11.
ぺしゃりと、濡れた音がする。モップが床に落ちた音だ。柄を片手で持ち、押したり引いたり、単純な作業をする傍ら、クロは溜め息を吐いた。
「何で俺がこんなことしなきゃいけねえんだよ」
硝子の破片を捨て終えた塵取りを片づけながら、佳子が呆れたように返す。
「決まってるじゃない。クロのせいだからでしょう」
クロがモップの先端に両手を添え、顎をつけて休みながら反論する。
「いや。俺じゃなくてステファノのせいだ。あいつが酒瓶を投げたからこうなったんだし」
「元はと言えば、クロが堂々とさぼろうとしたせいじゃない」
「さぼりじゃねえ。休憩だよ、休憩。働きづめは健康によくねえしさ」
(さぼってたくせに)
佳子は厨房の水場で台拭きをきつく搾り、円卓を拭いて回った。
「一昨日、一日分も休んだんでしょう」
「本来は休みだったんだからいいじゃねえか。むしろ、休みなのに急なお使いを頼まれてやった俺を褒めろ」
「引き受けたんなら責任もってやり遂げなさいよ」
「素晴らしい」と、カウンターの向こう側で備品の確認をしていたステファノが感心したように頷く。
「店員。あなたも菅原の態度を見習いなさい」
「無理。やだ。堅っ苦しい」
ぴくとステファノの眉毛が痙攣する。
「だいたいよお、こっちの仕事はステファノの趣味で、ついでで良いって言うから手伝ってるわけだし。そこまで肩肘張るつもりは元々ねえよ」
「『こっちの仕事』って? 掛け持ちしてるの?」
円卓を拭く手を思わず止めて、佳子はクロに顔を向けた。
さっきから働きもせず、動きもせぬクロが得意げに答える。
「まあな。依頼を受けて、遺跡に巣食う古の亡者どもを一掃することが俺の仕事さ」
「遺跡に巣食う古の亡者って……もしかして、ミイラとか?」
佳子は遺跡を徘徊するミイラを想像して身震いした。遺跡といえばエジプトのピラミッドやギリシャの神殿を思い浮かべるが、前者を取り扱う映画にはミイラが付き物だった。
「いや。合成獣と呼ばれてる、古の魔道が生み出した歪な生き物が相手さ。極々稀に〈魔獣〉なんて蔑称される半神半獣も遺跡に居残ってるが、基本、連中は理知的だからこちらが礼さえ損ねなきゃ害にならねえしな」
「ふうん。合成獣ってキメラってことでしょう。獅子の頭と山羊の頭に蛇の尻尾がある生き物」
「合成獣にそんな特定の姿なんてねえよ」
佳子はクロの言葉にさほど関心を抱けなかった。遺跡だの合成獣だの魔獣だの、現実味を帯びない言葉ばかりだ。要するに佳子は他人事のようにしか話を聞けなかったのである。
掃除用具箱までモップを引き摺り運び、仕舞いながらクロはこう説く。
「まあ、あんたが遺跡に関わることはまずないだろうな。遺跡、つまり地底世界は旧き神々の中でも〈死の女主人〉が支配する、過ぎし日々の領域だ。人間にとっちゃ古代の知識に溢れた宝の巣窟だが、旧き神々は全く興味を示さないだろうからな」
円卓を拭き終えて、椅子の位置を直していた佳子が「そう言えば」と、声を上げる。
「魔導具師にはどうすれば会えるの?」
佳子に天命を授けた神を特定したいのならば、神話を読み解けと言われたことを思い出す。そして、魔導具師の世話になるしかないという言葉も。
しかし、あやふやに流されて終わっていた。
「ふっ」と、音が聞こえる。音がした方を向けば、ステファノが肩を震わせていた。どうやら失笑した音だったらしい。
「私、おかしなことを言いましたか?」
佳子が不安になって尋ねると、ステファノは笑いを押し殺しながら首を横に振った。
咳払いした後、ステファノは言葉を紡ぐ。
「店員が呼べば喜んで来る魔導具師が居ます。頼んでみたらどうです?」
「本当に! クローー」
「断る!」
お願いの「お」の字さえ言わせない勢いでクロは断言した。クロはステファノを睨んだ。
「余計なことを言うな」
ステファノは痙攣する頬の筋肉をひた隠し、平然とした風体を装って応じた。
「菅原には必要なことでしょう。手助けしてやればいいじゃないですか」
「他人事だと思いやがって」と、唸るようにクロは悪態を吐いた。
(そんなに嫌な相手なのかな)
佳子は魔導具師に興味を抱いたが、蛇蝎の如く嫌われる相手に積極的に関わることは躊躇われた。
幸い、魔導具は日常生活に欠かせないものらしい。そうなれば、魔導具を作る魔導具師の人数が多いことは想像に難くない。クロが嫌う相手でなくとも、違う人間を探し出せればいい。それでもいいはずだ。
(そう思ってないとやってられないしね)
佳子は円卓の上に置いておいた台拭きを手に取った。
台拭きを仕舞いに行くため、近くを通りかかった佳子を捕まえて、クロが念を押す。
「俺は俺自身を犠牲にしてまであんたの手助けしてやる気はないからな」
佳子は心外だとばかりに口を尖らせた。
「最初からそこまで求める気はないわよ」
本当は手掛かりを知っているかもしれない人物と連絡を取れたならばと、惜しく思う気持ちは強い。しかし、既に十分過ぎるほど破格の待遇を受けているのだ。嫌がるものを強要するつもりも願い倒すつもりもない。
そう素直に伝えれば、クロは何とも言えない表情を浮かべたのであった。




