プロローグ 帰ってくる人、帰ってこない人
勇者が死んでも、生き返る世界。
その戦場に残された死体は、誰が片づけているのでしょうか。
これは、英雄の帰還を裏側で支える「後始末屋」の青年が、やがて一人の英雄への復讐に踏み出す物語です。
まずは、彼が初めて死体を洗った日の話から。
この国では、勇者が死ぬと鐘が鳴る。
神殿に立つ、青い屋根の鐘楼。
その鐘が三度鳴ったら、人々は道を空ける。店主は店先へ出て、子供は親の肩に乗り、兵士は兜を脱ぐ。
やがて神殿の扉が開く。
そこから、死んだはずの勇者が歩いてくる。
魔物との戦いで折れた腕も、失った脚も、もう元どおりだ。待っていた人々に手を振れば、広場いっぱいに歓声が広がる。
俺も子供の頃は、その鐘が好きだった。
十二歳になった年、初めて死体を洗った。
それまでは、水汲みと薪運びが俺の仕事だった。
処理場の裏にある井戸から水を運ぶ。炉で使う薪を、雨の当たらない場所へ積む。腹が減ったらジンを探す。
俺を拾って育てた男は、たいてい、どこかで腰をさすっていた。
その日も、そうだった。
「ナギ。桶はもういい。こっちへ来い」
作業室には、荷車が一台入っていた。
白い布で包まれたものが、二つ載っている。
長い方と、少し短い方。
ジンは短い方を抱え上げ、低い作業台へ移した。
「端を持て」
俺は布の角を掴んだ。
開くと、男の人が寝ていた。
思っていたより若かった。顎に少しだけ髭が生えていて、口元に小さな黒子があった。
「兵隊?」
「ああ」
「寝てるみたいだな」
ジンは返事をしなかった。
俺の前へ椅子を置いた。
「上がれ。袖を捲れよ」
桶の湯に布を浸す。
言われたとおりに絞って、男の頬へ当てた。
冷たかった。
湯で濡らした布越しなのに、その冷たさが指まで届いた。
思わず手を引くと、ジンが俺を見た。
「今日はやめるか」
俺は首を振った。
水汲み以外の仕事を、ようやく任されたところだった。
もう一度、頬へ布を当てる。
泥が落ちた。
黒いと思っていた眉が、茶色になった。
「強く擦るな。皮が傷む」
「うん」
「耳の後ろもだ」
言われた場所を拭く。
髪の生え際に砂が溜まっていた。
俺は布を洗い直しながら尋ねた。
「この人、いつ帰ってくる?」
ジンの手が止まった。
隣の台では、長い方の包みが開かれていた。
そちらの男は立派な鎧を着ていた。胸元に銀の留め具があり、肩には剣をくわえた鳥の紋章。
露店の木札で見たことがある。
「勇者イザク?」
「ああ」
「本物?」
「本物だ」
俺は椅子の上で背伸びした。
黒い髪。高い鼻。壁に貼られた絵より、ずっと若い。
ただ、唇には色がなかった。
「勇者も、死ぬとこうなるんだ」
「死ぬんだからな」
「じゃあ、この人も一緒に帰ってくる?」
俺は、いま顔を洗っている男を指した。
ジンは少し黙ったあとで、イザクの襟を開いた。
鎖骨の下に、青い印があった。
輪の中を、細い線が三本横切っている。
傷でも、絵の具でもなかった。
皮膚の下で、かすかに光っていた。
「帰還印だ。これがあると、死んだあと、魂が神殿へ戻る」
「身体は?」
「向こうで新しいのができる」
「こっちは?」
「残る。だから俺たちが片づける」
俺は二つの台を見比べた。
「こっちの人には?」
「ない」
「つけてもらえばいいのに」
ジンはイザクの襟を戻した。
「誰にでもつけてもらえるもんじゃない」
「なんで」
「国と神殿が決める」
「この人も兵隊なのに?」
「ああ」
その返事が嫌だった。
ジンが決めたことではないと、わかってはいた。
それでも、ほかの答えを言ってほしかった。
俺は男の首元を見た。
粗い布の下に、青い光はなかった。
「じゃあ、この人は」
声が小さくなった。
ジンは、俺の手から汚れた布を受け取った。
代わりに、きれいな布を一枚くれた。
「迎えが来る。母親だそうだ」
昼を少し過ぎた頃、鐘が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
俺は数え終わる前に、窓へ走った。
処理場は神殿の裏にある。
正面の広場は見えなかったが、人々の声は聞こえた。
誰かが勇者の名前を叫んだ。
それに、たくさんの声が重なった。
俺は振り返った。
イザクは、まだ台の上にいた。
ジンが胸元の泥を拭いている。
「もう帰ってきた?」
「らしいな」
「でも、ここにいる」
「残った身体だ」
さっき聞いたばかりなのに、変な感じがした。
外では歓声が続いていた。
俺は窓と作業台を何度も見比べた。
そのとき、入口で小さな音がした。
戸を叩く音だった。
そこに立っていたのは、痩せた女の人だった。
両手で、布の包みを抱えている。
ジンが水で手を洗った。
前掛けを外し、女の人のところへ行く。
二人は低い声で話した。
俺には聞こえなかった。
やがて女の人が、部屋へ入ってきた。
俺の洗った男を見る。
足が止まる。
唇が動いた。
誰かの名前を呼んだのだと思う。
女の人は台の縁に手を置いた。
爪の間に土が入っていた。
俺は自分の爪を見た。朝、薪を運んだときの汚れが少し残っていた。
女の人が、抱えていた包みを開いた。
中には、茶色い上着が入っていた。
「これを」
声が掠れた。
一度、喉を鳴らしてから、言い直した。
「これを着せてやっていただけますか」
ジンが受け取った。
「はい」
「襟が、少しきついかもしれません。去年はまだ、着られたんですけど」
「大丈夫です。こちらで直せます」
「そうですか」
女の人は頷いた。
それから男の髪に触れた。
俺が洗って、拭いて、櫛を通した髪だった。
指で少し乱して、また撫でつけた。
外で、ひときわ大きな歓声が上がった。
女の人の肩が揺れた。
窓の方を見た。
ほんの少しだけ。
何か言うのかと思った。
けれど何も言わず、また息子の顔を見た。
俺は濡れた布を握ったまま、椅子から降りられなかった。
女の人が帰ったあとも、茶色い上着は台の脇に置かれていた。
夕方になって、ジンがそれを手に取った。
俺の洗った男の腕を袖に通し、胸元を合わせる。
襟は本当に少しきつかった。
ジンは糸を解いて、内側を広げた。
そうすると、きれいに収まった。
「苦しくない?」
俺が聞くと、ジンは針を止めた。
「もう苦しくない」
「じゃあ、直さなくてもよかった?」
ジンは上着の襟を整えた。
「母親が気にしてたろ」
俺は頷いた。
男の名前を聞いたのは、そのあとだった。
エルン。
十七歳。
町の西で母親と二人で暮らしていた。
俺より五つ年上だった。
ジンは記録板へ名前を書いて、それから俺にも見せた。
「覚えなくてもいい。だが、知らないまま済ませるな」
俺は文字を指で追った。
エルン。
泥を落とした顔に、その名前を結びつけた。
仕事が終わる頃には、広場も静かになっていた。
食堂へ戻ると、鍋に豆の煮込みが残っていた。
ジンは俺の椀に肉を一つ入れた。
鍋には、もう残っていなかった。
「俺も、印がない」
匙を持ったまま言うと、ジンが顔を上げた。
「そうだな」
「ジンも?」
ジンは襟を引っ張って見せた。
毛と古い傷しかなかった。
「ない」
俺は椀の中の肉を見た。
「じゃあ、気をつけないとな」
「ああ」
「荷車の下に入るときとか」
「そうだな」
「腰、痛いときも、重いの持つなよ」
ジンは少し困った顔をした。
それから、俺の椀を顎で示した。
「冷めるぞ」
俺は肉を食べた。
その夜から、三度の鐘を聞くと、俺はまず、ジンがどこにいるか確かめるようになった。
それから十二年が過ぎた。
俺は同じ処理場で、イザク・レインの死体を洗っていた。
三十七回目の死体だった。
腹の傷を縫っていると、入口で靴音が止まった。
「いつも悪いね、ナギ」
声の主は、戸口に立っていた。
俺は針を止めずに答えた。
「今回は早かったですね」
プロローグをお読みいただき、ありがとうございます。
勇者の帰還を祝う歓声が聞こえる場所で、息子の遺体に着せる服を差し出す母親がいる。ナギが育った世界を、そんな一日から描き始めました。
次回からは、二十四歳になったナギの日常が始まります。彼と処理場の仲間たちを、もう少し知っていただけたら嬉しいです。




