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雪花と陽奈梨


 廊下にはすでに陽奈梨の姿はない。

 当然だ、雪花は少しの間放心していたのだから。

 エレベーターを見ると、上昇している最中だった。

 雪花の住む五階と、陽奈梨の住む八階。

 このくらいならば階段で駆け上がった方が速い。


 必死で階段を駆け上がり、八階の陽奈梨の部屋の前に辿り着く。

 わずかに息が上がっていたけれど、雪花は構わずインターホンのボタンを押した。

 陽奈梨は出てこなかった。

 何回か押してみて、それでも陽奈梨が顔を出そうとしなかったので、雪花は覚悟を決めた。


「陽奈梨! 俺の返事、ちゃんと聞いてほしいんだけど!」


 近所迷惑になるだろうか。

 平日だし、昼間だから、両隣の部屋が留守だといい。

 そう願いながら、雪花は言葉を続ける。

 陽奈梨と根比べをすると、いつも雪花が負けてしまう。

 かわいい顔をしているけれど、陽奈梨は結構我慢強いし、何より雪花は陽奈梨に弱いから。


 でも今日だけは。今だけは。

 絶対に譲ってはいけない、と雪花の心が叫んでいた。


「返事は分かってる、とか! 勝手に決めつけんな! 俺がどれだけ…………、どれだけ陽奈梨のこと好きだって思ってるか、知らないだろ!」


 言葉がいつもより強くなってしまったのは、どうにかしてこの気持ちを伝えようと必死だからだ。


 頰も、耳も、身体中が熱くて堪らない。

 雪花の叫びも虚しく、陽奈梨はドアを開けようとはしなかった。

 すぐに追いかけてこなかったから、信じてもらえないのかもしれない。


 幼い頃、陽奈梨のそばにいた雪花の気持ちを、同情でもいい、と言ったように。

 今ももしかしたら、雪花のこの言葉を、同情の類だと思っているのかもしれない。


 確かに初めは可哀想だと思った。

 親がいないから、とびきり優しくしてあげなくちゃ、と。

 でも雪花が優しくすると、陽奈梨は太陽みたいにきらきらと笑うから。

 好きになっていた、どうしようもないくらい。


 陽奈梨を好きだという言葉に嘘はない。

 雪花だって、ずっと陽奈梨のことが好きだったのだ。

 自分の幸せを捨て置いてでも、陽奈梨の幸せを一番に考えられるくらいには。


「俺だって陽奈梨がずっと好きだったよ……! 陽奈梨は手の届かない存在だって思ってたから、言えなかったし、言うつもりもなかったけど、好きなんだよ…………!」


 どんな言葉なら、陽奈梨の心に届くのか。

 必死に頭の中で検索しても、見つからない。


 陽奈梨といえば、太陽、それからひまわり。

 アイドル。メンバーカラーはオレンジ。

 甘いものが好き。

 新しいこともなんでも挑戦する。

 目はきらきらしていて、つやつやの長い黒髪。

 大人っぽい髪型と浴衣姿で、無邪気にはしゃぐ姿。

 たまに見せるあざとい仕草。

 かわいい? と上目遣いに訊ねてくる、陽奈梨。


 雪花はハッとした。

 好きだという気持ちがバレてしまいそうでこわくて、ずっと言えなかった言葉。

 でも今は告白をしているのだから、言っても問題ないのだ。


 それでもいざ口にしようとすると、恥ずかしくて堪らなかった。

 好きだと伝えるよりも、なぜかずっと恥ずかしい気がする。

 ドアのすぐ向こうに陽奈梨がいなければきっと聞こえない、さっきよりもずっと小さな声で、雪花はその言葉を紡いだ。


「お、れは…………世界で一番、陽奈梨がかわいいって……そう思ってるし」


 信じてよ、と続けようとしたのに、雪花の近くでごとん、と何かが落ちる音がして言葉を飲み込んだ。

 ドアの向こうではない。

 雪花が今いる、八階の部屋のドアが並ぶ通路。

 そこに、目を丸くした陽奈梨が立っていた。



「…………え、陽奈梨……?」

「ゆ、雪花くん………………?」


 陽奈梨の足元にはビニール袋が落ちている。

 袋から顔を出しているのはペットボトルやヨーグルトやプリンで、まるで今コンビニから帰ってきたようなラインナップだった。

 鏡を見なくても分かる。

 雪花の顔は、間違いなく真っ赤に染まっていた。


「えっ、あれ? もしかして追いかけてきてくれたの? えっ、私、気持ち落ち着けようと思って、ちょっと一階のコンビニに行ってて」


 いつもより早口の陽奈梨が、慌てた様子で状況を説明してくれる。

 確かにこのマンションの一階にはコンビニが入っていて、とても便利だ。

 雪花も何度もお世話になっているので、そこに文句はない。

 しかしまさかこのタイミングで家に帰らず、コンビニに寄っているとは思わなかったのだ。


「………………待って、すごい恥ずかしい」


 つまり雪花は、誰もいない部屋のドアに向かってずっと言葉を投げかけていたのだ。

 しかも、内容は完全に愛の告白。

 穴があったら入りたいとはまさにこのことだろう。


 赤い顔を隠すようにドアの前にしゃがみ込む雪花に、足音がゆっくり近づいてくる。

 すぐ隣で誰かが座る気配がした。

 誰かなんて、考えなくても分かる。陽奈梨だ。


「ね、雪花くん。さっきの、もう一回言って?」


 やわらかな声が、雪花の鼓膜をくすぐる。

 お願い、と甘えるような声を出されてしまえば、雪花はすぐにお手上げなのだ。


「…………好き、俺も陽奈梨のこと、好きだよ」

「うん、知ってる。それも嬉しいけど、そうじゃなくて」


 知ってるのかよ! と叫びたくなる気持ちを抑えて、膝に埋めた顔を少しだけ上げて、陽奈梨を見つめる。

 いつだって陽奈梨の笑顔を見てきた。

 とびきり楽しそうで、明るくてきらきらした、弾けるような笑顔。

 今まで見てきたどんな表情よりも、優しく甘い笑顔で、陽奈梨が雪花の名前を呼んだ。


「ね、雪花くん」

「…………ん、」

「かわいいって思う?」

「……思うよ」


 さっきまではドア越しの陽奈梨に気持ちを伝えようと必死だったのに。

 陽奈梨が雪花の気持ちを知っていると分かると、言葉にするのが恥ずかしくなる。

 好きっていうよりもかわいいと口にする方が難しいなんて、おかしな話だ。


 でも、ずっと想像していた。

 いつか陽奈梨が好きな人の隣で、幸せそうに笑う、そんな未来を。

 叶うならばそのときに、雪花も近くにいられたならば、とそんなことを思っていたのに。


 陽奈梨は今、とても幸せそうに笑っている。

 他でもない、雪花の隣で。

 

 胸の奥が熱くなる。

 もしも、雪花がその言葉を口にしたら、陽奈梨はどんな顔をするのだろう。

 今見せてくれている幸せそうな表情よりも、もっと笑ってくれるのだろうか。


 緊張しながら、雪花は再び口を開いた。


「ずっと言えなかったのはさ、…………言ったら、俺が死ぬほど陽奈梨のこと好きだって、バレちゃいそうだったから」

「そうなの? 私、知ってたのに。雪花くんが私のこと大好きだってこと」

「なんでバレてんの……」

「分かるよ。ずっと守ってくれてたもん」


 隠しているつもりだった恋心は、本人に筒抜けだったらしい。

 情けなくて恥ずかしいが、陽奈梨は嬉しそうなので、それならばいいか、という気持ちになってしまう。

 やはり雪花は陽奈梨に対して甘いのだ。


「ずっと…………思ってるよ。かわいいって」


 自分の喉からこんなにも優しい声が出るなんて、雪花は知らなかった。

 教えてくれたのは、陽奈梨だ。


 陽奈梨の大きな目が、涙で濡れていく。

 雪花の言葉を一つとして聞き漏らさないように、息を詰めているようだった。


「笑ったところも、泣いてるときも、ごはんをおいしそうに食べるところも、たまにちょっとあざといところも、全部」

「全部…………?」

「全部だよ。全部、かわいい」


 恥ずかしくて堪らないのに、それでも必死に言葉を紡ぐのは、陽奈梨がその言葉を欲しがっていると知っているからだ。


 やわらかそうな頰を伝い、どこまでも透明な涙が流れ落ちていく。

 死んじゃいそうなくらい嬉しい、と陽奈梨が言うので、雪花はその濡れた頰を摘んで引っ張った。

 陽奈梨の頰はやっぱりやわらかくて、よく伸びた。


「死んじゃいそうとか言わないでよ」

「うん、死なない。幸せだもん、死ねないよ」

「俺がずっと……一生、陽奈梨のこと、守るからさ」


 今までも、今も、たぶんこれから先ずっと。

 大好きだよ。


 そう言ってくれた陽奈梨への、告白の返事。

 俺も好きだよ、じゃ伝えきれなかった。

 かわいい、だけじゃ終わりたくない。

 そう思った雪花なりの、精一杯の気持ちを込めた言葉。


 陽奈梨は涙で濡れた目をまたたかせ、それから「うん!」と嬉しそうに笑った。


 太陽だって霞んでしまうほど、眩しい笑顔だった。




 赤い屋根の家がいいと言ったのは陽奈梨だった。

 二重島に住んでいた頃も赤い屋根だったね、と雪花が言うと、「そうなの、だから家って言ったら赤い屋根のイメージなんだ」と笑った。


 山神様のため、なんていうふざけた理由で、島姫を殺して埋めていた二重島の住民たち。

 一歩遅ければ、陽奈梨だってその被害者になっていたのに、彼女は「二重島でいい思い出もたくさんあったから」と笑うのだ。

 雪花が同じ立場だったら、思い出すのも苦痛かもしれない。

 思い出に蓋をして、なかったことにしてしまうような気がする。

 辛く苦しい思い出も、幸せな思い出も、まとめて受け入れてしまう陽奈梨は、すごく強いと思う。


「雪花くーん、ただいま!」

「おかえり、陽奈梨。一人で大丈夫だった?」

「うん! タクシーで移動したから!」

「ごめんね、うんざりするくらい書類が溜まってて」


 雪花の目の前には、大量に積まれた書類の山。

 今どき紙かよ、と思わなくもないが、紙にはデータ管理とは違う良さがあるらしい。

 基本はデータでやり取りをして、バックアップも取っているが、万が一を考えるとやはり紙に印刷して残しておく、という方法が安心のようだ。


 芸能界を引退して一年ほどは休んだ。

 アイドルをしていた間はとにかく休みがなかったので、休みを取り戻すように陽奈梨とたくさん旅行をした。

 女装をして活動していた雪花はともかく、陽奈梨は有名人なので、顔を隠すようにしていたけれどどこに行ってもバレてしまった。

 一方の雪花も、「ユキちゃんだよね? 髪すっごく短くなってる! かっこいい! 男の子みたーい!」と声をかけられることが度々あって、ヒヤヒヤしたものだ。


 雪花は今、二重島支援プロジェクトの一員として活動している。

 島民が全て本島に移住し、多くの調査が行われた。

 悪しき慣習が再び繰り返されることのないよう、政府の監視下で、二重島にもう一度人が住めるような環境作りを目指す。そんなプロジェクトだ。


「ところで陽奈梨、行き先はまだ内緒って言ってたけど、どこに行ってきたの?」


 リビングに飾られたひまわりの絵。

 その真下にある本棚に、陽奈梨が本をしまう。

 どうやら出かけている間に読み終えてしまったらしい。


「ん? 病院だよ」

「えっ、病院!? どこか調子悪いの?」


 慌てて立ち上がったせいで、雪花の膝がテーブルにぶつかり、書類の山が崩れ落ちた。

 しかしそんなことはどうでもいい。

 陽奈梨の体調が悪いというのなら、仕事なんてしている場合ではないのだから。


「ううん。あのね、六週目だって!」

「ん?」

「赤ちゃん」


 陽奈梨が笑う。

 やわらかく、幸せそうな表情だった。


 赤ちゃん、という単語と、六週目、という言葉が結びつくのに、少し時間がかかった。

 数秒後、意味を理解した雪花は、驚きのあまり固まってしまった。


「あれ? おーい、雪花くーん?」


 陽奈梨が雪花の顔を覗き込み、嬉しくなかった? と不安そうな表情をするので、雪花は慌てて声を上げた。


「嬉しいに決まってるじゃん!」

「ふふ、よかった!」


 ご機嫌な様子の陽奈梨を、急いで椅子に座らせる。

 身体を冷やさないように膝にブランケットをかけると、陽奈梨はころころ笑った。


「雪花くんは絶対いいパパになるね!」

「うわぁ……パパ、パパか……! えっ、男の子かな? 女の子?」

「気が早いよぉ、まだ分かんないって!」


 でも、と陽奈梨が優しい声で呟く。


「男の子でも、女の子でも、どっちでも嬉しい」


 性別なんて関係ない。


 男に生まれたら島の娘を殺して山に埋める罪を背負わなければならない。

 女に生まれたら、島姫として殺されるかもしれない。

 

 雪花たちは、そんな心配をしなくていいのだ。

 二人は、いや、二重島の住民はもう、みんな解放されたのだから。


「女の子だったら名前はやっぱり向日葵かな? 男だったら……太陽?」

「ふふふ! 気が早いってば!」


 雪花の言葉に、陽奈梨が笑う。

 陽奈梨の白く細い手を握り、雪花も笑い返した。


 一生守る、と決めた大切な人。

 今日、守りたい人が二人に増えた。

 彼女のお腹に宿った小さな命も、どうか無事に育ちますように。

 そう願いながら、陽奈梨と目を合わせる。


 雪花の大好きな、太陽のような笑顔で、陽奈梨は笑った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 最終話まで、拝読しました。 冒頭から引き込まれる掟と謎。主人公の雪花は村の闇を知っているからこその行動だと思わせてくれる綿密な描写でした。 ここが秀逸だなと思わず唸ったのは「人の心を折る…
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