16.
クロはレネを家まで送り届け、アパートメントへ帰る道すがら、佳子の隣人に出くわした。
「よお」
軽く手を挙げて挨拶をすれば、隣人は驚いたように目を丸くした後、いつもの如く柔らかい微笑を浮かべた。
隣人は波打つ栗褐色の髪を顎先で切り揃えた、二十代半ばほどの青年だった。容貌は女が好む整った卵形で、下唇の方が僅かに厚い、珊瑚珠色の唇が青年の黒い肌によく映える。
「貴方が此処に顔を見せるなんて珍しいですね。明日の天気は大雨だと思ってもよろしいでしょうか?」
「相変わらず失礼な奴だな」
「だって本当の事でしょう。ステファノの店と湖〈古〉城の主の間を行ったり来たりする以外、貴方はほとんど地下に潜っているじゃないですか。ほら、地下の生き物が地表に出てきたら雨が降るって言うでしょう」
「本当に失礼な小僧だな」と、クロは失笑した。
「ったく、そんなに可愛げがねえと助けた甲斐がないってもんだ」
「助けられた記憶もありませんけどね」
「新居を紹介してやっただろう」
「それは感謝しています。おかげで稼業から足を洗えたのでね。でもそれは貴方にとって人助けと言うより、ただお節介を焼いただけなんでしょう」
青年がクロを見下ろす。愛嬌のある垂れ目は笑みの形をしているに拘らず、切れ目から覗く黒瞳は冷ややかだ。
クロは反論しない。
青年が薄く唇を開く。
「だから魔法使いは嫌いなんだ」
嫌悪を露わにした言葉を受け、ひょいとクロは肩を竦めた。
「だからいつだってお姫様は王子様と結ばれるんだ。違うか?」
今度は青年が沈黙した。暫し黙考した後、青年は問う。
「俺に一体、何の用ですか?」
「新しいお節介を焼いてるだけで、別段あんたに用なんてねえよ」
「そうですか。では、失礼します」
先にアパートメントの階段を登っていく青年の背中を眺め、クロは思い立ったように声を掛けた。
「なあ。まだ諦めてねえの?」
青年は立ち止まった。
「俺が諦められるとでも?」
「摂理は変わらない。咲く花は枯れ、熟した実は墜ちるが法。全ての物事が生から死へと向かうように、時の流れは決して逆行し得ない」
「摂理そのものを否定するような超常的存在が何をほざく。不可能なことなんて、この世には存在し得ない。永い時の中、先人たちがひたすら捲ってきた知識と言う名の物語は、他の物語がそうであるようにいずれ必ず終焉を迎える。俺は最後の一頁を捲る存在になってみせるだけだ」
そう言い返して、階段を登り終えた青年は通路を進み、部屋の中へと姿を消した。
クロは青年の部屋の扉を長いこと見つめていた。その顔は一切の表情が削ぎ落とされ、まるで能面のようであった。ややあってクロは呟く――「哀れな」と。




