0歳10ヵ月 4 ―――悪夢の急襲
それは、見たこともない街でした。
栄えているわけでもなく、寂れているわけでもなく。
街の中心を通る大通り沿いには様々なお店が軒を連ね、きっと普段はそれなりに盛況しているのだろうことが窺えます。
そんな街並みが、今は紅蓮に染まっていました。
各地で広がる悲鳴と、それを嘲笑うかのように響く低い声。
パチパチと木造の家屋が燃え、あるいは倒壊していく音を背景に、怪物たちが街中で暴れ回っています。
兵士風の男たちが駆け回っていますが、もはやその程度で収集をつけられる状況ではありません。
泣きわめく子供を抱きしめてうずくまる母親は、どうすることもできずに怪物の餌食となりました。
耳にこびりつくように鮮明な女性の悲鳴と、子供の叫び声。
そして背筋が寒くなるくらいに不気味な低い声。
これはきっと―――この世界のどこかで現実に起こっている出来事。
『きゃああああっ!!』
「―――っ!?」
弾かれるようにして飛び起きた私は、荒い息を整える暇もなく周囲を見渡します。
一瞬、直前まで見ていた夢との区別がつかなくなりましたが、しかし燃え盛る紅蓮はどこにも見当たらず、ちょっとだけ胸をなで下ろしました。
けれどもすぐに、最悪な事実に気が付きます。
狭く真っ暗な寝室に、“私以外誰もいない”ということに。
『やめろ、はなせ!!』
隣の居間で、なにか揉み合うような物音と、お兄ちゃんの叫び声が聞こえてきました。
私はうるさいくらいに激しく鼓動する心臓を抑えて、混乱しきった頭を必死に鎮めて、半開きになっている居間へと続く扉に、全速力で駆けました。
そして、そこで私が見たのは……
室内を照らしているのは、地面に置かれたランタンでした。
そして、その頼りない光によってぼんやりと浮かび上がる、薄汚い小男。
無造作に生やした不潔な無精髭と、細いくせにギラギラと光る不気味なギョロ目。
右手には、小太刀のような小さい刃物を携えています。
盗賊だ。
私は直感的に、そう結論しました。
背の低い痩せた盗賊は、着衣が少し乱れたお母さんに跨るようにして立っていました。
そしてその盗賊に、お兄ちゃんは一メートルもない木の棒を持って立ち向かっています。
「チッ、うざってぇガキだぁ」
盗賊の小男は耳障りな低い声で呟くと、持っていた小太刀を振りかざします。
私が何か叫ぶ前に、「ログナ!!」という叫び声と共に、お母さんがお兄ちゃんに覆いかぶさりました。
「ぐっ……!?」
「か、かーちゃん!?」
私のいたところから見ても、盗賊の小太刀はお母さんの身体を確かに斬りつけるのが見えました。
お母さんの着ている服が裂けて、黒っぽい液体がじわじわと広がっていきます。
「だぁ、クソ。せっかくの若ぇ女が……」
そう言って、不愉快そうに痰を吐き捨てる盗賊に、お兄ちゃんが憎悪に表情を歪めました。
……でも、私が盗賊とお母さんたちの間に割って入ると、すぐにその顔は驚きに塗り替えられました。
「セ、セフィ!? おまえっ……!」
お兄ちゃんの声も耳に入らず、私は震える手でお母さんに触れます。
お母さんは背中を二十センチほど斬られていて、溢れる血がランタンの光を反射して、ぬらぬらと不気味に光っていました。
苦しそうに呻くお母さんの声を聞いていると、自然と涙が溢れてきました。
「お……おかーさん……おかーさぁんっ……!」
私はどうしたらいいかわからず、震える唇で、ただお母さんのことを呼ぶことしかできませんでした。
起きたばかりで頭が回っていないこと以前に、突然放り込まれた異常な状況の連続で、完全にパニックに陥っていました。
呼びかけながら、せめて止血をしなければとお母さんの傷口を押さえると、熱くて湿った感触と鉄の匂いを感じて、思わず吐き気がこみ上げてきます。
それでも、私の声を聞いたお母さんは、痛みに必死で耐えながら、薄く笑みを浮かべました。
「だい、じょうぶ……よ……だから、ログナ……セフィを連れて……」
「なにいってんだよ、かーちゃん!? そんなの……!」
「お父さんとの、約束……セフィだけでも……おねがい、ログナ……」
お兄ちゃんはぽろぽろと涙を零しながら、私とお母さんの顔を見比べます。
そして鬼気迫る表情を浮かべると、握っていた木の棒をさらにきつく握りしめました。
……お兄ちゃん? なに……するの?
「お? やるか、小僧?」
私の背後から、楽しそうな盗賊の声が聞こえてきました。
や、やめてよ、お兄ちゃん! そんなのダメだよ……!
しかし私が制止の声をかける前に、
「うわぁぁあああああああ!!!」
私の脇を抜けて、勢いよく駆け出したお兄ちゃんは、そのまま棒を振りかざしました。
しかし五歳児の振りかざした棒きれは簡単に掴まれて、あっさりと蹴り飛ばされてしまいます。
お兄ちゃんの弱弱しい呻き声と、盗賊の勝ち誇ったような笑い声を聞いて……私はぐるぐると回る視界の中で、後悔していました。
……私のせいだ。
盗賊なんていないと勝手に決めつけて、何も対策をしなかった。
本当なら、魔法の使える私が、一番盗賊を警戒していないといけなかったんだ。
魔法でもなんでも、対策のしようはいくらでもあった。罠を張るのでも、警報装置を作るのでも、先手を打ってこちらから探すのでも、何でも良かったのに。
今日までなにも事件が起こらなかったから、これからも永遠にそうなんだと決めつけて、平和ボケしてた。
今だって、こんなことになるまで目を覚まさずに眠りこけてたせいで、こうしてお母さんが血にまみれて……
人を傷つける威力の魔法なんて、理論を構築しただけで、実際に撃ったことなんてない。
撃つ覚悟も、心の準備も全くしてこなかった。
だって、それが必要になることなんて、ずっと先だって決めつけてたから。
だけどその怠慢が、今の状況を招いたんだ。
全部私のせいだ。
全部の責任は私にある。
……でも、責任は私にあるけど、罪は盗賊にある。
こいつがいなければ、お母さんが血を流すこともなかったんだ。
こいつがいなければ、お兄ちゃんが傷つくこともなかったんだ。
こいつがいなければ。
こいつさえいなければ。
私は、血と大量の汗を流しながら苦しむお母さんを見て。
お腹を押さえて苦しそうに喘いでいるお兄ちゃんを見て。
それから最後に、真っ赤に染まった自分の手のひらを見た。
ぐつぐつと、腹の底から溢れ出した黒いものが、私の思考を侵していくのを感じる。
「 ぐちゃぐちゃにしてころしてやる……!! 」
私は真っ赤に染まった視界で振り返り、血まみれの手を盗賊に向けた。




