オーヴァーチュア
楽園の夜に少しずつ人の姿が溢れ出す。
小さな囁き声は、やがて話し声に変わり、そのうち大きな怒鳴り声が辺りに響いた。
それは一軒の廃墟——廃墟とも呼べない瓦礫の山の前で起こった。
「おーれーのーみーせーがーーーーッッ!」
がくりと膝を突いて涙を流す男。
遠巻きにそれを眺めている人間達から、生暖かい同情の視線が送られた。
——けどなあ、ロックボトムを敵に回す事を公言してるバカを泊めちゃダメだろ
——うーん。まあ自業自得よねえ。因果応報ってヤツ?
勝手な事を言っている野次馬達に向かい、泣いていた男がキレ出した。
「好き勝手言いやがってっ。……こっちは商売なんだよ!! 俺が客を選べる訳じゃないんだ!!」
「……ヘイユー!スタップ!スターップ!!」
「は?」
膝を突く男が見上げると、そこには人が立っていた。ぼんやりとしたガス灯に浮かび上がるその男の輪郭が、涙のせいでボヤけている。
……その男は、丸いメガネをかけていた。
胸には『萌え魂』。
上にはチェック柄のシャツを着ていて、退色したクリーム色のチノパンが、なんとも言えない味を出す。
……ガス灯に浮かび上がるは異形の小太り。その男の目から下には線を引いたような汗が流れ、それは玉のように身体中に浮かんでいる。
くすんだ色の金髪が、うねり、逆立ち、まるで太陽のように見えない事もないかもしれないが、よく見るとただの寝癖だった。
「ヘイ、ジェントルメン。膝を突くな。胸を張れ。……スタンダップ!!」
「……なんだよ。ただのオタクじゃねえか。向こう行けよ」
「え……」
「それよりも、てめえら好き勝手言いやがって……!! 俺の身になって考えろよ!! いかにもな悪党が店に来て、断れるか!? お前らだったら断れんのか!?」
泣きながら野次馬達に向かう店主は、丸メガネの横を素通りした。
——なんだよ。俺たちに当たるなよ
——うるせえ。なにがロックボトムだ!! あんなのただの暴れん坊じゃねえか!!
——だから、私たちに言わないでよ
「……キリエ。帰ろう」
「ちょ、ちょっと待つっす。ダメっすよ……旦那達に怒られるっす!!」
「そんなのボクの知ったことか!! ……あいつ、ボクをオタクって言いやがった!!」
オタク……もとい、トムことキディ・ジョー・オブライエンの目は、深く沈んでいた。
「ダ、ダメっすよー! ここでこの酒場を直して借金減らすっすよ!」
「そんなもんシカトだシカト!!」
もうこうなるとトムは手が付けられない。いつもなら紅茶とマフィンを食べさせれば機嫌が良くなるのだが、今はそんな物はない。
キリエは、別の角度から攻める事にした。
「……大丈夫っす。あたし知ってるっす。トムのカッコいいとこいっぱい知ってるっす。トムはキモオタじゃないっすよ」
ピクリと。
丸メガネの体が動く。
「オタクの上に、『キモ』まで加えられた気がするんだけど……」
「ほら、トム言ってたじゃないっすか。なんと、円周率を千桁も覚えてるっすよね。天才っす……」
「……別に、二千でも三千でも覚えられる。面倒だから途中でやめた」
「すごいっす……!! カッコいいっす!! ……あたしも、そんな事言ってみたいっす!!」
ソワソワと。
丸メガネが肩を揺らす。
「それに、あれっすよね? なんたら言うカードバトルの大会で、強過ぎて殿堂入りしたんすよね? カッコいいっす!!」
「ん……、え、あれ〜え? ボク、それ言った事あったっけ? 嫌だなあ〜。別にそんな大した事じゃないのになあ〜。……ところでキリエ、カードバトル? デュエルって言ってくれよ」
「わ、悪いっす。よっデュエルキングッ!! カッコいいーー!!」
唇を変な形に歪め、トムの顔がひょっとこのようになっている。恐らくニヒルに笑っているつもりなのだろう。
キリエは内心のため息を抑え、言葉を続けた。
「それにほら、なんていったっすか? あの戦争ゲームみたいなの」
「……FPS?」
「そうそうそれっす!! あれも凄いんすよね。強過ぎてあだ名が付いてたらしいじゃないっすか! ……あー、聞きたいなあ。あたし、聞きたいなあ……?」
キリエが珍しく体にシナを作り『女』を出す。
腰をかがめてトムの事を上目遣いに見る。
まるで、胸を寄せるように膝に手をついた。
トムのひょっとこの口が動いた。
ふぅ……。やれやれ、仕方ない奴だ。そんな感じで。
「……『そして、笑う死神は舞い降りる』」
「きゃーーっ!! カッコい〜い!!」
「うるっっせえぞキモオタ共、ピザでも食ってろ!!」
「「なっっっっっっ!?」」
————————————————
「おうジンパチ。早く入れよ」
「なんでお前その姿なの?」
肩の上で丸まる子狐に促され、迅八は中に入ろうとしたが、その足は動かない。
「うるせえ。早くしろよ。疲れてんだよこっちは」
「……ニコに」
「あん?」
「ニコに、なんて言えばいい?」
「はあ?」
クロウが後脚でガリガリと頭を掻く。
「なにを言う必要がある」
「え……」
「なにを言う必要があるんだよ」
迅八がその言葉の真意を測る前に、目の前の扉が開かれた。
「なにやってんだ変態。早く入れよ」
「アゼル……」
アゼルは服を着替えていた。
部屋着のままで玄関口に立っている。
「……凄い血の匂いだぞ。お前らも着替えて風呂に入れ。そんな血まみれの格好でニコルに会うつもりか」
「アゼル、ニコは、」
「落ち着いてるよ。一応、ジークエンド達は部屋に戻ってる」
「なんで?」
「だから、一応だよ。……大人の男に拒否反応を出すかもしれない」
「あ……」
肩の上の子狐を見る。
千年の大悪魔はつまらなそうにアクビした。
・・・・・・・・・・・・・・・
迅八が、風呂からあがり体を拭いていると、そこに妹が入ってきた。
「お兄ちゃん」
「あ、シズ」
シズは迅八の為に着替えを持ってきた。胸に抱いたそれを迅八に手渡す。
「ああ、ありがと……、」
——グイッと。
着替えを受け取ろうとした迅八の手が、シズに強く握られた。
「……ちゃんと殺してきた?」
「な」
「ちゃんと殺したの?」
「……あ」
目の前の妹の白い肌。
黒い宝石のような瞳。
その下の泣きぼくろ。
無表情な顔。
昏い目つき。
「そう……」
握られた手が離れる。
「ねえお兄ちゃん。私も、早く魔術を覚えるから」
子狐がシズの足元にまとわりつく。
それに気付いたシズは、微笑んで子狐を胸に抱いた。
「可愛い、です!!」
「うるせえ小娘。大声出すな」
微笑んだままでシズが言う。
「クロくんは、なにしてた、です?」
「あん?」
「なにをしていたの?」
「…………」
「早く、私が魔術覚えなくちゃ。……クロくん、教えて、です!!」
「うるせえ。てめえの師匠に聞きやがれ」
シズはクロウを抱いて出ていった。
迅八は、一人になった脱衣所で、物事を先延ばしにするようにゆっくりと着替えた。扉を開けて脱衣所から出ると、そこにはアゼルが立っていた。
「アゼル……どうしたの?」
「言っておく事がある」
アゼルも風呂に入った後なのだろう。赤い髪の毛がほんの少しの湿り気を残し、艶やかに光っていた。
「クーロンがロココさんを呼びに行っている。……これからここにロココさんが来るけど、彼女には今日あった事を言うな」
「どういう意味だ?」
「俺たちに巻き込まれた。……それを言うな。ニコルにも言い含めてある」
「おまえ、なに言ってんだ?」
「ニコルは、俺たちとは関係なく襲われた。それを俺たちが助けた。……そういう事にしておけ」
「おまえ、何を言ってんだ!!」
赤毛の少女の胸ぐらを掴もうとし、迅八はすんでの所で思いとどまる。
アゼルの事を挟むように、そのまま両手で壁を押さえた。
「謝らなくちゃいけないっ。俺たちのせいだ!!」
「お前のせいじゃない」
「なに言ってやがんだテメエは!! おまえのせいでもあるんだぞ!!」
赤毛の少女は、ほんの少しだけ俯いた。
「……そうだよ。俺のせいだ。けど、おまえのせいじゃない」
(なに言ってんだこいつは……!!)
壁と自分に挟まれている少女は、もう完全に俯いていた。その肩を触ろうとした迅八の手が止まった。
(こいつ、震えて……)
迅八とシズにとって、特別な少女。
アゼルは顔をうつむかせ、小刻みに肩を揺らしていた。迅八はその肩に、そっと手を置いた。
「……っ、なんだよ」
「アゼル、ごめん。 けど、教えてくれよ。やっぱ謝らなくちゃダメだよ。なんで……」
「お前は考えなくていい」
「ちょっと待てよ、そんなの」
「俺のせいだ。……頼むから、ニコルとロココさんには余計な事を言わないでくれ」
迅八の手をくぐり、アゼルはその場から立ち去った。
迅八は一人で暗い廊下を進む。
クロウは言った。
『何を言う必要がある』
アゼルは言った。
『頼むから、余計な事は言わないでくれ』
なにも言う必要がない。
余計な事。
「なんだそりゃ。……そんなはずあるかよ」
居間へと続く扉を睨むように見る。
一度、深く呼吸をしてから、迅八は扉の取っ手を握り込んだ。
————————————————
「……これ、どうなってる、です? 触ってもいい、です?」
「あ、やめ、姉ちゃん、やめて……!」
「オレのジンにまとわりついてる狐人っておまえかああアアァ? けど可愛いじゃないかよオオオ。……キーー〜ッッ!!悔しいィィっっ!! けど、オレだってやろうと思えばロリ属性くらい……」
「あ、やめてっ、かじらないで……耳やだぁっ!」
ズコーッ。迅八の頭は床に突き刺さった。
「いでえ!! ……おうコラ小僧! 俺にまで伝わるから盛大にコケるんじゃねえ!!」
「て、て、て、て、……っっテメエら、なにしてんだ!? 殴られてえのかコラァああああ!!」
「ん。……うるさいの来た、です。役立たず、です」
「まあまあ……。オレのジンはやる時はやるよ。まだ本気出してないだけで」
「みんなそう言う、です」
ソファーの上では、シズがニコルの事を膝に抱いていた。その髪の毛に顔をうずめ、幸せそうに耳を噛んでいる。
「……あ、やだ。みみ、やだぁ……!」
「うちの兄がお世話になってるです。これからは、私がニコをお世話する、です」
「やめろって。怯えてるじゃねえかよっ!」
「一人占めはよくない、です!!」
迅八は、妹に抱かれているニコルをもぎ取るように剥がす。シズは唇を尖らせて不満な顔をしていた。
「にいちゃん……あの人が妹? 怖いよ……」
「ご、ごめんなニコ。あんなのは妹じゃねえ!!」
「ひどいっ、ですっ!!」
クロウは少し外れた場所で、皿に注がれたミルクをペロペロと舐めていた。シズとイエリアはソファーの上でブーブーと言っている。
アゼルはバーカウンターに座り、静かに迅八を見ていた。
思っていたよりも、和やかな空気。それに迅八はホッとした。
「にいちゃん……」
迅八の胸の中に抱かれている少女が、小さく声を出す。……黄色いワンピース。ところどころが血に濡れている。
「ごめんね」
「え、なにが」
「ごめんね。にいちゃん」
狐の女の子。
迅八の腕の中の、小さなぬくもりが。涙をこぼさないように、笑っている。
「ごめんねにいちゃん……」
(……俺は、馬鹿か)
「服汚しちゃった。ごめんね、にいちゃん」
(何を安心してんだ俺は……)
ぎゅっと。
迅八は、その腕の中の女の子を抱きしめる。
自分の顔を見られないように。
「……ニコ。やっぱ似合うよ。とっても可愛いよ」
「……え」
「本当だ。お姫さまみたいだよ」
ニコルの顔は見えない。
迅八の背中に回された手が、きゅっと握られる。
「けど、どれだけ変わってても一目でわかるよ。……ニコ、大好きだよ。俺たち友達だろ?」
「……ゔっ」
迅八の首筋に熱い熱。
ニコルの目から流れている液体。
「なあ、約束したろ? また、町の案内してくれよ」
「ゔん……! わがっ、だ……!」
腕の中の小さな少女が、自分に気を遣っている。あれだけの目に遭って、それでも苦しさを表に出さない。迅八は幼い頃のシズと自分を思い出す。
いつでも子供は、大人よりも周りに気を遣って生きている。
(……くそっ、くそっ!!……クソッッ!!)
これ以上、何かを言えば、きっとどこかでボロが出る。迅八は、それ以上なにも言えなかった。
後ろから扉が開く音が聞こえ、迅八は振り返る。そこにはクーロンと、蛍の光のような女が立っていた。
「ニコ……!!」
「かあさんっ」
手を伸ばすニコルを、ロココの元に連れていく。腕から下ろすと狐人の少女は、母親の膝にしがみついた。
「この子は……人に心配かけてっっ!!」
「ごめんね。ごめんねがあざんっ」
振り上げられるロココの手。
しかしそれは娘の体を打つ事なく、揺れた後、ニコルの背中に回された。
「……おばさん」
「ジンさんありがとう。本当にありがとう。ニコを助けてくれたんでしょう? 本当にありがとう……!!」
助けたのはアグリアだ。
それ以前に、迅八達に近寄らなければこんな事にはならなかった。
泣きながら礼を口にする母親の言葉が、迅八の心を掻き毟る。
「……ちが、」
「坊や」
クーロンが、静かに首を振っている。
「ありがとうございます。ありがとうございます……!!」
迅八には分からない。
謝るべき所だ。自分が額を床に擦り付ける場面だ。
「……お前が母親か」
響いてきた声に迅八が振り向くと、居間の入り口にジークエンドが立っていた。特に何もない、いつも通りの顔で、ニコルとロココを見ている。
「は、はい。……あなたは」
「ジークエンドだ。この家の主だ。お前の名は?」
「は、はい! ロココと申します」
「ふむ。呼びやすい良い名だ。……ロココ。一階の端の部屋が空いている。今日からそこで寝泊まりしろ。何かあったらコルテに聞け。以上だ」
「は? ……ジークエンド様、何を仰ってるのか」
「ウチの家政夫が弟子を取った。これから忙しくなるそうだ。お前と娘に家を任せる」
「すみません。……私は学がありません。ジークエンド様が何を仰っているのかが」
「ふむ。簡潔に言おう。ウチでお前らを雇う。仕事の内容はコルテに聞け。……文句があるなら言ってみろ」
「ひっ……!」
ロココが怯えた声を出すと、クーロンがジークエンドに向けて口を開いた。
「ちょっとジークエンド。 やめなよアンタは。怯えちまってるじゃないか」
「……何に怯える。意味が分からん」
「顔! 雰囲気!」
「……ふむ。まあいい。後は任せた。クーロン、俺たちは今日は部屋に居る。その親子には勝手に食事をさせておけ。仕事は明日からだ」
「はいよ」
迅八の関与しない所で、なんだか訳の分からない話が進んでいる。
呆然とする迅八のすぐ近くでロココは失神しそうになっていて、ニコルは大きく口を開けていた。
「……ふむ」
ジークエンドは、ポカンとした顔で自分を見ている狐人の少女の顔を見た。
そして、本当に、本当に少しだけ、その眉毛を困ったように下げた。
「……小さいな。よく食え」
ぽふん。
手のひらを一度だけニコルの頭に乗せると、赤毛の男は出て行った。
「わたしのっっ!ですっっ!!」
がばっ。
シズが後ろからニコルに襲いかかる。
「わ、わわ! ……やめてっ、姉ちゃんやめてっ!!」
「お姉ちゃん、です!!耳……耳、です!!」
「ちょ、あ……!! やだぁっ、耳やだぁっ!!」
クーロンが苦笑しながらそれを見ていると、ロココは腰が抜けたようにへたり込んだ。
「おやまあ……。大丈夫だよ『お母さん』。あんたに害は加えない。ちゃんと給金も出るよ」
「一体……、な、なにが起こってるの……?」
「人生の分かれ道さ。……決めるのはあんたらだ」
閉まった扉を開けて迅八は居間から出る。アゼルは、黙ってそれを見ていた。
「ジークエンドさん!!」
「……む?」
階段の途中でジークエンドが振り返る。
「どうした? 血相変えて」
「いや、あの……、ありがとう」
「なぜお前が礼を言う」
迅八は、ジークエンドに頼み事をするつもりだった。ニコルとロココが安心した生活を送れるように、仕事を紹介してくれないかと。
迅八にはよく分からないが、ジークエンドはこの町の有名人らしいし、冒険者ギルドの大物とも知り合いだ。彼に頼めばなんとかなるかもしれないと思った。
そしてそれは、思った以上の良い形で叶えられた。
「……ふぅ。アゼルに言われてな」
「アゼルに?」
「泣きながら言われた。……あの親子を助けてくれと」
「えっ」
階段の下にいる迅八は、ジークエンドを見上げている。二階に備え付けられたガス灯のぼんやりとした光が、後ろから『太陽』を照らす。迅八から、ジークエンドの顔は見えなかった。
「ジン。おまえ甘っちょろいぞ」
「……え?」
「アゼルはあの娘に言った。俺たちに救われた事にしろと。……母親には自分が悪いと言え。そこまで言っていたな」
「あいつ、何を……!!」
「俺たちのせいで巻き込まれた。……それを知ったらあの母親がお前やアゼルに近付くと思うか? 俺があいつらを助けようとしようが受けると思うのか? あいつらは、狐ではなく人間だぞ」
ジークエンドの顔が見えない。
その声は、階段を一段一段降りてくる。
「……甘っちょろいのはアゼルも同じだがな。一時的にあの親子の面倒をみても、一体それがなんになる」
「なんだよ。一時的って……」
「俺たちの身内になれば、楽園であの親子に手を出すバカはいない。しかし、なんにでも例外はある。今回みたいにな」
「もうこんな事にはならねえ!! 俺が、」
「おまえ負けたんじゃないのか?」
一段一段降りてきた声は、床から迅八の足を這い上がると、ゆっくりと絡みつきその胸を抉った。
「……それとな。一時的というのはその先の話だ。……聞いたぞ。あの母親は長くないらしいな。おまえ、覚悟は出来てるのか? どうにもできんぞ」
「だから、余計、ニコルにはちゃんとした仕事を」
「深く。深く深く。……母親が死ねばあの娘は傷付く。おまえ、ずっと見てられるんだろうな?」
「なんで、そんな……」
「覚悟はしておけ。おまえが拾ったのは狐ではなく人間だぞ」
「じゃあ、なんで……」
ジークエンドは再び階段を登り始め、その背中に向けて、迅八の呟くような問いかけが出た。
「じゃあ、なんでジークエンドさんは、俺のことを助けてくれたの……?」
赤毛の男の後ろ姿。
迷いない背中。
その声にもやはり迷いはない。
「俺は覚悟してある。……おまえやシズが死ぬ事も想定しているし、そうなってもさほど困らん。……ジン。おまえ、甘っちょろいぞ」
————————————————
食事は騒がしく済んだ。
まだ状況が理解できずに、目を白黒とさせているロココの横にはずっとクーロンがついていた。
ビクビクとしながら食事をしているロココを見て、自分が望んだ事が正しかったのかどうか、迅八は不安になった。
ニコルはシズがずっと構っていた。わざとらしすぎる位に明るく。
イエリアも笑いながらそこに混ざっていた。金髪の天使がなにを考えていたのか、迅八には分からない。
迅八が居間に戻った時に、すれ違うように子狐が出て行った。
迅八の目を見ないで出て行ったクロウは、ニコルやロココの事ではなく、なにか別の事を考えているように映った。
アゼルは、一人で黙って食事をしていた。
「……アゼル」
居間のテーブルには、迅八とアゼルが二人きり。
クーロンが、二人を部屋に案内すると言ってロココとニコルを連れていった。
シズもそこに加わり、イエリアは迅八の目を見た後、やはりシズと一緒に外に出た。
「アゼル」
「……え?」
聞こえていなかったのか、アゼルはビクリと体を震わせた。
「……なんだよ」
「ごめんな。あと、ありがとう」
耳を澄ますと、遠くから笛の音が。
今頃、楽園では大騒ぎだ。
後始末に奔走する者も、見世物が終わり、それを話のタネに飲む者も。
それでもこの家の中では物音がしない。
まるで、世界中で二人きり。
静かな家。静かな夜。
「決めたよ俺は」
なにを、と。アゼルは聞かない。
迅八の声を背景音にして、静かに目を瞑っている。
「決めた事をやり抜く。……迷うかもしれないけど」
アゼルのまぶたから伸びるまつ毛が微かに揺れる。迅八の声に反応したのかそうでないのか、アゼルはゆっくりと瞳を開いた。
「俺は、あっちの世界で、……なんの力も持ってない子供だった。けど、こっちの世界に来て、なんにもしてないのに『力』を手に入れた」
「……結局、俺はなんにも出来なかった。ニコルとおばさんを助けてくれたのは、アグリアと、お前とジークエンドさんだ」
生ぬるい風が部屋に届く。
ゆったりとした部屋の空気がその風に揺らされる。もうすっかり乾いた赤い髪の毛の奥から、緑色の瞳が迅八を見つめた。
「だからさ、だから……やっぱり、俺は強くなるよ。色んな意味でだ。それで俺は、みんなに恩を返すし、おまえを守る。決めたんだ」
少しだけ強い風が入り込んだ。
聴こえてくる遠くからの音。吟遊詩人達の楽器の音。
ほんの少しの間を置いて、赤毛の少女は俯いた。そして、顔をあげるとため息を一つ。
その顔は、いつものアゼルだった。
「おまえ……。ひょっとして口説いてるのか?」
「え」
「なんだよ。この間から守る守るって……普通、女にそんな事言わないよ」
「く、口説いてねえわっ。別にシズの事も守るし、ニコの事も守るよ!!」
「別にどうでもいいけど……。それより、おまえひょっとして俺より強いつもりなのか? おまえは確かに変な力を持ってるけど、殺そうと思えばおまえなんか一瞬だからな」
「やめろよ。なんでそういう事を真顔で言うの!? もっと笑いながら言えよ!!」
「こうか?」
そう言って、赤毛の少女が笑う。
「お……」
「ん? なんだよおまえ。口開けて」
「いや、別に」
「顔赤いぞ。バカだからか?」
「バカはなんの関係もねえ……。せめてなんかに掛けろよ。笑いにしろよ!!」
同じ年頃の少年と少女は、二人きりの夜の中で無邪気に笑いあっていた。
遠くからは何かの曲が流れてくる。
二人は気付いていない。
まだ、誰も気付いていない。
小さく小さく、風に乗り流れてくるその曲。誰もが知っている、この世界で一番有名なおとぎ話。
それは、姫君とそれを守る騎士の物語。
吟遊詩人達の声は聞こえない。
しかしこの日、風に乗って静かに序曲は流れていた。
『ただ一つの誓い』
——鳴動する運命は、静かに時を待つ。
五章本編終了




