10‐ 英雄の登場
アラブ人女性の美しさは集約すると独特な眉と瞳の様式美となる。合衆国では見かけない二等辺三角形の様な眉は上唇と同じ厚さで整えられ僅かな感情の動きも眉の動き一つで雄弁に伝える事ができる。曲線だけで描かれた平行四辺形の瞳は目尻に大きな余白を残し個々人がそれぞれに持つ性格さえその瞳から窺えるほどだ。
高層ビルの屋上に設置されている大型ドローン発着場に現れた女性は生粋のアラブ人女性が持つ民族固有の美しさの結晶とも思われた。
『顔…… 怖ぁっ!! エジプト絵画みたいじゃん?』
遠慮のない感想を漏らしたのはリッカだった。複数のドローンがアラブ人女性の周囲に滞空し、その表情を撮影、国営放送の報道チャンネルがその姿を放送している。登場する場所もタイミングも全て予定されていたものだという事が分かる。
『彼女がネイルソンの後継者…… ジブリール・アル=ハキム。何故だろう? ドラマに出演する女優の様な美しさだとは思うが怖さは感じない。リッカは怖いと感じたのか?』
違うわ、アホウ。という顔をしてアイリーを見返すリッカは返事をしなかった。代わりに笑い声を伝えてきたのはアンジェラだ。
『イノリやオリビアと比べては駄目よ、ベイビー。イノリは自分の死に慣れているしオリビアは過酷な環境の中で村人たちを率いて生きていた。ジブリールは英才教育を受けてきたかも知れないけれど踏んできた場数が圧倒的に足りない。彼女から怖さを感じ取れないのはベイビーも多くの修羅場を乗り越えてきたからよ』
東フィリピン海洋自治国から乗り込んできた新しい筐体ではドレスアップの時間は取れなかったのだろう。今は野戦服に身を包んでいるクラリッサがアイリーの首筋を指先で愛おし気に撫で上げる。
『ネイルソンとの交渉は上出来だったぜ、アイリー。だが仕上げが必要だ。この仕上げは力加減ってのが必要になる。打合せ通り、あたしらに全部任せるでいいな?』
アイリーが微かに顔を曇らせた。何か言いかけようとしたところをクラリッサの声が遮る。
『殴りかかってきた相手に“もうこんな事すんなよ”と言い含めて終わりにしたら駄目なんだよ。これで最後にします、もうしません。と言えばこいつは一発だけなら殴ってもいい奴だと世界に見くびられる。殴ってきた手がデカかったら周りの人間が巻き添えを喰らう』
『殴られたら殴り返し、蹴り倒し、顔を踏みつけて歯を叩き折った上に唾を吐きかける。その後に許しを与える。それが世界のルールです、アイリーさん。世界がそうである以上、こちらもルールを守らなければ世界の信頼は得られません』
ドロシアの言葉を聞いてアイリーが目を閉じた。顔に逡巡の色が浮かぶ。もう誰も言い募ってきたりはしなかった。アイリーの決断を待っているのだ。
ほどなくしてアイリーは目を開いた。画面に映るジブリールの顔を見つめる。
『……納得した。これは俺が承諾した作戦だ。みんな、よろしく頼む』
画面にはジブリールと正対する形で巨大な怨霊と化したネイルソンが映っている。
画面の中で怨霊の仮面が天を仰いだ。ビル群を揺らす衝撃を伴った咆哮をあげる。戦争終結の最後の儀式が始まったのだ。
怨霊と化したエレメンタリストが首都を襲撃し絶望的多数の死者が出た。民俗学者であり民族の無形財産を保護するNPO団体の主催として国内で高い認知率を持っているジブリールが偶然手に入れた破魔の魔法陣の力を使い暴走したエレメンタリストを討ち斃す。
ジブリールは救国の英雄となり荒廃した守護者連邦の復興を象徴する存在となる。そしてネイルソンの暴走から指導者を失い迷走し始めたウバンギ共和国にも救いの手を伸ばし、2国はほどなくしてジブリールを元首とした同君連合共和国となる。
二国内の政界・財界の次世代を担う若き要人達がジブリールの支援を表明し世界の主要各国がその流れを歓迎する。これがネイルソンが計画した終戦以降の筋書だった。
美しいジブリールが高々と片手を挙げる。その手には古びた書物がページを開いた状態で握られている。巨大な怨霊に恐れる風も見せずジブリールがよく通る声を張り上げた。
「聞け! これなるは古代都市マダイン・サーレハより発掘された魔法の書。私はその秘術を解読し破魔の魔法を手に入れた!! 聖なる力が私と共にある!! 膝を屈し滅びを受け入れよ、悪しき怨霊!!」
ジブリールが掲げた右手の肘の先が消失した。一瞬遅れて銃声が画面から聞こえる。緩く溶かれたケチャップが瓶から零れ落ちる様に粘度のある液体が千切れた肘の先から地面へと落ちてゆく。
ジブリールの顔に動揺が走るのをカメラが捉えた。不測の事態が起きたのか。ジブリールの姿がズームアップされる。
ジブリールの顔が後後方へと弾かれる様に傾いた。鼻と口から出血がある。左手が体の前に差し出される。体全体の動き、体幹の流れを無視した操られる様な動きだった。腕は肩の高さまであがり、肘は垂直に下方へと向かって折れた。
文字通り、肘から左腕が折られたのだ。初めて絶叫が上がる。ジブリールの声だった。
「いっっ…… いいいっっっ ……!!!」
痛い、という条件反射的な言葉すら出ない。ジブリールがこれまで経験したことのない激痛だった。
「泣き喚くだけならその命、ここで終わるぜ? 救国の英雄嬢ちゃん?」
ジブリールの耳元で声がした。誰かが自分の背後に立って自分の体を支えている。支援の為ではない。見世物にするためだ。声の主に心当たりはない。
「状況が変わりました。戦場ではよくある事です。首都に生きる人々を皆殺しにした怨霊が怪しげな古書と“アブラカタブラ”で退散する。見ている方が白ける茶番劇です。主人公が血の海に沈んでこそのグランギニョル。そう思いませんか? 美しいだけの英雄さん?」
目の前の誰もいない空間から若い女性の声がした。ジブリールにはその声にも聞き覚えがない。片方の視界が塞がれて行く感覚があった。顔を殴られ瞼が腫れあがったのだ。激痛の他に熱と重みを自分の顔に感じる。
「……お父様?」
ジブリールの口から呟きが漏れた。耳元と目の前で姿のない声が会話を交わす。
「おっと、自分の発言には注意しなよ? 英雄嬢ちゃん?」
「貴女の発言は記録用に展開しているドローンにも拾われるかも知れません。貴女が誰と繋がっていたのか。後に邪推を生む様な発言は控えなさい。 ……美しいだけの英雄さん」




