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11.3 出会わなければよかった

 窓から差し込む陽光に温かみを感じるようになった頃、侑生が文を携えて珪己の元にやってきた。「玄徳様からです」と。侑生がこの室に入るのも久しぶりのことであった。


 だが珪己はその知らせに喜ぶどころか、文に手を伸ばすことすらしなかった。熱が下がっても、こんな風に一日中ぼんやりと無気力に過ごしている。我が子にも会おうとせず、この城を抜け出して仁威の消息を自ら確かめようともせず、与えられた室内で静かに横たわっているだけだった。


 心が動かないのだ。


 悲しいのだが、本当に悲しいのかといえば違っている。何が起こったか理屈ではわかっているが芯から理解しきれていない……そんな感じだ。外部からの刺激を緩和するために薄い膜のようなものを頭からすっぽりかぶっているような気分でもある。違和感はある。だがそれを本人はどうにかしようとも思えずにいる。


 正直に言えば……何も考えたくなかった。ただぼんやりと過ごしていたかった。このまま体調が戻らなくてもいいとすら思えている。一歩も歩けなくなってしまったっていい。指の一本すら動かすのが億劫になってしまっている。


 反応を見せない珪己に対して侑生は嫌な顔一つしなかった。それこそが珪己にとっての己が心を護る唯一の手段だと察しているからだ。


「開陽に戻る日も決まりました。五日後です」


 珪己はいまだ何の反応も示さない。薄目で向こうの壁を見やっているだけだ。自分には関係のない話だと思い込もうとしているふしすらある。ただ、「玄徳様も珪己殿との再会を心待ちにしていますよ」という侑生の言葉には反応した。


「今……なんて言いましたか」


 その首を侑生にゆるりと向ける。

 うつろだった珪己の顔にじわじわと感情が浮かんでくる。

 その感情の名は――怒りだ。


「どうして私が開陽に戻らなくてはいけないんですか……!」


 ぐっと、腕に力をこめて珪己が上半身を起こした。


「私はここにいます! 仁威さんと暮らしたこの地でこれからも生きていきます!」

「珪己殿……」


 侑生が息を飲んだ。


 だが驚いたのは珪己の怒りの強さに対してで、珪己がそう言って拒むことは想定の一つだった。


「珪己殿。残念ですが珪己殿はもうこの街で暮らすことはできません」

「何を言っているんですか? 侑生様は知らないでしょうけど、梁晃飛さんは私の義理の兄なんですから! この街で晃飛さんと兄妹になって、それからずっと私は晃飛さんの家に住んでいたんですから!」


 確かにこの城に長くいすぎた自覚はあるが、それがこの街を出ていくことにはつながらない。無気力ゆえにとどまっていたが、そのようなことを言われるくらいならもうここにはいたくなかった。


「私はあの家に戻ります」


 言い切った珪己に侑生が小さく首を振った。


「梁晃飛の家はあの騒動で全焼しました」

「……え?」


 突きつけられた現実は予想以上のものだった。だがあの家が失われた可能性については珪己もある程度覚悟していた。この街の建物の一割が全焼したというのだ、街の中央に位置するあの家が無傷である方が奇跡だ。


 その本当のところをこれまで誰にも尋ねずにいたのは……まさかあの家にそんな不運な出来事が起こるとは思えなかったせいだ。自分に関することにこれ以上の不運が起こるなど、到底思えなかったのである。


「だ、だったら他の家を捜してそこに住みます」

「この街には今、珪己殿が住めるような家はありませんよ。今晩の寝る場所を確保できずに野宿する者も大勢いるのに、金子も伝手もない子連れのあなたに家を貸すような人間はいません」

「私と子供だけじゃありません。晃飛さんも一緒です!」


 とっさに言い返した珪己のことを、侑生は悲しみをこめて見つめている。


「その晃梁飛ですが、彼はすでにこの街から去りました」

「…………嘘だ」


 長い時間をかけて珪己がやっと言えたことはこれだけだった。


「嘘です……。そんなの……嘘です……」


 あの家がなくなってしまったことは受け入れよう。

 だがそれは……いくらなんでもありえない。


「晃飛さんが私を置いていなくなるなんて、そんなことあるわけないっ……!」


 あの晃飛が自分を捨てた――?


「絶対に私を護るって約束してくれていたのに、そんなことっ……!」


 あの晃飛が黙っていなくなった――?


「そんなこと絶対にあるわけがない……っ!」


 仁威が亡くなった今、『あの晃飛』が自分を置いていなくなるなど――絶対にありえない。


 だが珪己は高ぶりながらも頭の片隅で思った。『あの仁威』が亡くなるくらいだ、絶対なんてものはこの世には存在しないのかもしれない……と。


(そういえば……晃飛さんは私に会いに来てくれていない)


 確かにこの州城は市井の民が簡単に足を踏み入れられる場所ではない。だがあの晃飛ならばどうにかして自分に会おうとするだろうし、侑生ならばそんな晃飛に入城の許可を出すことをいとわないはずだ。


「晃飛さんに会わせて……」


 珪己はうめくように一つの願いを口にしていた。


「お願い……。晃飛さんに会わせて……」


 羽織りの襟元をきつく握りしめ、絞り出すように言い募る。


「お願い……します……」


 だが侑生も同じ言葉を繰り返すばかりだった。


「珪己殿。彼はもうこの街にはいないんです」

「……どうして? どうしていなくなってしまったんですか?」


 これに侑生が少し迷いつつも答えた。


「あの騒動で目が見えなくなってしまったからです」

「目が……?」

「ええ」


 さらなる衝撃に茫然とする珪己を気にしながらも、「彼は以前から目をやられていたそうですね」と侑生が付け加える。


「でもそれは片方だけで……!」


 思わず声をあげた珪己に侑生が遠慮がちに言った。


「片方といっても、失えば相当な痛手なのですよ」

「…………あ」


 失言した――と気づいた。


「すみません。珪己殿を困らせるつもりはないのですが」

「私の方こそ……すみません」


 押し黙った珪己に気を使いつつ侑生が話を続けた。


「彼のことで、彼よりも彼の母親が非常に参ってしまったようです。なので母子でこの街を離れることに決めたそうですよ。この街にはいい思い出は何もないからと」


 出会わなければよかった――そんな風にあの親子に言われた気がして、珪己はぐっと唇をかんだ。


(晃飛さん……!)


 ここ零央での生活は晃飛の存在なしには語れない。


 屯所の前で出会って以来、無知なお嬢様である珪己をからかいつつも、晃飛は決して珪己を見捨てようとはしなかった。恋に悩んでいたら背中を押し、予期せぬ妊娠が発覚した際には珪己の意志を第一に尊重した。それから子供を産み、仁威と夫婦になり――それ以降も晃飛は実の家族にも引けを取らぬ献身を珪己に示していた。


 だから――ずっと一緒にいられると珪己は思っていたのだ。仁威と、子供と。それに晃飛と。あの家でも、あの家でなくても、ずっとずっと一緒にいられると思っていたのだ。たとえともに住めない時があろうとも、繋がりは消えない。義兄妹の絆とはそういうものだと思っていたのだ。


(そういうものだと……思っていたのに……)



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