けて欲しいという要望に応える事が出来たのも貴女への信頼があっての事です」
感謝の言葉を述べながら、2分を稼いでおいてほしいという要望の裏に何があったのかをイノリは尋ねてみた。言外の問いながら真意に気付いたラウラが笑顔を浮かべる。
「ドロシア達に少しでも恩を売れる様に合衆国大統領のところへ立ち寄って来た。のんきにゴルフなどしていたからな。イスラム式に埋葬が済んでいる棺桶の中に転移させてきた。大抵の者は数分間、静かに横になっただけで冷静な判断力を取り戻してくれる。私は平和主義者なんだ」
「……合衆国大統領を? え、……拉致?」
「私は永くネイルソンの側近として仕えてきた。各国の首脳と面識もある。一度でも会った者ならばどこにいようと私は目の前に転移する事が出来る。ネイルソンのアクティビティで作ったこの体ならば。 ……ところでその……。 ……アイリー達は元気か?」
場違いな質問とは思わなかった。ウバンギ再興の為、ラウラがスウェーデンのベルナロッテ家に入る為の条件として二度と直接会う事はないと誓った者の近況をラウラは知りたがっている。
ラウラは律儀に約束を守っている。だからこそ我慢しきれずに、だが名前を出さずに尋ねたのだ。その屈折した願いに気付かぬイノリではない。
「アイリー達は元気です。私の火急を貴女に救われたと知ったら深く喜び、最大限の感謝を貴女に捧げるでしょう。私が感じた安心感は直接伝えます。貴女の事も知りたがっていますから」
イノリもまたアイリー以外の名前を出さなかった。だがラウラには通じた。ほころぶ様な笑顔を浮かべる。年齢相応の少女が浮かべる歓喜の笑顔だった。
「そうか!! うん。ありがとう、イノリ。では私は棺桶の中で自分の無謀を悔やんでいるであろう大統領閣下をゴルフ場に送り返してくるよ。この姿でイノリに会う事が二度とない様に祈っている。いつかアイリーと一緒にスウェーデンに遊びに来てくれ」
ラウラの明るい笑顔につられてイノリも微笑を浮かべた。
「アイリーとレオノール様との熱愛報道が忘れ去られた頃に、必ず伺います。ラウラ・ベルナロッテ様」




