15.
店の看板が裏返され、閉店中となる。
裏口から繋がる小路は表通りとはまた異なる風情だった。道幅は塀により狭まれ、塀の向こう側には樹木が生える。白日によって眩いばかりに世界は輝き、彼女は光の洪水の中に浸る。ーー異国情緒溢れる幻想的な風景も相俟って未だ我が身の置かれた状況は現実味を帯びない。
私服に着替えた佳子は制服の入った紙袋を持ち、クロと並んで小路を歩いていた。
「あんた、泊まるところないだろ。安い部屋を紹介してやるよ」
「ありがとう。でも、お金が……」
佳子の全財産は一万円。前借りは話題を切り出すことさえ許されなかった。この手持ち金では部屋を借りることはできまい。妙に近代化した部分が見受けられる世界だ。もしネットカフェやビジネスホテルに近いものがあったとしたら、それで済まそうと思っていた。
「宿屋は毎日金を払わないといけねえし、部屋を借りた方がいい」
「でも」
「どうせすぐには帰れねえんだ。拠点は決めといた方がいいだろう」
クロは断言した。
(そうなんだろうなあ)
佳子は気落ちした。ーー彼の方に妾を弑させよ。彼の方とは誰か。妾とは何者か。そして佳子が何を願ったのか。誰かにあの女の人を殺させることも、旧き神々とやらに目をつけられるほど強く願ったことも、分からなければ全てが不安と恐怖の対象であった。ただ今は万事が良き方向へ進むことを祈るしかない。
「何だよ。急に大人しくなったな」
「うん……クロの言うことは正しいよね。部屋の紹介、お願い」
「任せておけ」と、クロは軽く請け負った。
塀に囲まれた小路を進んでいく。矢印型の標識が角毎にあり、佳子はクロが指差す通り名を必死に頭へ叩き込んだ。
(メモ帳、買わなきゃ)
だが手持ち金はたった一万円。しかも明日は休みだ。日用品さえ満足に買い揃えられぬだろう。開店十時前に働ける場所、たとえば新聞配達などの職を探して、早急に経済的基盤を築く必要があった。
五つ目の角を曲がると、塀は家壁へと変わった。庭のない、小ぢんまりとした家々が整然と建ち並ぶ。落ち窪んだ押し上げ式の窓は少しだけ押し開かれ、漏れ出る笑声や漂う昼餉の匂いが郷愁の念を掻き起こし、胸を締め付けた。
「ほら、着いたぞ」
クロが指し示したのは二階建ての、横に細長いアパートメントだった。真っ平らな屋上が見る者に無骨な印象を与える。
クロは隣家の呼び鈴を打ち鳴らした。「はい」と、女の声が答える。扉を開けないまま女が誰何する。
「俺だ」
「ちょっと待って」
扉の向こうから鍵が外される音がした。扉が開き、女が顔を出す。黒髪の、ふくよかな身体つきをした中年女性だ。
「魔法使いさん。こんばんは」
女の目尻に笑い皺が寄る。
「隣の家、空き部屋ができたって言ってただろう。こいつを入れてくんない?」
中年女性が佳子へ顔を向ける。
「あら。可愛い子ね。初めまして、あたしはレネよ。大和の若い娘さんがこの土地に来るなんて大変だったでしょう」
「初めまして。菅原佳子と申します」
佳子はそう挨拶を返した。ころころと、レネは満足そうに笑った。
「まだすれてない子なのね。大歓迎よ。ちょっと待ってて鍵と誓約書を持ってくるから」
ぱたぱたと軽快な音を立てて、レネが家の中へ戻って行った。待つこと僅か、主婦姿に合わぬ書類鞄と鍵束を手に持ったレネは戸締りを済ませると、佳子とクロをアパートメントの空き部屋へと案内した。空き部屋の位置は二階の角部屋と言う好条件だ。
「ここよ。家賃は四万円。その月中なら何時でも都合のいい時に払ってちょうだい。但し、滞納は許さないわ。〈死の使徒〉の名を借りての誓約も結ばせてもらうわよ」
部屋の鍵を開けながら、レネが淡々と約束事を紡いでいく。曰く、レネはアパートメントの住人同士のいざこざの仲裁をしないこと。曰く、部屋や家具を破損したとき修理費を自腹で払うこと。曰く、部屋を出て行くとき一日でも次の月に差し掛かっていたならばその月の家賃も払うこと等々。両手でも足りぬほどの約束事は相手を慮ることなく綿々と紡がれ続け、佳子の脳が沸騰しかけたとき漸く終わりを告げた。
「以上。分かったかしら?」
「いえ、あの、できたら紙に書いてもらえませんか?」
「あら。あなた、文字が読めるの? それなら早く言って貰わないと、後から目を通すのに約束事なんて延々と聞かされ続けて飽き飽きしたでしょう」
そうレネはころころ笑った。文字が読めることを驚かれるとは、この世界の識字率はさほど良くないらしい。
レネの口が止まり、佳子は落ち着いて室内を見渡した。ベランダのない1LKの部屋だった。不満があるとすればバスとトイレが同室であることくらいで、寧ろ一人で暮らすには手頃な広さなのかもしれない。
白壁が基調で、所々に煉瓦が嵌められ、お洒落な内装となっている。ガス台や食器棚は分かるが、食器や調理器具まで揃っていることに佳子は驚いた。
素直に驚きを口にすると、
「それは前の住人の物よ。邪魔なら処分すればいいし、使いたいなら貰っちゃっていいわよ」
とレネが答えた。
「いいんですか?」
佳子は目を輝かせた。金銭的な余裕がない現在、少しでも無料で物が増えることは喜ばしいことだった。
「いいのいいの。どうせ死人には物なんて必要ないからね」
(死人って!)
「いえ。辞めておきます」
と、佳子は吟味していた食器を棚に戻した。
「貰っときゃいいじゃん」
部屋の入り口で大人しく佇んでいたクロが口を開く。
「だって、亡くなった人の物を勝手に自分の物にするなんて……」
(幾らなんでもそれはなあ)
佳子の態度を見て、クロが首を傾げる。
「当たり前なことなのに、何を躊躇っているんだ。死人は物を必要としないんだし、所有者がいなくなった物は新たな人手に流れるもんだ。それを最初に掻っ攫ったって誰も文句は言わねえぜ」
クロはレネに訝しく思われぬ内に後で処分するにしろ、今は物を貰っておけと言外に告げる。佳子は一瞬躊躇った。しかし、勝手の分からぬ異界において、原住人の意見に従った方が賢い選択だと、最終的にクロの言い分に大人しく肯いたのだった。
久し振りの投稿となったことをお詫び申し上げます。




