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美術室を飛び出して自転車で走ること二十分、お財布の中には五百円玉が一枚、そして美空の用意した水着は二枚……チープな市民プールは夏休み前ということもあって閑散としていた。
しらちゃけたコンクリートのプールサイドに人は数えるほどしかおらず、清涼な水を満たしたプールに浮かんでいるのは小学生の短く刈り上げた坊主頭が五つほど。
「これなら思う存分に泳げるね!」
美空は無邪気に喜んだが、康子は少し後悔していた。大事なテスト期間の最中だというのに、こんなところで何をしているのだろう、と。
何もこんなところまで泳ぎに来なくても、泳ぐだけなら学校のプールがある。実は康子は、スポーツ推薦に向けて特別にテスト期間中も学校のプールを使う許可を受けているのだ。
「お前は授業態度もまじめだし、学力的には何の問題もないだろう。つまり、推薦を受けるために水泳に集中して……そうだなあ、夏の大会では、せめて準優勝ぐらいしておきたいところかなあ」
顧問はそう言って笑っていた。だが康子は、まるで「お前には泳ぐ以外の選択肢はない」と言われたように感じたのだ。だから康子は特別な許可に甘んじるつもりはなく、普通の生徒と同じように部活をお休みした『テスト期間』を過ごすつもりだった。
なのに、美空に誘われるままここへきてしまったのは、やはり水への未練があるのだろうか……
そんな康子の嗜好を吹き飛ばすかのように、大きな叫び声が上がった。
「いやああ、つめた~い!」
声の主はもちろん美空、彼女は更衣室から駆け出した勢いのまま、大きな水しぶきを上げてプールに飛び込んだのだ。
対する康子は水着の上に固くバスタオルを巻いている。
無作為に水を掻きならが、美空はこれをからかった。
「もしかして恥かしがってんの?」
「別に、恥ずかしがっているわけじゃ……」
嘘だ、恥じている。康子は背ばかりが高くて胸元の貧しい自分の体を何よりも恥じているのだ。それに比べて……おお、美空の体のなんとまぶしいことか。
小柄ではあるが、女性としての発育は美空の方が早い。たおやかな小山の形に膨らんだ胸元は水着のやわらかい生地を押し上げて実に女性らしいラインを描き出している。容赦なく体の線を露わにする水着ゆえ、丸く描き出されたやわらかそうなヒップラインもまた、女性らしい愛くるしさに満ちて美しい。
「そりゃあ、美空ぐらいきれいな体をしていたら、恥ずかしくなんかないんだろうけど」
思わず康子が漏らした本音を、美空は聞き逃さない。
「なに? やっぱり恥ずかしがってるわけ?」
彼女はザバッと水音をたててプールサイドに上がり、康子の体から力任せにバスタオルをはぎ取った。水着がペッタリと張り付くような痩せた体が露わになる。
美空はややうっとりと目を細め、ささやいた。
「本当にきれいな体っていうのは、こういうのを言うの。どこにも無駄な肉がなくて、流線型で……」
「ちがうよ、ただ痩せっぽっちなだけじゃん」
「ばかねえ、こういうのはスレンダーって言うの」
「物は言いよう……あっ!」
いきなりプールに突き落とされて、康子は息を止めた。
体が水面に叩きつけられる心地よい圧と大きな水しぶき、そしてまとわりつく水の冷気。
「な、なにすんのよ!」
水面から顔をあげて見上げれば、自分を突き落とした少女はひどく真顔で。
「ねえ、別に水泳をやめたって、胸は大きくならないよ?」
見透かされた、と康子は思った。
もちろん、水泳をやめたぐらいで体形が変わるとは思っていない。だが、水泳選手として理想的な自分のプロポーションを見るたび、もしかして泳いでばかりいるから、自分の体が水中に適応した結果、それがこの体形なのではないかと、ばかばかしいほど真剣にそう思えてしまうのである。
そんな悩みの一端を、いま、ズバリと言い当てられた。驚きに身をすくめて、康子は美空の顔を見る。こんなばかばかしい悩み、美空はどれほどに呆れているだろうかと、それを恐れたのである。
しかし美空は、強い瞳で康子を見下ろして、真剣そのものだった。
「ねえ、泳いで」
「え? こう?」
突然のお願いに戸惑って犬かきで水を掻くが、美空は首を横に振る。
「そうじゃなくて、真剣に……あっちまで行って、こっちに戻ってくるまで」
「ちょうど五十メートルね」
「そう。大会のつもりで、真剣に……そうね、速く泳げたら、ご褒美にキスしてあげる」
いたずらっぽく自分の唇を指さして、美空は笑った。それは康子の悩みを嗤う嫌な笑顔ではなく、澄んだ夏の空のような、まぶしい笑顔だった。