52 回復 その2
医師も看護師も去った後、井川と原田は小宮の病室に入った。
部屋をカーテンで四つに仕切った奥の窓際が小宮のベッドだった。
「小宮、入るぞ」
井川が声をかけてカーテンを開けると、小宮は横になったまま窓の外を見ていた。入ってきた井川と原田の方を向いた小宮を見て、
「多分、もう大丈夫」
原田が安堵したようにため息を付いた。
「あの、ええと、助けてくれてありがとうございました、ですよね?」
首を傾げながら二人へ礼を言う小宮に、井川もまた首を捻った。
「いや、実は俺も何が何だか分からんのだが」
「え、分からないのに起こせたんですか? 分かってたからあんな効果覿面な言葉で起こせたのかと思ったんですけど」
「いや、分かってたのは嬢ちゃんが検査室の前での話の中で言ってた事だけだ」
コンビニで様子がおかしい小宮を通常に戻すのに、本人にとってとても好きなことかすごく嫌なことを話して感情を刺激するのが一番いいけど、趣味や好みを知らないからできなかった、と。
「だから小宮がしくじって一番後悔してるだろう事件のことで殴ってみた」
一年半程前、高校を中退して素行の悪い仲間と車上荒らしや盗んだバイクの売買で稼いでいた高木という十七歳の少年を追っていた時の話だ。
仲間のアパートに潜んでいた彼を事情を知らなかった高校時代の友人達の妨害で取り逃がし、次は少し前まで付き合っていた二つ年上の彼女の所に現われると踏んで見張っていると、読み通り明け方にやってきた。
高木は身軽ですばしっこく、アパートを取り囲んでいた刑事の包囲網から抜け出し、乗ってきたミニバイクでまた逃走した。
一度は小宮が上着の背中を掴んだのだが、高木は脱皮のように上着を脱いで逃げた。
逃げただけなら良かった。
しかし高木は逃走直後に事故を起こした。自転車で新聞配達をしていた同じ十七歳の少年をフルスピードのミニバイクではねたのだ。
新聞配達の少年ははね飛ばされて近くの家の壁に全身を強く叩きつけられ、首の骨を折って即死。高木もミニバイクから吹っ飛んでアスファルトで頭を強く打ち、ヘルメットを被っていなかったのが災いして病院に行き着く前に救急車の中で死亡した。
新聞配達の少年は母子家庭で、自分の大学進学のための費用を貯めるために働いていた。
小宮の手には暫く高木の上着の感触が残った。
あの時上着でなく身体を掴んでいたらという後悔と共に。
「で、嬢ちゃん。あんなに必死になるほど小宮が危ないって、何がどう危なかったんだ?」
井川の問いかけに原田は一度井川の方を向いたが、すぐに小宮の方へ視線を転じた。
「あんなの初めて見ました」
眠っている小宮に誰か別人の意識と感情が重なり、僅かに残っている小宮の意識と感情が無抵抗でそれと一緒に消滅しかけていたという。
「もう本当に消える寸前だったんです。でも、井川さんが怒鳴ったら小宮さんの意識と感情が急激に盛り返して、もう一つの方を引きはがしました」
引きはがされた方がもう一度被さってくるかと思い、用心して見ていたが、引きはがされたまま消えてしまった。
「本当に、何だったんだろ」
「……久住君だよ」
「は?」
「消えたのは、多分久住晴彦君の意識と感情だ」
小宮は羽崎の家に事情聴取に行って以来ずっと、自身が晴彦になって家出してから学校で飛び降り自殺するまでの日々をトレースする夢を見ていた事を話した。
「でも、これは夢じゃなく本物の追体験だったんじゃないかと思う」
同調し過ぎると絡め取られるから用心しろとあの少女に言われていたのに、似たところのある環境で育ったためかシンクロし過ぎて、危うく晴彦と同じように死まで体験するところだった。
ただし体ではなく、意識と感情が、だが。
「そんなオカルト話、俺に信じろって言うのか?」
顔をしかめた井川に、小宮は首を振った。
「俺自身半信半疑なものを、井川さんに信じろとは言いませんよ」
あの、と原田が二人の会話に割って入った。
「昏睡状態の間に久住君自身になって彼の追体験をしたのなら、久住君は本当に自殺だったかどうか分かりますよね」
教えてくださいと言われ、あれをどう言えばいいものか少し迷ったが、事実に添って「自分の意思で飛び降りた」と答えた。
「ただ、晴彦君は幻覚のようなものを見ていた。現実と折り合いがつかず色々悩んだ挙げ句、両親と宗田君達を排除すれば自分の望み通りに転生できると思い込んで、彼らを排除した後、転生するつもりで窓の外へ飛び込んだ。死ぬつもりだったんじゃない。新しい世界で生きようとしたんだよ」
「幻覚? 望み通り? 転生って何に?」
原田は想像もしなかった単語に理解が追いつかないようだった。
「鯨だよ。晴彦君は鯨に生まれ変わって、北の海で自由に泳ぎたかったんだ」
ふうと大きく息をした小宮を見て、
「嬢ちゃん、話はまたにしよう。こいつはまだ長話ができる体調じゃない」
井川がそれ以上の会話を止めた。
「嬢ちゃんも疲れてるだろう。無理は禁物だ」
とにかく今は休め、と小宮を労り、小宮の言葉を消化しきれずに呆然としている原田を促して井川は病室を出て行った。
地声の大きい井川が原田に「腹減ってないか? 食堂で何か食べるか? 奢るぞ」と言いながら去って行くのが聞こえる。
井川らしい心遣いに小宮は思わず笑みを浮かべた。
静かになった病室で、小宮は井川にも原田にも話さなかった千代子という幼い少女について思考を巡らせた。
あの子供は実在なのか。
千代子の存在があまりにも非現実すぎて、晴彦が死に至るまでの言動の追体験は、自分に境遇が似ていた晴彦を哀れに思って作り出した夢物語なのではないかと思えてしまう。
羽崎は千代子の存在について一言も語っていない。
実在するなら事件に関係ないとしても、同居家族のことくらい話すはずだ。
事情聴取に行った時に家の中や敷地内を見たが、千代子くらいの子供がいるような痕跡はなかった。玩具や三輪車、子供の靴など、子供がいる家庭ならありそうな物をひとつも見ていない。
やはり千代子は自分の幻想ではないのか。
自分の中に晴彦と共通する両親への不満があったが故に居もしない子供を頭の中で作り上げ、その少女を人ならざる者として晴彦のしでかした罪の源にし、事件は晴彦のせいではないと、引いては心の奥底に両親への悪感情を持つ自分を庇おうとしたのではないか。
千代子が幻想なら、寝ている間の晴彦の追体験も幻想だ。
つまり自分は自分で思う以上に神経が病んでしまっているのではないのか。
小宮は体を起こし、ベッドを降りた。が、足がふらついてその場にへたり込みそうになった。
寝てばかりだったせいで筋力が落ちてしまっていることに愕然とした。
とりあえずトイレまで一人で歩く。とにかく最低でも普通に歩けるようになるまで、病棟の廊下を歩いて筋力を元に戻す。
退院したら羽崎をもう一度訪ねるつもりだ。
千代子の存在を問うために。




