雨の夜に来たるもの
或る、雨の日の昼間。私は部屋で一人、ベッドの上で寝転がり。部屋の窓ガラス越しに、しとしとと雨の降る空模様を見上げて居る。
「……」
こうして静かに、雨の降る日を独りで過ごして居ると 時折、ずっと昔の事……私が未だ小学三年生の頃に起こった、あの出来事を思い出す。
あの時も、こんな雨の降る日を、私は一人で……
◇◇◇
198x年の或る日。郊外にポツンと建つ、自宅の一軒家。週末の午後、当時 小学三年生であった私は一人、家で留守番をして居た。
其の時、父は仕事で繁忙が発生し、会社に泊まり込み。母は昔に恩が有った縁者が急に亡くなったとの事で、当時 未だ幼かった末の子供を連れて泊まり込みの里帰り。兄は何やら学校の部活の合宿との事で、矢張り泊まり込みで部活練習に明け暮れ。そして私はと云うと、前々から予定されていた子供会の遠足行事を翌日に控え、一人、家の留守を任されていた。
「……」
だが、部屋の窓から外を見ると、今にも降り出しそうな空模様だ。翌日の遠足は雨天決行……ではなく、悪天候に因り中止の場合は当日の朝に電話連絡が来る事になっていた。……まぁ天気予報通りの雨なら、遠足は無しになるだろうなと、私は思った。幾分か楽しみにしていたけれど、此ればかりは仕方が無い。
其れでも私は、翌日の準備をきちんと整えて。作り置きの夕食を一人で食べた後、お風呂に入って歯を磨いて。自宅各所の戸締りが聢りされている事を確認してから、当時 与えられた二階の自室で少し早めの床に就いた。
◇◇
「……ん……」
外を降る雨の音に、私は目を覚ました。寝巻着の儘 起き上がり、寝惚け眼で時計を見ると、時刻は深夜。カーテンを開けて窓の外を見ると、外はザアザア降りだった。矢張り降り出したか、とカーテンを閉めた処で。
「……?」
下の階から人の気配を感じた、気がした。
……家族が深夜に急に帰って来た、とは思えない。戸締りは聢りした筈だが、まさか……? と思い乍ら、様子を確かめる為に、そーっと自室の扉を開けて、真っ暗な廊下へ物音を立てず歩み出た。
◇
ゆっくりと、階段の手摺りに掴まり乍ら、一階に降りた。
……! 部屋の一つ、開け放しの扉から明かりが漏れており、やっぱり誰か居る。そして……何やら忙しなく動き回っているような気配を感じた。……誰かが忘れ物でも取りに家に戻って来た? こんな夜中に? もし可能性があるとしたら父親ぐらいだろうが……いや先ず あの部屋に、父が取りに来るような忘れ物が在るとは思えない。其れに何と云うか……物音から、忙しなく動き回っている様子が窺えるものの、其れでも出来るだけ物音を立てないようにしている様な、そんな雰囲気を感じる。深夜、寝ているであろう私に気を遣って、何か探し物でもしている? ……いや、やっぱり何か変だ。ひょっとしたら……と最悪の想定をし乍らも、自分の眼で確認する為に、忍び足で部屋に近づいた。そして姿勢を低くして、開いた扉から部屋の中をソッと覗き見た。
「……!」
果たして最悪の予想通り。其処に居たのは、此方に背を向けて部屋の中を物色する、見知らぬ男だった。
男は灰色のフード付き上着を羽織ってジーンズを履いており、手には(指紋を残さない為なのか)手袋を着けていた。体格は私の父親よりも小さく、チラリとフードの隙間から見えた横顔は20代ぐらいに見えた。だけど前髪が白っぽい?……いやあれは、髪を染めているんだな。そして上着の左前身頃が不自然に盛り上がっていた。何か、包丁だとかの凶器を隠し持っている可能性も在る。
……なんて事だ! 家族に留守を任されたのに、泥棒に入られるだなんて!
其の時の私は、泥棒に対する『恐怖』と共に、自分の失態に対する『憤り』を強く感じた。
だが、其処で『ドロボー!!』と叫んで悪漢を追い出そうとするような軽率さは、持ち合わせていなかった。……恐らく此の状況では、ほんの少しの行動の誤りが、身の危険を齎すだろう。
不幸中の幸いにも、泥棒は此方に気付いた様子は無く、其の隙に私は部屋の扉からソッと離れた。
……だけど、どうする? 家の電話から、両親か警察に報せる? ……いや電話している時に、物音を聞き付けられて泥棒に見つかって、逆上して襲われるかも知れない。
ならば、御近所さんの家か警察に直接行って、助けを求めるか。深夜に雨の中を少々 走る事になるが、濡れるのが嫌だとか悠長な事は言っていられない。私は、短い廊下を忍び足で玄関に向かった。
玄関には、見知らぬスニーカーが一足、脱ぎ置かれていた。踵部分を履き潰していて、何だか薄汚れている。間違い無く、あの泥棒の物だ。だけど靴は雨に濡れた様子は無く、玄関に足跡も無かった。きっと雨が降り出す直前に家に侵入したのだろう。……漫画なんかだと、泥棒は土足で入り込んで家中を荒らすイメージが有ったけれど、此の泥棒は違うらしい。現金や金目の物だけをコッソリ盗んで、発覚を遅らせる算段だろうか? だが、今泥棒が居るあの部屋は、半ば『物置き』のように扱われている部屋で、そう云った金目の物は無かった筈だが。
……と。玄関の傘立てに、鈍く銀色に光る細長い棒状の物……父のゴルフクラブが立て掛けて在ったのが目に留まった。此れは確か……父が会社の上司から貰った中古のゴルフクラブだ、って言ってたっけ。其の上司が新しいゴルフクラブを買って、もう要らなくなったからって譲り受けたそうだ。……だけど父はゴルフなんかやらないものだから、ほんの少し触っただけで使わなくなり、かと云って上司からの貰い物を無下にする事も出来ず、こうして我が家の玄関に収まっている訳だ。
「……」
だが。此のゴルフクラブが有れば、例え大人が相手であっても、(当時)小学三年生の私でも撃退出来るんじゃないか? と思った。思ってしまった。
……ゴルフクラブに対してこんな事を言ったら『ゴルフを愛する人に対する冒涜だ』などと怒られそうだが、悪いけど私も父と同じくゴルフに対しては興味が無いし、相手だって包丁を其の様な用途で携えて来ているかも知れないのだ。
其れと……私の『撃退出来るかも』との思考には、数日前に読んだ『子供が活躍する冒険活劇ものの児童文学書』の影響もあったかも知れない。
兎に角、其のゴルフクラブを何とは無く手に取った、其の時。
「……誰だ!?」
誰何の声を掛けられ私が振り向くと、其れ迄 物色していた部屋から出て来たばかりの泥棒と、目が合った。
◇
「クソっ」
と、其の泥棒が短く吐き捨てた。
……いや、『お前は誰だ』も『クソったれ』も、此方の台詞だ!!
其の余りにも身勝手な泥棒の態度に因り、泥棒への『恐怖』を瞬時に『怒り』で引っ繰り返した私は。ゴルフクラブを引き抜き両手で持ち、短い廊下を泥棒へ駆け向かった。
「!? なっ!?」
泥棒にとって、私の行動は完全な想定外だったようだ。だが泥棒は其れでも、上着の懐に手を入れて何かを取り出そうとするぐらいの反応はして見せた。
「!?」
其の動作に驚いた私は、しかし駆け出した勢いは止まらない。其の儘、ゴルフクラブを振り回し、泥棒に向かって振り下ろした。
狙いも何も無い其の一撃は、丁度、凶器を引き抜いた泥棒の腕に命中した。
「痛ッ……」
『バンッ』
泥棒の苦鳴の声と、弾き飛ばされた刃物が壁に撲ち当たった音が、同時に響いた。
「ヒッ……」
其の凶器を見て、半ば正義感に酔っていた私の心中は、途端に死の恐怖に満たされる。其の恐怖心に因り足を止めた私と 腕の痛みに状況把握が追い付いた泥棒の 視線が交差する。其の泥棒の表情は『なんで こんな状況になったのか』と云う困惑と、『生命の危機を感じた』恐怖と、『そんな状態を作り出した目の前の相手に対する』怒りとを混ぜ合わせた様な物だった。而して其の時の私自身も、目の前の泥棒と同じ表情をしていたに違いなかった。
そして次の瞬間。僅かに先を動けたのは、身体に痛みを伴っていない私の方だった。
「ッアァァァアァッッ……!!!」
其の時に私を突き動かしたのは、初撃時の様な『正義感による高揚感』ではなく、『ヤらなければヤられると云う恐怖感』だった。有りっ丈の憎悪を込めて、いや『結果、相手がどうなるか』など考えない『只、目の前の脅威に対して私が与え得る最大の傷害』の為に、無我夢中で再びゴルフクラブを振るった。
「ヒッ……」
今度は相手が恐怖に怯み、相手は思わず顔を両手で覆った。
……だが。
『ブォン』
「グォオ……ッ!?!」
泥棒にとっては運の悪い事に、振るったアイアンのヘッドは泥棒の股間に減り込んだ。泥棒の腕に当たった時とは違った、もっと柔らかい物を殴り付けたような感触が、手に伝わる。其れを『気色悪い』とか『痛そう』とか感じる余裕は、其の時の私には全く無かった。只、単に『効果は抜群だ』と云う束の間の喜びが、在っただけだ。
そして其の成果として、泥棒は苦しそうに股間を押さえ、身体を『くの字』に折り曲げる。……其の様子を見て、私の心持ちに ほんの少しだけ『余裕』の様なものが出来た。私は泥棒へ更なる追撃を加える為に、丁度 私へ差し向けられる格好になった泥棒の頭部へ狙いを定め、ゴルフクラブを構える両手に力を込めた。そう、初撃時と次撃時、私は相手の事を見ているようで見ていなかった。一撃目は『任された留守を守る為』の『正義感』に突き動かされて、偶々手に取った武器を泥棒に打つけただけだった。二撃目は、相手が持つ『凶器』を目の当たりにして、『恐怖心』から手に持った得物を我武者羅に振り回しただけだった。
……よくも家に、泥棒に入ってくれたな。しかも相手は、凶器を携えていた。ヤらなければヤられる。……今度こそ、明確に相手を動けなくする為に。差し出された頭部へ狙いを定めて。
「……シッ……!」
聢りと相手を見ての攻撃。泥棒が着用していたフード越しに、凶器の先端が僅かに標的の頭部へ減り込んだ様な感触を返した。
『ゴッ』
「ぐぇっ」
一撃に因り、相手は片手で後頭部を押さえ、床に もう片手と膝を突いた。
やった……! 今度こそ、決定的な一撃を入れる事が出来た!
私は生き延びた歓喜に打ち震え、其れは『学校の初めてのテストで百点を取った』『練習の末に自転車に乗れるようになった』『25mプールをクロールで息継ぎして泳ぎ切れるようになった』等の感動を遥かに上回る、(当時迄の)人生最大級の物だった。
……しかし、其れが油断となり。ほんの数瞬後、もしくは数秒の後、飛び跳ねるように立ち上がった泥棒に、私は突き飛ばされた。
『ドンッ』
「うぐっ」
私は廊下の壁を背に、其の場に尻餅を搗き、そして衝撃で両手の得物も手離してしまい、其れは私の視界外へ転がって行ってしまった。
一方、私が先に弾き飛ばしていた泥棒の包丁は、壁に打つかって跳ね返った後、今は泥棒の直ぐ足元に転がっていた。
「……っっ!!」
ほんの少しの油断により、形勢は逆転してしまった。
生存の喜びを噛み締める前に、きっちり止めを刺しにいっていれば。……いや、只の小学生である私に『ちゃんと止めを刺せたか』など分かろう筈が無い。そんな事を気にせず 只管に、泥棒にゴルフクラブを振り下ろし続けてさえいれば、私の命は助かったのに……。
……。
だが。
其の泥棒の手により、凶器が私に振り下ろされる事は無かった。
目の前の泥棒は、立ち上がった勢いで偶々私を突き飛ばしただけの様だった。そして何処を見定めているのか分からない目線の儘に一歩を踏み出し、其処には出刃包丁の柄が在った。
泥棒は其れを踏ん付けて滑って尻餅を搗いて素っ転び、出刃包丁を前方へ放り飛ばした。
「……」
其の明らかに正常な状態ではない様子をボーっと見る私の目の前で、泥棒はまたヨロヨロと立ち上がる。……私が与えた痛みに比べれば、尻餅を搗いた時の衝撃などは何でも無い様だ。
そして、
「……痛ェ……痛ぇよ……痛ェ……気持ヂ悪い……」
と呟き乍ら、瞬発的な動きと緩慢な動きを織り交ぜて不自然に身体を揺らし。まるで私の事など視界に入っていないかの如く、覚束無い足取りで玄関の方へフラフラと歩いて行った。
私は其の様子を、座り込んだ儘、眺め見ていた。
そして泥棒は、地面に這い蹲る様な姿勢で足にスニーカーを突っ掛けた後、縋る様にガチャガチャと家の扉を開けた。
稍々もたついていたが、玄関扉が開けられた途端に、深夜の夜闇と 激しい雨音と 湿った土の匂いが 流れ込んで来た。そんな暗闇の中へ、泥棒は躊躇無く吸い込まれるように歩き去り、そして其れを見届けたかの様に玄関扉がバタンと締まった。
◇◇
泥棒が去ってから数分間、いやひょっとしたら数十分間、私は床に座り込んだ儘呆然として居た。
が、軈て我に返り、立ち上がって『(……そうだ! 110番だ!)』と、廊下奥突き当りの電話器へバタバタと駆け向かった。
黒電話の送受話器を取ろうとするが、今更ながら手指がガクガク震えて、送受話器を上手く取れない。そして、
『ガチャンッ』
「アッ……」
激しく揺れる手に送受話器が打つかり外れ、コードでぶら下がった状態になる。
……もう送受話器を取るのが面倒(?)になり、其の儘の状態でダイヤルを回そうとするも、
「……~~っっ!!」
其の震える手指では、送受話器を取る以上にダイヤルを回す事が、先ずダイヤルの穴に指を入れる事が、上手く出来なかった。
そして電話を掛けようとするのと同時に、警察へ何と説明するか、頭の中で考え始める。
明日は遠足で、泥棒に入られて、此処は郊外にポツンと建つ一軒家で、一人で留守番してて、今は夜中で、親兄弟は皆 用事で余所に泊まり込みで、泥棒は最初は私に気付いていなくて、外はザァザァと雨が降っていて、父は仕事で死ぬほど忙しくて、いや死んだのは母の知り合いで、兄は部活の合宿で、母は未だ小さい弟を一緒に連れて行ってて、今日の昼間は未だ雨は降っていなくて、遠足が雨で中止になるなら当日の朝に電話がある筈で、泥棒に殺されそうになって、寝ている最中に起きてしまったので物凄く眠くて、凶器は包丁じゃなかったゴルフクラブいや やっぱり出刃包丁で、あの泥棒は私と同じで きっと他人と喧嘩なんかした事が無くて、其れでも兎に角は運良く泥棒を撃退して、手が物凄く震えて電話が掛けられなくて、多分盗まれた物は何も無さそうで、泥棒は恐らく侵入した玄関からパッと目に付いた あの部屋から物色し始めてて、私は人と話すのがとっても苦手と云うか億劫で、なので私は友達が一人もおらず遠足も誰とも喋らず黙々と歩く事になるだろうけど別に其れは全く気にしていなくて、泥棒はきっと被害の発覚を遅らせる為に部屋の中を無闇に荒らしていなくて、泥棒が家の物に被害を与える前に私が泥棒を殴り付けたから家の中は何も変わりが無いように見えると云うか実際何も変わっていなくて、殺されそうになったのとゴルフクラブを強く握り締め過ぎたのと物凄く眠いのと逆に泥棒を殺しそうになったのと其れで物凄く体力を使ったのとで手の震えが治まらなくて、多分此の雨なら遠足は中止で、先日に読んだ冒険活劇の児童文学書が面白くて、こんな事をしている間に また あの泥棒がやって来るかも知れなくて、……
~~あぁ~~もう! 考え始めたら考えが止まらず、余計に電話の操作を阻害するようになってしまった。ダイヤルを三回、回すだけなのに!
……もういい!!
イライラが募った私は衝動的に、震える手を無理矢理 下から振り回して、コードでぶら下がっていた送受話器を掬い上げる様に、勢い良く叩き上げた。
すると、
『ガチャンッ』
掬い上げられた送受話器は丁度、元のフック部分に納まった。
「あっ……」
自業自得とは云え 余りの偶然に、数瞬、私は電話の前で呆けてしまった。
◇
数秒後、『こんな事をしている間に、またあの泥棒が戻って来るかも知れない(?)』と思い直した私は、落ちていた武器を震える手で拾い上げた。
……いや、そうじゃない、『また あの泥棒が入って来れないように、玄関の鍵を閉めなければ』と、ゴルフクラブを傘立てに戻し、震える手でモタつきながらも玄関扉の鍵を
『ガチャリ』
と閉めた。
……戸締りは きちんとした筈なのに、あの泥棒はどうやって家に侵入したのだろうか? 私は(今更ではあるが)再び、家の戸締りを点検して廻った。
◇◇
家の戸締りは、全く問題が無かった。では、あの泥棒は、家の合鍵でも持っていたと云うのだろうか?? ……考えても答えが出ない。と云うか少し冷静になって最後の泥棒の様子を思い返してみると。あの『人として何処か壊れてしまった』かの様相では(私がやったのだが)、すぐ再び家に侵入して来るのは無理なように思えた。なので次は……あの泥棒が侵入した部屋から何か盗まれた物が無かったか、確認する事にした。
◇◇
「……」
部屋には、何かを盗られた様子は全く無かった。先にも言ったように、抑々 此の部屋は半ば物置のように使われている部屋だ。盗まれるような貴重品は、何も無い。
念の為、他の部屋も見て廻った。……が、荒らされた様な形跡は見られなかった。矢張り あの泥棒は、玄関からパッと目に付いたあの部屋へ最初に侵入し、そして金目の物が見つからなくて部屋を出た直後に、不意打ちの様に私と出会ったのではないか、と思えた。
取り敢えず、人的にも物的にも被害が無さそうなのは良かったが、電話はしなければいけないか……と思った処で。見廻りをしている内に手の震えは或る程度は治まっていたが、今度は猛烈な眠気(と疲れ)が襲って来た。小学三年生が、大の大人を相手に、極度の緊張を強いられて、あれだけの大立ち回りを演じたのだから無理も無かろうか。兎に角、もう『電話で何と言って説明しようか』を考えるのも億劫になり、二階の自分の部屋に戻ると、倒れ込む様に、眠りに……落ちた。
◇◇◇
其の夜。私は、悪い夢を見た。……と云っても、人に殺されたり、人に追い駆けられたり、の様な典型的な悪夢ではなく。予定していた翌日の遠足に遅刻してしまう、と云う内容の夢だった。
夢の中で『折角、準備していたのにな』『……アレ、でも目覚まし時計は仕掛けたのに、どうして起きられなかったのだろう?』『いや抑々、あの雨なら遠足は中止では』『此れは……夢ではないか?』
と、考えた処で。
「……ん……」
私は再び目を醒ました。
身体を起こし、遅刻ではないか時刻を確認しようとしたタイミングで、
『ジリリリリリ……』
と目覚まし時計が鳴り始めた。
目覚まし時計を止めつつ、時刻を確かめる。……うん。寝坊をしたのは、夢の中だけの事であったようだ。
「……」
夢……。昨夜、我が家に泥棒が入ったけれど、実はあれも夢だったんじゃないか?
などと、ボーっとする頭で考えつつ。寝床から起き上がり、カーテンを開け、外の天気を確かめた。
「……」
外は、しとしとと雨が降っている。此の天気なら、矢張り遠足は中止だろうか。……孰れにしろ、と私は毎朝の様に先ずは洗面所へと向かった。
◇◇
トイレを済ませ、顔を洗って、歯を磨いて……と一通りのルーチンを終えて。私は朝食のトーストを食べ乍らテレビを点けて見ている。
『……次は、今日の天気です。……』
他に家族が居ない事と、時刻が普段より早い事を除けば、全くいつも通りの、朝の光景だ。……いや、昨夜の泥棒騒動も実は夢で、本当に何も起こっていなかったのでは? と思いつつ、テレビを眺める。天気予報では……雨は、弱まり乍らも降り続くらしい。朝食を食べ終えた私は、其れでも今日の遠足に持って行く予定のお弁当を作る事にした。
◇
テレビを点けっ放しにし乍ら、一人でサンドイッチを作る。……作ると云っても、母が予め用意してくれた材料を冷蔵庫から取り出し、マヨネーズを薄く塗ったパンに挟んでラップするだけだが。
そうしてサンドイッチを作り乍ら、……昨夜の事件はニュースになっていないだろうか? などと思いテレビを見ていた。だがしかし、そんな報道は全く流れない。
……いや抑々、被害者が通報をしていないのだから、ニュースになる筈が無いのだけれど。精々、『二十代の男性が頭部をバールのような物で殴られて路上に倒れていたのが発見されました』ぐらいだろうか。
「……」
矢張り、110番は すべきだろうか、とサンドイッチを作り終えた私は、家の電話器へと向かった。
◇
「……」
家の黒電話の前で、何と言ったものかと考え込む。見ての通り、家に泥棒の被害や痕跡らしきものは何も無いし、加えて『泥棒に入られたのは実は夢だったかも知れなくて、』などと言おうものなら、怒られるだけでは済まない気がした。だが、もう手の震え等は全く無い。送受話器に手を掛けようかとした其の時、
『ジリリリリン、ジリリリリン、……』
と、目の前の黒電話が鳴りだした。
痺れを切らして向こうの方から電話を掛けて来た?
……いや、何を馬鹿な事を考えたものか、此れはきっと、と送受話器を取る。
「……もしもし」
「もしもし。此方、然瀬町 子供会ですけど」
と、野太い大人の男性の声がした。ほらね、やっぱり、
「……今日の、遠足の予定、ですか」
と少々謇りながら応える。
「……ああ、なんだ参加者の子供か。今日の遠足は雨で中止になったぞ」
と、此方が子供と分かったからか、途端に先方の口調が粗略なものになった。……正直な処、(後に云う処の)コミュ障だった私としては、此の様な接し方をして来る大人は少し苦手だった。だが、
「……天気予報では、雨は弱まるそうですが」
と食い下がった。……いや、昨夜の泥棒騒動の事を誰か大人に相談したくて、其の時の私は無意識に話を引き延ばそうとしていたのかも知れない。だが、
「そりゃあ、舗装された道を歩くだけの遠足なら、傘を差したり合羽を着たりで行けるだろうけどな。今回は野道を歩くから道は泥濘んでいるだろうし、其れにコースには川の近くを歩く所も在るから、子供達を連れて行くには面倒だ」
「……代わりの……コースとかは……」
「そんな物は無い」
と返されてしまった。
「……そうですか、分かりました。処で、あの……」
「楽しみにしていたのは分からんでも無いが、諦めろ。他の家にも連絡しなけりゃならんから、其れじゃあな」
と、忙しなく電話を切られてしまった。
「あ……」
一瞬、呆然とした後、まぁ仕方が無いかと、黒電話の送受話器を置いた。




