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「夏の匂いがする」
康子がささやけば、美空が囁きを反す。
「ヤスコだって……」
美空が康子の胸元に顔をうずめ、制服の前合わせの間から漏れ出す柔らかい肌の匂いを、すいと吸う。
「ヤスコだって、夏の匂いがする。少ししょっぱくて、寂しい……海の匂いね」
「え、汗臭い?」
「ううん、そうじゃないの」
美空は康子の体に強く鼻先を擦りつけ、もう一息をすうと吸った。
「私、この匂い、好き」
プールの塩素に消毒された康子の肌は清潔でほとんど匂わない。それでもこれほどに鼻を近づければうっすらと康子本来の肌の匂いが香る。若い汗はリンゴに似た心地よい酸っぱさを含んで甘い。
美空はその香りに身を預けて、悲しく微笑んだ。
「康子は本当に海みたいな人……初めて見たときから、そう思っていたの」
康子は美空の両肩に腕を回し、細い体を抱き寄せた。そのまま彼女の髪に鼻先をこすりつけて匂う。
「私が海なら、美空は空だよ」
初めて会った時、屈託なく笑う美空は真夏の青空のようだった。いま、孤独な思いに頼りなく震えてすがってくる姿はどんよりと寒い冬の空を思わせる。キラキラと明るい金髪もすりガラス越しのほのかな光の中ではわずかに光彩を失って、それは薄い雲越しに地上を見下ろす悲しい太陽の姿を思わせた。
ふいに康子の脳裏に浮かんだのは誰もいない海岸の光景――黄ばんだ砂丘の向こうに青い海が広がり、その境目に一本の地平線を置いて無限に広がる青空の光景だった。
(ああ、私は海だから……)
空の色を映して同じ色に染まりながらも、けっして同じ存在にはなれない。
教室で誰からも声をかけられない美空の姿を見たとき、康子はこれを勝手に自分と同質の悲しみだろうと思い込んでいた。しかし、そうではなかったのだ。似ていながら異質なる悲しみ、宇宙の闇を内包したブルー……その空が冬の曇天のように曇っている今、海である康子の心も低く垂れこめた雲の色を吸い上げてしまったかのように寒々しいグレーに染められている。
不意に康子は、このグレーをもっと強く感じたいと思った。腕の中に居る少女の身の内にまで入り込み、その悲しみのを吸い上げて同じ色に染まってしまいたいと、そうした衝動を感じてしまったのだ。
「ねえ、キス、しようか」
突然の誘いの言葉。美空が顔をあげると、康子は照れも恥じ入りもせずにまっすぐに美空の唇を見つめていた。真剣だった。
美空の返事は小さく、わずかにかすれた声で。
「うん、いいよ」
康子がわずかに腰をかがめ、ゆっくりと顔を美空に近づける。それを待つ美空は、そっと目を閉じた。
唇が触れたのはほんの一瞬、薄皮が触れ合う程度の軽いものであった。表で鳴いていた蝉の声もやんで、いつの間にか訪れた深い静寂だけが二人のキスを彩った。薄暗い女子更衣室の、塩素臭い空気の中、お互いの呼吸が一瞬だけまじりあい、甘い香気を立てて散った。
静かに顔を放して、先に微笑んだのは美空の方だった。
「行こう……次の授業が始まっちゃうよ」
康子はドキドキと音高く鳴り続ける胸を押さえて頷く。
「うん、そうだね……」
どうか、この胸の高鳴りが空のような少女から移されたものでありますようにと――美空の胸の内にも同じ音が鳴っていますようにと願いながら。