外伝 亜人国 にじり寄る闇
「……うー。また太ってる」
泉の静謐な水面に波紋が起きると、小さな波が広がる中心には可愛らしい少女が映っていた。
肩まで伸びたくるくるとした巻き毛はあちこちに跳ね、その下から急激に盛り上がる胸、相対的に締まって見える腰、柔らかそうな太もも。
体の要所要所だけに窮屈に肉が押し込められているその姿。水面に映った自分の事を少女は太ったと言ったが、誰もが目を奪われるその姿を、本当に太ったと呼ぶのだろうか。
「ジンくん、太ってる子嫌だよね……」
そこだけはほっそりとしたアゴ。
可愛らしいくちびる。
泉の水を滴らせる尖ったまつ毛と丸い瞳、そして、その下の鼻は、ぴょこんと上を向いていた。
「おねえちゃん!!」
「あっ……!」
少女は自分の胸に飛び込んでくる小さな子どもを抱きとめる。腕の中の軽い体重、柔らかな命。
「ううん……もふもふもふもふ……」
「きゃ、ちょっと! ふ、ふふ、あははは、やめて! くすぐらないでっ!」
水浴びをするといつもまとわりついてくる、今では妹のような人族の子供。
「ちょっと、ほんとダメだってシェリー!!」
「ここがいいんでしょー? 知ってるよー」
「ばっ……! 誰が言ってたのそんな事を!!」
「ん、クロちゃん」
「もうっ、あの人はああああっ!!」
バシャバシャとあがる水飛沫が、戯れる少女達をキラキラと照らす。
…亜人国の泉。
フィレット達のいつもの光景。
やがて遊び疲れた少女達は裸のままで草の上に寝転んだ。誰も見ている者などいない。
明るい日差しと柔らかな風、それが水気を飛ばしてくれる。
……高く澄んだ青空。
あの日、少年と別れた日のような。
「…………会いたいなぁ」
「だれにー?」
「え? ……ねえ。誰だろね」
「…ねえねえ、フィーナとトットちゃんはあ?」
「フィーナは後で来るわよ。トットお姉さんはどうだろ。今日は他にも仕事があるって」
拡張されてゆくオークの里にはどんどん他の亜人も集まり始めている。
人族の隊商なども時折やってくるし、ひょっとしたら定期的な交易が結ばれるかもしれない。
亜人国の後ろ盾となった千年の大悪魔、クロウ。彼が連れてきたシェリーには、二人の護衛がつけられた。
ロドの跡を継ぎ、豚人の戦士長となったフィーナと、小鬼の魔術師トット。
亜人国は今、変化の時を迎えている。
シェリーの護衛は大切な仕事だが、フィーナとトットの二人にはそれ以外の仕事も増えてきていた。
戦士長としての頭脳は持っているが他の事はからきしのフィーナとは違い、魔術師であり知識が豊富なトットには、特に色々な仕事があった。
シェリーの護衛は、護衛と言っても実際には遊び相手になるだけだ。二人の手が空かない時は、フィレットもよくシェリーの面倒を見ていた。
それに、シェリーは子供らしい子供だった。フィレットも妹のようなシェリーと遊ぶ事を、日々の楽しみにしていたのだ。
「ひまだねー。クロちゃん遊びに来てくれないかなあ」
「そうだよね。……もうっ」
亜人国は平和な日々が続いていた。
今までとたいして変わらないかもしれないが、どこか希望のある日々。隣人と笑い合う日々が。
そんな毎日の中で、気が付くとフィレットは、いつもあの少年の事を考えてしまう。
「……けどね、きっとね」
収穫祭は終わった。
あの頃、どこかで何かを諦めていた日々とは違う。ずっと続いてゆく毎日を、明日の事を考える日々。未来を夢見る日々。
積み重なる退屈と戦い、ささやかな幸せに笑う日々。……そんな日々を続けていれば、きっと彼はひょっこり顔を出す。…自分に笑ってくれる。
「ジンくん……。もう、たまには会わないと、知らないよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もう……。くすぐったいよシェリー」
「もふもふ……やわらかーい」
「あッッ! …ほ、ほんとにやめてぇっ!」
最近、里の者達は皆忙しそうにしている。
護衛達には自分がついているから大丈夫と言って、フィレットはシェリーと二人だけでこの場所に来た。誰の目も気にせずに水浴びをする為だ。
いつもシェリーの相手をしているフィーナは、戦士長として鍛え上げられた肉体と、里の中でも稀有な美しさを持っている。
そんなフィーナは他の護衛が居ても平気で水浴びをするが、フィレットはそこまで自分に自信を持っていなかったし、羞恥心があった。
「もうーーっ!! いい加減にしないとロザーヌさんにいいつけちゃうよ!」
「いいよー。もふもふもふ……」
執拗に胸に顔を埋めてくるシェリーにため息を吐き、二人だけでこの場所に来た事をフィレットは後悔した。
…柔らかな日差し。美しい泉。そのほとりで日光を浴びている可愛らしい二人の少女。
画家が描いたような美しい世界に、その音は届いた。
…ふっ、ぐっ、ふぅぅうううぐるるるっ
「……………シェリー、静かに」
「もふもふ……」
「シェリー、真面目な方だよ」
「ん……」
…フィレットは息を潜めて気配を探る。
先ほどと変わらない柔らかな日差しが降り注いでいる静かな泉。…静かすぎる。
「おねえちゃん、うさたんいない……」
「しっ」
先程まで、すぐそこで草を食んでいたウサギがいない。
……フィレットはゆっくりと魔力を練り上げる。
「シェリー。静かに立って」
「……まもの?」
「静かに」
近くの枝に掛けた自分達の服を見る。
その距離は数メートル。
それを取りに行く数メートルが、生死を分ける事もある。
……ふっ、ふぐっっ!!
呼吸音とも声ともつかない、かすれた音。
再び聞こえたその音は、まだ遠くから聞こえた。
「シェリー、急いで服を着てね」
「うん」
シェリーが服を取りに行く横で、フィレットは音の方角にいつでも魔術を使えるように準備する。母親であり優れた結魂師であるスーローンから、魔術の手ほどきは受けていた。
護衛などいなくても大抵の魔物ならフィレット一人で充分対処出来る。……森の主と呼ばれていた、あんな化け物が出てこなければ。
……ふっ! ふっ!! ふぅぐっ、ふっ!!
「近付いてきてる……。シェリーっ」
「おねえちゃんっ、はいっこれっ!」
人族の隊商から買った、細い肩紐のキャミソールワンピース。
隊商として顔馴染みになった男に、人族はこういう服を着ている女が好きだと言われて、フィレットはあの少年の顔を思い浮かべて買った。
「……ッッ!!」
頭からそれをかぶりシェリーの事を抱き寄せると、…感じる。近付いてきている。…禍々しい、巨大な存在が。
「森の主はもういないのに……!!」
「おねえちゃん……」
普通の魔物よりも巨大な魔力を感じる。戦う気など起きない。
シェリーを連れてこの場から逃げ出す事だけを考える。大恩あるクロウが連れてきた少女。そして、あの少年が世話になったというルシオとロザーヌの娘を。
「姿が見えたらおねえちゃんが魔術を使うから…、その隙に逃げようっ」
「うん……、あっっ!! うさたんっ!!」
泉から伸びている道。
その道の先は幾つも分かれ、その中の一つは里へと続く。その道の入り口に、何かを見上げるように立ち止まっている、ウサギの後ろ姿が見えた。
「うさたんっ!!」
「やめて、待ってシェリー!!」
フィレットの手をすり抜けシェリーはウサギの元に向かった。何故か動こうとしないウサギを抱きしめたシェリーは、その存在に気付いて固まったように動かなくなった。
……フィレットの目の端にも見えた。木の陰に立っている黒い影が。
「…………ふっ! ふぐ、ふぐううううっ!!」
「あっ!!」
「シェリー離れてっっ!! …『樹縛』!!」
強化した足で跳躍、すぐにシェリーを抱えると、手近な生きている樹木に魔術で働きかける。
…みし みしみし
何かが軋む音がしたあと、変化はすぐに現れた。
「…ぐっ、ぐふっ、ぐうううるるるるるっ!!」
「シェリーっ!! 早く!!」
「ぎ、ぎひっ、ィィィイイイッッ!!」
びゅおんっ!!
生きている樹木から垂れ下がる太い蔓。それが勝手に動き出し黒い影を鋭く打った。
大人がぶら下がっても千切れない強度を誇る天然の鞭。なんの訓練も積んでいない人間なら一発だけで悶絶するそれに、その影は手を払っただけだった。
「ぎ、ぎひぃ、ざまっらァ!!」
蔓は影を打った後、そのまま体にまとわりつく。生きている樹木の拘束、みしみしと動く枝の先から蛇のように動く蔓が、その黒い影の体にからみついた。
「人族……!? シェリー離れないで!!」
シェリーの体を抱えたまま、蔓にまとわりつかれている影の横を通り過ぎる。
恐怖に呑まれないように視界の端で捉えた影は、金色の髪の奥から憎悪のこもった目でフィレットを見た。
「ぐっ、い、いぎィィィイイイッッ!!」
影はまとわりつく蔓を片手で引き千切ると、その手に持っていた長物を躊躇わずに振るった。
「あっ……」
ギラリと光ったそれはシェリーの頭を通り過ぎ、弧を描きながら死線を走らせた。
風を切る音。
…脳裏に浮かぶ、少年の笑顔。
「ジンくん……」
「……フィレットどけッッ!!」
その声は突然地面に落ちた。
高く跳躍してきたそれは、真っ直ぐに斧槍を振り下ろす。
…がぎんっ!!
影が振るった長物を撃ち落とし、フィレットと影の間に入ると、乱入者はそのまま黒い影を蹴りつけた。
「…貴様、誰に槍を向けているか分かっているかっ!! 亜人国の賓客と姫君に害を為すならば、戦士長フィーナが相手になるぞっ!!」
「フィーナっ!!」
ウサギを抱きしめているシェリーの事を、フィレットはすぐに引き寄せた。
…じり。一歩、二歩。
その場から下がり、自分の前に立っている背中を見る。湯気が見える程に気力を発散している、戦士長の背中を。
「フィレットっ、こいつは誰っ!?」
「わ、わからないっ!!」
フィーナのくすんだ白い髪、それはうなじから背中まで、背骨に沿ってたてがみのように続いている。
チリチリと逆立っているその髪が、フィレットの視界から消えた。
「…ハッ!!」
「ぎひっ! ……ぎざ、まらァッ!!」
豚人とは思えない程に引き締まった背中。戦闘用の鎧を着ずに、布の胸当てだけを身につけていたフィーナの背中が深く沈んだ。
前傾姿勢のままで前に飛び出す。
白いたてがみが風に流れる。
大きく振りかぶった斧槍に力を込めると、美しい背中に筋肉が浮き上がった。
「オオオオオオオオッ!! 『大車輪』!!」
「ガッッ!! …ィヒッ!!」
「まだ終わらないぞっ!! …エアッッ!!」
…がんっ!
…ぎんっ!!
…ぎゃりんっ!!!
現戦士長の凄まじい連撃と覇気を見て、フィレットは思わず更に後ずさった。
いつも接しているフィーナとは違う、戦士長の本当の姿。斧槍を軽々と振るい踊るように戦う、大森林の勇士の姿に思わず見惚れて、そして気付いた。
「……シェリー?」
「あっ……!」
己の腕の中の少女の震え。
そのシェリーが抱きしめたウサギが苦しそうに、シェリーの手から逃れようとした。
「シェリー、力緩めてっ!! うさたん死んじゃうよ!?」
「あ、あ……!!」
いつも明るいシェリーが、顔を蒼白にさせて震えている。まんまるい目を大きく開き、フィレットと撃ち合っている人影を凝視していた。
「シェリー…? ど、どうしたの」
「フィーナッッ、にげてっっ!!」
フィレットが再び前を向くと、フィーナと敵は数メートル離れて向かい合っていた。
その敵。
…漆黒の鎧を身につけた偉丈夫。
首に包帯を巻いたその男が、両手を大きく広げた。
…ぞわぞわと。背中に何かが這い回る。
敵と対峙するフィーナが警戒を叫ぶよりも先に、フィレットの体は勝手に動き出し、そして壁にぶち当たった。
「け、結界ッ!?」
「……チッ、『一点集中』!!」
危険を察知したフィーナの渾身の一撃。
最短距離を走る一閃。
迫り来る斧槍に構わずに、金髪の偉丈夫が両手を前に突き出すと、その背中に純白の翼が広がった。
「……え、天使ッッ、フィーナ、」
「ぎ、ぎ、ぎがはっ!!
……『にじり寄る闇』ッ!!」
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「……はっ、はっ!!」
「ィ、いぎはァ……!!」
…ぼたりぼたりと血は流れ落ちる。
フィーナの渾身の一撃は、目の前の男の肩を穿った。
「…ァァ、アアッ、アギッッ、ひ」
…がんっ
男の手からこぼれた槍が、木の根元にあった大石にぶつかった。支えを無くしたようにその男はフィーナの胸の中に沈む。
…ずっ、ずず
男の肩に深く入り込んでゆく斧槍の刃、反対側の尻の部分が地面につく。丁度それがつっかえ棒になる形で、男はその場で止まった。
「はっ……、はっっ!! …はぁっ!」
己の胸に顔を埋めている男の顔を、どける事が出来ない。そこでフィーナは初めて気付いた。…自分の手の震え。足の力が抜ける。
「なん、だ? 今のは……!!」
がくり、膝をつくフィーナに体を預けるように、その男も倒れ込んだ。
自分のすぐ目の前にある、男の後頭部。視界にある背中、…そこから生えている、純白の片翼。
「天使……!? なんで、なんで天使が…!!」
フィーナが振り返ると、腰を抜かしたフィレットの腕に抱かれているシェリーと目が合った。
その瞳にはっきりと浮かんでいる恐怖。
「…フィレット。なんで、天使が……」
「そいつ、生きてるの……?」
先程、この男の片翼が広がった瞬間、フィーナはこの場にいる全員の死を覚悟した。しかし得体の知れない圧倒的な技は発動する事なく、フィーナの一撃が先に届いた。
…助かった。それを認めると同時に浮かび上がる憤怒。フィーナは男の金髪を乱暴に掴むと、顔を起き上がらせた。
「貴様ぁ……!!」
「…………ず」
「なんだ。遺言を聞いてやるっ!!」
「み、……ず……」
水。
その言葉に耳を疑うと、フィーナのすぐ近くで男の目が開いた。
……長いまつ毛の奥、深い深い青。
「なっ……」
「み、ず……」
斧槍を伝って地面に流れ続ける血に引き寄せられるように、男の顔は下に垂れ、フィーナの腰に抱きつきながら倒れた。
「やめっ……」
「フィーナっ!!」
すぐに後ろから駆け寄ってきたフィレットが、男の体を引き剥がす。
「フィーナ大丈夫!?」
「あ、ああ……。なに、なんなのよコイツ」
戦闘は終わった。
自分の口調が無意識に変わった事に気が付いて、フィーナはやっとその手から力を抜いた。
心臓はまだ鼓動を刻み続けている。
「……はぁっ、はぁ……」
「フィーナ、ありがとう……。フィーナが来なかったら」
「待ってフィレット。話はあとにするわよ。……シェリー、フィレットのそばから離れないで」
「フィーナ、何を……」
『亜人国戦士長』、フィーナは考える。
今、自分は突然の混乱の中にいる。
一番重要な事と、一番やってはいけない事を冷静に考えられるか自信がない。
(……まずい。これヤバいよ)
「……フィーナ?」
「フィレット、こいつを里に連れていくよ。師匠に会わせる。その前に、傷を治さないと……」
「なに言ってるの!? 訳もわからずに襲われたんだよ!?」
「こいつが先に手を出した? 正確に覚えてる?」
「え……。よく、覚えてないけど」
「とにかく帰ろう。こいつに死なれちゃまずい……!!」
「だ、だからなんで!?」
「天使は死んだら肉体を失って、その後世界の何処かで復活するらしい。…このままだと、亜人国で殺された天使が、他の天使達が居るかもしれない場所で復活する。それがまずい……!!」
「あ。 ……けど、襲いかかってきた、」
「こいつ、水を求めてた。……ひょっとして、大森林で迷ってたのかも」
「ええっ!? と、飛べばいいじゃない!! 天使なんだからっ!!」
「片翼しかなかったじゃんっ!! ……あー、もうよく分かんないから師匠の所に連れていこうっ!! 考えるのはトットとかに任せればいいよっ!!」
「ちょ、ちょっとフィーナ!!」
フィーナは己の腰に抱きつくようにしている男を軽々と持ち上げた。
「…けど、死ぬかと思った。こんなにヤバい奴初めて見た……。フィレット、回復術掛けながら行こう。お願いね」
「わ、わかったけど、いいのかなあ」
「大丈夫。…確かに強かったけど師匠だったら余裕で勝てるよ。本当に敵だとしても大丈夫だよ」
フィレットが回復術を掛けると、その男の顔は少しだけ安らかになった。
眉間のシワが浅くなり、長いまつ毛が揺れる。
「……………………」
「フィーナ、どうしたの?」
「…いや、天使なんて初めて見たけど、やっぱり、凄い綺麗な顔してるんだなって思って……」
「な、なに言ってるの!? 殺し合いしてたのにっ!!」
「わ、わかってるけどっ!!」
…そうだ。殺し合いをしていた。
フィーナの胸の鼓動は、まだ鳴り止まない。
歩き始めた二人の後ろで、シェリーだけが不安な顔をしていた。
第一部完。
第二部もよろしくどうぞ。




