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13.

 クロが厨房に入ると、佳子が室内を徘徊していた。

「何やってんの?」

 クロが怪訝そうに訊ねると、「あ、クロ」と、少年の存在に漸く佳子が気づいた。棚を漁りながら彼女は答える。

「おしぼり探してるの」

「おしぼり? 何それ?」

「ほら、飲食店で出す手を拭くための布巾のことよ」

 行儀悪く調理台に腰掛け、クロはおしぼりとやらを探す佳子の後ろ姿を眺める。

「そんなサービスしてる飲食店なんてここら辺にはねえぞ。ところでさ、あんた、ここで水の用意するとか言ってたけど何すんの?」

「お客さんにお水出さないの?」

 佳子が振り返った。黒い目を丸くして、不思議に思っている様子だった。

 対するクロはにやにやと腹に一物ありそうな顔をしている。

「注文されてないのに出すのか。中々にあくどいな」

「どこがあくどいのよ。当然の事でしょう」

 佳子は心外そうに眉を顰めた。クロは笑みを深めた。

「客が手えつけたら、すかさず水代を請求すんだろ。これのどこがあくどくないんだよ」

 佳子が首を傾げた。

「何言ってるのよ。水は無料に決まってるじゃない」

 「は!?」と、クロは素っ頓狂な声を上げた。これだけ大げさに驚かれれば、佳子も文化の違いという隔たりに気がつかずには居られなかった。

「ここでは水、無料で出さないの?」

 クロは肩を竦めた。

「水溜まりの水やら河の水なら無料だけど、綺麗な水は有料だ」

「どうして?」

「どうしても何も、綺麗な水は浄水場からしか供給されねえ。俺らはそこに金払って水道通してるんだし、水をやるんなら金を貰わなきゃ割が合わねえだろ」

 ふと、佳子は疑問に思うところが在った。

 以前、クロは司法機関も警察も機能していないと言っていたが、それ以外の法人・公営事業を誰が担っているのだろうか。

 それを問えば、クロに舌打ちを返された。

「面倒くせえところに気づきやがって」

 佳子はむっとして口を尖らせた。

(何よ、嫌なら別にいいわよ)

 そう思って口を開けば、ご丁寧な解説が時宣よく始まった。

「電気だの水だのガスだの、生活に欠かせないあらゆるものは、区画で勢力の在る連中が余所から買い入れて振る舞ってんだ」

 クロが佳子を手招いた。佳子は少年の傍へ寄った。

 クロが隣の流し台を向き、蛇口を捻る。流水に指先を浸し、奇妙な線を幾つか調理台に描いていく。

「区画は全部で七つ。河が境界線になってるから、橋を渡らない限り余所へは行けねえ。間違っても他の区画に迷い込むことはねえだろうな。まあ、一応教えておくけど」

 そう前置きをして「ここが俺らの居る第一区な」と、少年の指が上流に位置する中洲を指し示す。第二区、第三区と、指がまるで規則性なぞ存在せぬかのように複雑な移動を繰り返す。

「ちょっと待ってよ」

 佳子は堪らず声を上げた。

「ここが第一区で、それでこっちが第二区。第三区が此処で、第四区は、えっと」

 迷った挙句、佳子は第二区の左隣を指差した。「違えよ」と、クロが第三区の右隣を指差す。

「そっちは第五区。これくらい一回で覚えろよな」

 クロは呆れたようにそう零した。

「だって、規則性が見当たらないんだもの。なんで順番がてんでばらばらなのよ」

 佳子は文句を吐いた。どうせなら綺麗に番号をつければいいのにと、水で描かれた地図を睨む。

「昔から住んでねえ奴はそう言うなあ。こう見えて一応、決まりはあるんだぜ?」

「どんな決まりよ」

「中洲が形成された順さ」

「そう。確かに昔から住んでる人じゃなきゃ分からないわね」

 若しくは地理歴史学に詳しい人物に限られるだろう。

 佳子は深く息を吐いた。常識やら習慣やら地理やら。覚えるべきことや倣うべきことが多すぎる。

「ま、ぼちぼち慣れていくんだな。どうせ移民ばかりの場所だ。常識外れでも人目はそんなに引かねえよ」

 但しと、クロは続ける。

「偽善とお人好しは悪目立ちする。自分の利益の為になるよう振る舞い、行動していればすぐにでも紛れられるけどな」

 佳子は眉を顰めた。何だか物騒なことばかりしか聞いていない気がした。

 不満げな佳子を見て、クロが「おいおい」と制止を掛ける。

「何で移民が多いのとか、何で人助けが駄目なのとか、聞くなよ。暮らしてりゃ、嫌でも分かるんだから」

「納得いかない」

「無理やりにでも納得しろ。さて、区画の話に戻るぞ」

 二人の目線がまた水の地図に戻る。

「ここが第一区だという話はしたな」

「うん。聞いたわ」

「ならいい。あんたが行きそうな区画の特徴だけ教えておこうか。さっきまであんたが居た第三区はカースが居るから世話になるかもしれないな」

 えと、佳子は思わず声を漏らした。

「どうした」

 クロが顔を上げて訊ねた。佳子は曖昧に笑って誤魔化した。カースを頼りたいと思えないなぞと、言えるわけがなかった。

「言いたいことが顔に出てるぞ」

「あはは……ごめん」

「何謝ってんだよ」

「いや、なんていうか」

 佳子はしどろもどろに言葉を濁した。

(カースさんの人格を見た目で決めつけてしまう)

 あの強面の男を思い出す。革の服に黒眼鏡、大量のピアス。鍛えられた肉体も恐怖の対象だ。どう考えても危なそうな人ではなかろうか。

「もしあんたが俺以外に誰かを頼るとしたらお人好しのカースしかいねえぞ」

「ステファノさんは?」

「あの守銭奴は典型的な土地の人間さ。あんたを切り捨てることで被害を最小限に食い止められるなら、迷わずあんたを切り捨てるだろうよ。信用はできるが、信頼はしねえことだな」

 クロはそう念を押した。

 クロとの人情味溢れるやり取りを見た限りではそこまで非道な人間に思えない。反論したくてむずむずする口を抑える。付き合っていけば自ずから分かることだ。それよりもクロがそこまで推すカースという人物はどのような存在なのか気になった。

 クロはカースをとても信頼しているようだがーー

「カースたちは北に栄えていた軍事国家出身の人間だ。祖国が崩壊するとき、この土地へ逃れてきた脱走兵連中さ」

 「脱走兵」それは信頼に足る人間なのだろうか。佳子は訝しそうな表情を浮かべた。

 クロは苦笑した。

「そこは普通の反応をするんだな。まあ、経歴だけを聞くと糞のような連中さ。だが今の連中は立場ゆえに絶対に弱者を裏切らない。あんたが助けを求めれば、危険も顧みず救ってくれるだろうよ……正しくは救わずを得ないってところか。連中が第三区で力を持ってられるのは誰にも相手にされないような無頼どもが連中を頼り、一大勢力を作り上げているからさ」

 「余計に頼りたくないわよ」と佳子が呟けば、「あんた相手だとこの言い方じゃ不味いか」とクロはこめかみを掻いた。

 何が不味いのか。やはり感性の違いが少年にやり辛さを与えているのだろうか。

「兎に角、カースはいい奴だ。もし頼るならあいつを頼れよ」

「何か、変」

「変?」

「うん。クロの言い方ってさ、いつか私がクロを頼れなくなる日が来ること前提みたいな感じがする」

 馬鹿じゃねえのと、クロは盛大なため息を吐いた。

「俺にだって生活があるんだし、俺以外に頼れる奴が居るんならそっちの方がいいってだけの話じゃねえか」

「まあ、そうよね」

 そう肯きながら、佳子は胸の内に正体不明の蟠りを抱えた。言葉にできぬそれは表現するなら予感。

(クロは魔女という存在について詳しい)

 望まずしてなってしまった魔女。神より天命を下され、天命の履行と引き換えに己の願いを成就させる存在。

(魔女という存在について調べてみるのもいいかもしれない)

 魔女はあまり好ましくない存在らしいから、そうだと知られぬよう、注意を払う必要がある。まずはクロから可能な限り魔女の話を聞こう。

 そう考え、佳子が口を開くとーー

「ーー!」

 客の一人が慌ただしく厨房へ飛び込んできた。クロが厨房の更に奥を親指で示す。

「トイレはあっち」

 脇目も振らず、客はトイレに駆け込んだ。

「何なの、あれ」

 そう佳子があんぐりと口を開けて呟けば、

「ステファノの殺人珈琲の被害者」

 と、クロが答えた。クロが流し台から降りる。彼は冷蔵庫を開け、ペットボトルを取り出した。飲料水を注いだコップを持ち、クロは厨房を立ち去ろうとしたが、途中で振り返った。

「佳子。あの客が出てきたら、トイレの掃除よろしく」

 客は駆け込んで行くときに掌で口元を抑えていた。正直、トイレの掃除はしたくない。しかし、雇われの身としては断れない。少しの間を置いて佳子は答えた。

「分かったわ」

「じゃ、後はよろしく」

 クロはひらひらと後ろ手を振りながら、今度こそ厨房を出て行った。

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