第十話 最愛の人
第十話、そして最終話です。
結婚式も、いよいよ終盤に差しかかっていた。
会場では今もたくさんの人々が楽しそうに語り合っている。
そんな中――
「スリジエ」
「はい?」
ミュゲ王子が、そっと私の手を取った。
「少し、こちらへ来てもらえますか?」
「どうしたのですか?」
「いいから、少しだけ」
そう言って王子は私を会場から少し離れた場所へ連れていった。
そこには、夜風の吹く静かな庭が広がっていた。
この屋敷に五年も住んでいるのに、まるでいつもと雰囲気が違う。
月明かりに照らされた庭は、昼間とは違った美しさを見せている。
ミュゲ王子は庭の片隅に置かれた椅子へ腰を下ろすと、隣をぽんぽんと叩いた。
「ここに座ってください」
「はい」
私も隣に腰を下ろす。
しばらく二人で夜空を見上げていた。
「……今日という日まで、いろいろなことがありましたね」
「そうですね」
私は小さく笑った。
「本当に、いろいろありました」
ベルフルール様との出会い。
五年前の別れ。
貴族として過ごした五年間。
ミュゲ王子との婚約。
日本への旅。
魂の交換。
そして――
ようやく、自分の身体へ戻ったこと。
思い返してみれば、あまりにも長い道のりだった。
「まさか……」
私は胸元のブローチへそっと触れる。
「こんな私が、こんなにも幸せになれるなんて。あの頃の私には、想像もできませんでした」
「僕もですよ」
「え?」
隣を見ると、ミュゲ王子は穏やかに笑っていた。
「僕がこんなふうに誰かと結婚して、心から幸せだと思える日が来るなんて……昔の僕が知ったら、きっと驚くでしょうね」
「ふふっ。私もです」
二人で笑い合う。
すると、ミュゲ王子が少しだけ俯いた。
「……あの」
「はい?」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
王子は恥ずかしそうにこちらを見る。
「僕と結婚して……少しでも良かったと思っていますか?」
「…………」
私はわざと考え込むような顔をした。
「うーん……どうでしょうか」
「え?」
ミュゲ王子の顔が、一瞬で強張った。
「もしかしたら、後になって後悔するかもしれませんし……」
「そ、そんな……」
王子の顔からみるみる血の気が引いていく。
私は思わず吹き出した。
「ふふっ」
「……?」
「なーんて、冗談に決まっているでしょう?」
「…………」
王子はしばらく固まったあと、大きく息を吐いた。
「もう……驚かさないでくださいよ」
「ごめんなさい」
「……本当に心配したんですから」
「ふふふ。ごめんなさい」
私は笑いながら謝る。
するとミュゲ王子も、呆れたように笑った。
「まあ、いいですよ」
「本当ですか?」
「はい」
そして――
「そういうところが好きなんですから」
「……もう!」
顔が熱くなる。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、こんなふうに笑い合えることが嬉しかった。
私たちは、それからしばらくの間、他愛のない話を続けた。
これからどんな家に住もうか。
どんな国にしていきたいか。
いつか日本へもう一度行けるだろうか。
そんな未来の話をしていると――
「あ、そうだ」
ミュゲ王子が何かを思い出したように声を上げた。
「スリジエ」
「何ですか?」
私が振り向いた、その瞬間だった。
「…………!」
柔らかな感触が、唇に触れた。
「…………っ!」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
けれど――
目の前にいるミュゲ王子を見れば、それが何なのかはすぐに分かった。
「な、何してるんですか……!」
顔が一気に熱くなる。
そんな私を見て、ミュゲ王子は楽しそうに笑った。
「ふふふ」
「もう!」
「もう、前の恥ずかしがってばかりいた僕ではないんですよ?」
「だからって……!」
「これからは、夫婦ですから」
「……っ」
そう言われると、何も言い返せなくなる。
「……ずるいです」
「何がですか?」
「そういうことを平然と言うところです」
「それも含めて、僕のことを好きになってください」
「もう……」
私は呆れたように笑った。
そして、王子も笑う。
二人の笑い声が、静かな夜の庭に響いていった。
――思えば、私はずっと何かを求めていた。
温かい食事。
安心して眠れる場所。
自分を必要としてくれる人。
家族。
友人。
そして――愛してくれる人。
貧しい暮らしをしていた頃の私は、それらを手に入れることなんてできないと思っていた。
けれど今、私はそのすべてを手にしている。
お父様とお母様。
ベルフルール様。
イリス。
リラ。
そして、私をいつも支えてくれるたくさんの人たち。
そして――
「ミュゲ王子」
「はい?」
私は隣にいる彼を見る。
「これからも、よろしくお願いしますね」
ミュゲ王子は優しく微笑んだ。
「もちろんです。僕の最愛の人」
「…………っ」
また顔が熱くなる。
「もう!そういうの反則です!」
「あはははっ!」
私は笑いながら、彼の肩にそっと寄り添った。
夜空には、満天の星が輝いている。
あの日。
何も持っていなかった私が、貴族になるために選んだ一つの運命。
もし、あの時別の道を選んでいたら。
もし、ベルフルール様と出会っていなかったら。
もし、ミュゲ王子と出会っていなかったら。
きっと、今の私はここにいない。
人生は、何が起こるか分からない。
だからこそ――
私は今、自分の人生を心から愛している。
無知だった私は、あの時「スマート」という言葉だけを頼りに、一人の王子を選んだ。
けれど――
今なら分かる。
私が本当に選んだのは、見た目でも、頭の良さでも、身分でもない。
どんな時も私を大切にしてくれた、この人の心だったのだ。
ミュゲ王子の手を握る。
彼も、優しく握り返してくれた。
そして私は、幸せいっぱいの笑顔で微笑む。
これは――
貧しい一人の少女が、たくさんの人と出会い、たくさんの困難を乗り越えて、
最愛の人と幸せな未来を手に入れた物語。
私にとって――
最高の人生であり、最高の恋物語である。
そしてこれからも、私たちの物語は続いていく───
最後までミュゲ王子とスリジエを優しく見守って下さった読者の皆様、本当にありがとうございました。
ここまで書き進めてこられたのも、皆様のおかげです。ありがとうございました。




