5-2 奴隷商人
§ § § § § §
― 神殿の地下室にて
石造りの冷たい壁を伝う湿気と、蝋燭の獣脂の焦げる奇妙な臭いが混ざり合う。半獣人である鼠人族のナックモルは、自身の耳を伏せたい衝動§ § § § § §
― 商業都市バルハワの大通りで
ルディアは目前に広がる大通りの喧騒に圧倒され、たじろいでいた。堅牢な石造りの外門で感じた混雑など、まだ序の口に過ぎなかったのだ。さらに輪をかけて膨れ上がる人混みと、それに加え異国の言葉が飛び交う熱気に、彼女はひどい眩暈を覚えていた。
「ヴァルター! 人が多すぎだわ!」
「ああ、そうだな。ここは交易路が交わる。かなり混む」
ヴァルターが事もなげに応じるが、ルディアの視界は別の意味でも飽和状態だった。実体を持つ生きた人間たちの隙間を縫うように、無数の「未練の塊」が彷徨い、視界を埋め尽くしていた。
「……亡霊も多すぎなんですけど? この町の僧侶はなにをやっているの?」
「! え? そうなのか?? 見えないようにはできないのか!?」
「……シルヴィにも言われたわ……やってみるわ……」
霊的なノイズを遮断しようと集中し、眉をひそめるルディアだったが、足取りは覚束なかった。珍しく彼女がフラフラと千鳥足になるのを見て、ヴァルターは慌ててその細い肩を支えた。彼は慣れた手つきで彼女をエスコートし、喧騒の激しい表通りを避けて涼やかな影の落ちる裏路地へと導く。背嚢から取り出した水筒の水を差し出す。しばらくして彼女の顔に赤みが戻った。ようやく落ち着いたようだった。
「……ありがとう、落ち着いた……」
「……大通りは避けた方が良さそうだな。とりあえず、討伐者組合に顔を出す前に宿か?」
「少し休めば大丈夫よ……ねぇ、あれは?」
ルディアの視線の先、裏路地の奥で鉄格子で囲われた檻に入れられ、家畜のように移送されている鼠人族の奴隷たちがいた。
だが、それ以上に彼女の目を引いたのは、檻の傍らで振るわれる暴力だった。下卑た笑みを浮かべる奴隷商人が、檻の外からしならせた鞭を叩きつけ、執拗に「しつけ」と称する暴行を繰り返している。通り過ぎる群衆たちは、厄介ごとを避けるように目を逸らすか、あるいは見飽きた光景であるかのように、無関心な足取りでそそくさと通り過ぎていく。
「ねぇ、あれは? まるで野獣のような扱いじゃない?」
「……ああ、あいつらは……服装から見るに聖教王国のやつらだな。ここではあれが普通……でもないな。言う事を聞かない時だけ鞭打つはずだが……」
「あれが日常……リィリィは売られなくて良かったわね……」
「ああ、わりと壁の外では、外国の流儀に乗っていたはずだが……聖教の勢力が増したせいだろうな」
「気の毒なのだけれども……やりすぎだわ……」
「動けない奴隷は価値が下がるだろうに……何を考えているんだあいつは」
檻の中の男性の鼠人族の奴隷が何かを抗議すると、奴隷商人はさらに興奮した様子で、檻の中の奴隷を鞭で打ち続けていた。どうやら最初に狙われていた鼠人族の女性を庇おうとする鼠人族の男性奴隷に向け、無慈悲に鞭を打ち続けていた。
「なんだその反抗的な目は!!!」
パァン!! パァン!!!
乾いた破裂音が路地に響き渡り、悲鳴が上がる。鞭で強く打ちすぎたせいか、周囲に鮮血が飛び散る。
「……見ていられないわね」
「ああ、あれは楽しんでいるようにしか見えないな……」
「……ちょっとお話してくるわ……」
「……騒ぎは起こさないで欲しいのだが……」
ヴァルターの制止の声が届くより早くルディアは動き出す。彼女の周囲の空気が凍りついた。静かに怒気を纏いながら、スタスタと奴隷商人の元へと歩み寄る。
「ねぇ、あなた、それはやりすぎじゃない?」
「あ?」
奴隷商人は鞭を打つ手を止め、ルディアのことを上から下まで下卑た視線で舐るように見つめる。周囲の町人たちは事態の悪化を察知し、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去っていく。
「ねぇちゃん、関わらないのが吉ってもんだ。あっちに行ってな」
奴隷商人は鼻で笑い、ルディアを無視して再び鞭を振りかぶった。だがその手は全く動かなかった。鞭がどこかにひっかかったものだと振り返る。だがそこにはルディアが鞭の柄を握って睨みつけていた。ほのかに瞳が紅に染まりかかっていた。
「はぁ、下手な正義感は持たないほうがいいぜ? デグライア教に逆らう気か?」
「……デグライア教? 関係があるの? 奴隷商に?」
「ちっ、外の奴か……それじゃ……勉強代は払ってもらうぞ!」
奴隷商人が大きく振りかぶると同時に、鞭を掴まれた反動を利用し、空いた拳でルディアの腹部へと強烈な一撃を叩き込んだ。だが、鈍い音は響かなかった。ルディアは流れるような動きで、その拳を掌で軽々と受け止めていた。
「……え? あれ?」
「勉強代とはなにかしら?」
奴隷商人がどれだけ力を込めてもびくともしなかった。本能的な恐怖が商人の背筋を駆け抜ける。彼は焦り、なりふり構わず全身の体重をかけて鞭を引き抜こうともがいたが、結果は同じだった。ルディアは冷ややかな溜息をつくと、そのまま彼を路地の奥、人目のつかない袋小路の方向へと力任せにぶん投げた。人形のように放り投げられた男の体は、かなりの勢いで石壁へと叩きつけられ地面に転がる。
あまりのことに呆然とする奴隷商人だったが、慌てて起き上がり、ゆっくりと歩いて近づいてくるルディアのことを凝視した。震える手で腰から金属製の警笛を取り出し、必死の形相で口にくわえる。
(! 仲間を呼ばれる?)
ルディアはいち早く気が付き、警笛を吹き飛ばそうと横蹴りで凪ぐように水平に放つ。ただ、ほんの半歩踏み込みすぎたせいで、奴隷商人の首が三百六十度回転し、そのまま言葉を発することもなく横転してしまう。
「……あ」
ルディアが慌てて倒れた奴隷商を抱きかかえ、首を戻そうとするが、首の骨は折れ、すでに意識を手放していた。ふと彼女の背後に気配を感じると、後ろにヴァルターが立っていた。マントを大げさに広げ彼女と奴隷商の死体を、周囲の視線から隠すようにしていた。
「……もめごとは勘弁してほしいのだが……」
「そ、そうね。ごめんなさい。勢いが……靴の厚さを間違えてしまったわ……」
ヴァルターはルディアの靴を見る。たしかに旅装用で若干厚底だった。ルディアの瞳が紅に染まっているのを見ると、かなり怒り心頭だったのを察する。力加減を間違えたようにしか見えなかった。
「どうするんだそれ?」
「そ、そうね……地面を掘るわけにもいかないわね……あっちかしら?」
ルディアは近くの城壁をちらりと見る。無造作に奴隷商の死体の足をしっかりと掴む。
「え? ま、まさか?」
次の瞬間、ルディアの細い腕にとんでもない魔力が宿る。一瞬、彼女の腕の皮膚が白い鱗に覆われたかのように見えた。すると彼女はハンマー投げの要領で奴隷商の死体を振り回し、城壁の外へとぶん投げた。重いはずの死体が、まるで小石のようにきれいな放物線を描き、大人五人分の高さがありそうな石の壁の外へと飛んでいく。しばらくすると遠くで「ドサッ!」と言う鈍い大きな音が響く。
「こ、これで大丈夫よね? 城壁から落ちた……とかにならないかしら??」
「……無理があるかもしれんが……見られては無いよな??」
ヴァルターは冷や汗を流しながら周囲を見回す。諍いから逃げるように通行人が散っていたため、目撃者はいないと思いたがったが、鞭で打たれていた鼠人族の奴隷たちは驚きの表情で彼女を見ていた。
「あー、喋らないでくれるとうれしいのだが……」
ヴァルターが困り顔で釘を刺すと、鼠人族の奴隷たちは一斉に、折れそうなほど激しく首を縦に振った。鼠人族たちも何が起きたか理解しきれていないようだった。だが鼠人族の奴隷の少女の瞳は明らかに輝き、救世主を見ているかのような目をしていた。
ヴァルターは追っ手を警戒し、ルディアの手を引き、裏通りを縫うように逃げる。珍しく自由奔放なルディアが彼の先導に従順についていく。
(……聖騎士の紋章以外にも、一般常識を気にする必要があったようだな……人間の町で竜が暮らすようなものか……)
「頼むからいきなり殺すのは無しだ!」
「わ、わかっているわよ。まさかあんなに脆いなんて……」
「……くっ……普段化け物や、屈強な兵士と戦ってたからか……」
二人は目的地の「討伐者組合」、通称「便利屋」のたまり場になっている建物の近くに到着する。ヴァルターは中へ入ろうとする足を止め、ルディアの肩を掴んでそのフードを深く被せ直した。
「約束だ。組合の中では殺すのは無し、怪我くらいなら神殿や魔法の薬屋があるから直してもらえる……殺すと色々と厄介だ。大人しくしていてくれ……絡まれたら無視して俺を呼んでくれ。頼むから……」
「わかったわ……顔は見られない方が良いのかしら?」
フードの隙間から覗く、人間にとっては破格の美しさの顔。改めて見たヴァルターは一瞬、その美貌に言葉を失い、言葉を詰まらせた。
「ああ、お前は目立つ……かなりな……」
「そうなの? 地味って言われていたのだけれども……」
「……そりゃ……獣人に比べれば地味だな」
ヴァルターは隠里で見た過去の映像を思い出す。確かに彼女の故郷は見た目のレパートリーが多い、他種族混合の里だった。この街では人間が八割、獣人が二割と言ったところだ。それでも多種多様、カラフルに見える。シルヴィと彼女、それと霊のアエラ以外人間っぽい風貌をしたものはいなかった……自身の美しさの比較対象がなく、自分の価値がわからない。その認識のズレが、いつか致命的な騒動を巻き起こしはしないかと、ヴァルターは一抹の不安を抱きながら扉を押し開けた。
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に駆られながら、密かに困惑の息を吐いていた。
彼は反聖教王国組織・自由の楔に所属する潜入捜査員であった。どの国でも違法な獣人売買の温床となる疑惑が絶えない教会に、給仕係として潜り込むことには成功した。しかし、案内された地下室の広大さと、予想をはるかに超える劣悪な光景に、彼は言葉を失っていた。
「おい、聞いているのか?」
彼の意識外からの低い声で我に返る。
「はい、聞いております。ただ、あまりのことに……」
目の前に広がるのは、鉄格子で仕切られた無数の牢獄だった。だが、そこに囚われているのは人間、獣人だけでなく、人としての形を辛うじてとどめているものの、生気のない目をした異形の存在……幽鬼と見紛うような変わり果てた姿の化物たちだった。
(……これは、単なる獣人売買などという生易しいものではなさそうですね……)
ナックモルの思考は急速に回転し始める。だが、すぐ傍に立っていた屈強な肉体を持った武闘僧侶が、乱暴に肩を叩いてきた。
「お前の役目は食事を朝と夜に配ることだ。それ以外は何も考えるな」
「……あの、外に出る場合にはどうすればよろしいでしょうか……」
武闘僧侶に付き添う細身の神官が、まるで機械のように人間味のない、抑揚のない声でつぶやいた。
「外に出れるのは……何時でしょうねぇ……」
「……契約期間中は大人しくこいつらの世話をしていれば大丈夫だ」
「あ、あれ? そんな感じでしたっけ?」
とぼけるナックモルの脳裏で、神官たちの言葉の裏にある真意が浮き彫りになっていく。振り返ってみれば、募集要項からしておかしかったのだ。手続きが異常なほど簡単なわりに、提示される給金が不自然に高い。つまり、端から契約者をここから出す気などなかったのだ。追及するととばっちりを食らいそうだったので押し黙ることにした。
彼はこの地下室から生きて出られる可能性は極めて低いことを悟り、冷や汗をかきながら、従順な給仕係のふりをして情報を持ち帰るべく脱出の手がかりを模索し始めた。
(……潜入という手順にこだわりすぎましたか。武器はおろか、道具すら手元にないのがつらいところですね……)
ナックモルの視線の先には不安そうに怯え、声一つ出さない奴隷たちがいた。かれらは視線で何かを訴えかけているような気がした。ふと牢獄の片隅に視線を向けると、鉄格子の奥にいる「異形」の者たちが、どこか諦めに似た「哀愁」を放っているように感じられた。
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― 街に続く街道で……
街道にはのどかな空気が漂う。青空の下に並ぶ草原の丘が延々と続いていた。ルディアとヴァルターは鷲獅子卿の実効支配の領域に着実に近づいていた。
彼らが向かう先には中立的な立場の商業都市バルハワがあった。その都市で、装備の新調やメンテナンス、あるいは鷲獅子卿の城塞都市に潜り込むための情報を集める予定だった。彼らは、道中で野盗の襲撃から救った商人の馬車に厚意で乗せてもらい、木の車輪が石を踏むガタガタという音とともにゆっくりと移動していた。
「ねえ、ヴァルター……馬車の旅って……」
「揺れるし、尻は痛くなる……帝国産の馬車はもっといいのだが……」
「そうね、それもあるけど……なんと言うか……遅いのね……」
「まあ、そうだな。俺らの場合は普通に走った方が早い。馬に乗った方が良いかもな」
「でも、私、馬は乗ったことがないのよね……」
「ああ、そうか、深い森の場合は馬だと遅くなるからな……」
ルディアがシルヴィの魔術書をぱたんと閉じると、傷まないよう丁寧に荷物の奥へと押し込む。ヴァルターも暇を持て余していたので彼女に倣って荷物の紐を締め直した。
「すまないが、俺らはここらで降りる」
「ごちそうさまでした。御飯、とてもおいしかったわ」
向かいの席に座っていた商人たちは、突然の申し出に目を見開き、慌てて引き留めようとした。
「え、まだまだバルハワまでは距離がありますぞ?」
「そんなこと言わずに、もう少しゆっくりしていってください」
商人たちは、野盗を簡単に蹴散らしたかなりの手練れでありながら、どこか上品な物腰の「魔獣討伐者」である彼らを歓迎していた。しかも、大柄な男の方は高名な「竜討伐者」として知られるヴァルターであることにも、すでに気がついていたのだ。
だが、二人は速度を緩めない馬車の扉を自ら開けると、周囲が驚く間もなく外へと飛び降り、風を切るように走り出してしまった。
「す、すごい」
「……行っちゃいましたね……」
「さすが竜殺しのヴァルターですな」
「あの女性も美しいうえに強いとは……世の中広いですなぁ……」
商人は扉を閉め窓から彼らの行方を追う、二人があっという間に視認できないほど小さな点になり、やがて景色に溶け込んでいく様子に驚きを隠せなかった。
「それにしても……」
「あんな大きな荷物を背負ってあの速度で……」
「討伐者ってすごいんですなぁ……」
「今度から護衛は傭兵組合に頼むより、討伐組合の方がいいな」
商人たちは討伐者の圧倒的な身体能力と戦闘力に感嘆の声を上げた。だが彼らは、自分たちが偶然遭遇したその討伐者が、一般的なレベルをはるかに超越した規格外の存在であることを、まだ知らなかった。
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― 商業都市バルハワにて
ルディアとヴァルターは、地平線まで続いていた広大な草原をようやく抜けきり、目的地である巨大な石造りの外壁の前に辿り着いた。
視界を埋め尽くしているのは、都市の入り口である検問所を目指す長蛇の列だった。大陸屈指の商業都市という名に違わず、そこには色鮮やかな衣服を纏った商人、様々な毛並の獣人、異国の言葉を交わす旅人など、多種多様な種族が入り混じっていた。
初めこそ、その混沌とした活気を興味深そうに観察していたルディアだったが、いつ果てるとも知れない行列の長さと、熱気を孕んだ人の群れを目にするうちに、驚きはいつしか呆れへと変わっていった。
「随分長い行列ね……。あそこに並んでいたら、日が暮れてしまうわ」
「ああ、この町は商売で栄えているからな。近隣の町の中継地点ってやつだ。いつもこれくらいの混雑だな」
「……ええっと、ヴァルター。私たちはあそこに並ばなくていいのかしら? 入り口で兵士たちが何か厳しくチェックしているわよ?」
「ああ、大丈夫だ。ついてこい」
ヴァルターは一般通行許可を待つ群衆を尻目に、この街の常駐の討伐組合関係者や顔馴染みが利用する専用の窓口へと足を進める。そこには、都市の威信を象徴するように重厚な鎧を輝かせた兵士たちが、毅然とした態度で周囲を威圧していた。
「え?」
「おい、見ろ! ヴァルターだ!! ヴァルターが生きてやがったぞ!!」
その叫び声を合図に、兵士たちが職務を一時放棄し、怒涛の勢いでヴァルターの周りに集まってきた。規律正しい検問の列から漏れた喧騒に、周囲の商人たちからも「一体何者だ」と言わんばかりの奇異の目が向けられる。
「お前死んだんじゃなかったのか!?」
「うわ、その髪どうした? 幽鬼にでもやられたのか?」
やがて兵士たちの好奇に満ちた視線は、彼の隣にひっそりと佇むルディアへと注がれ始めた。フード越しに見える顔の一部を見て驚きが広がる。
「なんだ、珍しいな、女の連れか!」
「美人だな……もしかして嫁を見つけてきたのか?」
「へぇ……それで金を貯めてたのか……」
「これだからイケメンは……」
顔なじみの悪友たちの遠慮のない冷やかしに、ヴァルターはルディアが気圧されているのを察し、煩わしそうに手を振って兵士たちを追い払う。
「おい、お前らいいのか? そんなに持ち場を離れて、後で兵士長にどやされるんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。やべぇやべぇ……。いいかヴァルター、夜にいつもの酒場で飲んでるからな、必ず顔を出せよ!」
「おい、そこ! さぼってるんじゃない!! 神殿長の一団がお見えだぞ!!」
後方からの兵士長の怒鳴り声に、兵士たちの顔色がサッと変わった。
「みんな持ち場に戻れ!! 整列!」
「了解!」
「ちっ、到着が予想より早かったな!」
「あ、ちょっと待て!」
全員が持ち場に戻ろうとする中、一人の門兵だけが急ぎ足で踵を返して戻ってきた。彼は木の板に張り付けられた書類と羽根ペンをヴァルターに手渡す。
「忘れてた、ここに入市のサイン。あと、通行料だ。その娘の分も一緒に払ってくれ。……書き終えたら通っていいからな! そうそう、後でいいから組合に顔を出しておけよ。死亡説が流れてたからな!」
一方のヴァルターは久々に来た商業都市バルハワに違和感を覚え、兵士に質問をする。
「変な匂いが減ったな……流民が減ったのか?」
「ああ、そう言われればそうだなぁ……最近貧民街の住人が減ったかもな。この辺も乞食がずいぶん減った気がするな……」
門兵は慣れた手つきで通行料を徴収し、殴り書きのようなサインを確認すると、ヴァルターと短い握手を交わして慌ただしく持ち場へと戻っていった。
「人気者なのね」
「ああ、それなりにな。……ここは腐れ縁が多いだけだ」
門をくぐり抜けて市街地へ入ろうとした瞬間、行列の後ろで騒ぎが起こっていた。遠目にでもそれと分かる、壮麗で大所帯な集団。聖教王国アークレイアの国教である「デグライア教」の巡礼団が接近していたのだ。前後を銀の鎧に身を固めた騎兵で厳重に固め、長蛇の列をなす商人たちを撥ね退けるように、黄金の装飾が施された豪華な馬車が悠々と通り過ぎていく。
さっきまで兵士たちに不平を漏らしていた商人たちも、その馬車の紋章を見るなり慌てて道を開け、最敬礼で頭を下げた。馬車の窓からは、神職らしき恰幅の良い人物が、慈愛に満ちた微笑をたずさえて、にこやかに手を振り続けていた。
「あれは?」
「ああ、この街の神殿長だな。名前は……なんていうんだろうな……神殿長?」
「……デグライア教よね?」
「そうだな。聖教って言われているやつだな……この地域でも影響力があるな」
ルディアは怪訝な表情を隠そうともせずにヴァルターの肘を軽くつつき、周囲の喧騒に紛れ込ませるように小声で囁いた。
「ヴァルター。隠している方の目で見て」
「ん? ああ、この町ではこの目がばれたくはないんだが……」
ヴァルターが他の人間から見えないようにフードで顔を隠し、眼帯を軽く上げる。紅の瞳に映ったのは予想だにしない光景だった。
「……マジか……」
「ろくでもないことをしてそうね……あの人」
幽世を見通す瞳には、神殿長が乗る豪華な馬車に群がり、怨嗟の感情で付きまとう無数の怨霊たちの姿が見えていた。その負のエネルギーは黒い霧となって馬車を包み込んでいるように見えた。恭しく道を開けて一礼をする獣人たちの中にも、本能的な異変を感じてか、青ざめた顔で馬車を凝視する者が数人混じっていた。
「聖職者なのに『アレ』が見えてないのか……」
「あら? あなたもついこの間まで見えなかったじゃない?」
「……確かに……」
「人間は、神に仕える身でも見ることができないのかしら?」
「……僧侶は見えるはずなのだが……そう聞いているが……」
ヴァルターは疑念に包まれながら眼帯を戻すとフードを整える。そして何事も無かったかのように門を通り過ぎていく。ルディアは目前に広がる街の光景に不安に駆られたのか、無意識のうちに彼の服のすそを小さな手でぎゅっと掴んでいた。
(……まるで、迷子にならないように……まだ子供だな……)
「あの、随分と……大きな街ね」
「ああ、栄えているだろう? 獣王国側でもこの規模の町はあるだろう?」
「ええ、あるらしいけど、行ったことはないの」
「……もしかして、大きな街は初めてか?」
「そうよ……人が多すぎるわ……霊もすごい多い……」
「あ~そうか、この人混みと、さらに霊が見えるのか……困ったな」
ヴァルターは、まだ大通りにすら出ていない段階でこの反応か、と前途多難な予感に頭を抱えた。いつもは凛として、死神のような冷徹ささえ見せるルディアが、今は怯える小動物のように周囲を窺っている。
だが、ルディアの瞳が捉え、不安にさせているのは、単なる人の多さだけではなかった。
ルディアの幽世を見渡せる瞳には、この町の一部が黒くよどんでいるように見えていた。彼女はこの町全体が怨霊に包まれているような「異様な空間」に見えていた。
「この街は……あまり、幸福ではない街なのかしら?」
「どういう意味だ?」
「色々な、良くないモノが渦巻いているように見えるわ」
「……欲望を満たすための街……と言う側面もあるだろうな。富が集まる場所はそんなもんだな」
「欲望の街……」
ルディアは、旅に出る前に空想していた書物の中の「花の都」の雰囲気とは、あまりにかけ離れた現実の都市の印象に、深く気分を沈ませていった。
(……こんな場所で、私は本当にやっていけるのかしら……)
彼女は幸せだった……もう戻ることはかなわない隠れ里の生活に帰りたい気分になっていた。
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