第8話 社長査察 ― 「安全第一、命は自己責任」
労基署への是正報告を提出し続け、はや半年。
あの執拗な“是正三連撃”を経て、ようやく「受理されました」と連絡が来た翌朝だった。
――藤井仁(36歳)の机には、社長直筆のメモが置かれていた。
《社長による現場査察を実施する。テーマ:安全第一。誠意をもって臨むこと。》
半年かけて鎮火した火事を、社長が自らガソリンをかけて再点火したような気分だった。
(……火の気は総務からじゃなく、社長の頭から出てるんだよな……)
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■社長、誠意に燃える朝礼
翌朝八時。
食堂前のホールに全社員が集合させられた。
社長(77歳)はスーツをパンパンに張らせ、白手袋をつけ、胸を張る。
「私はね、社員の命を何よりも大切にしているんです。安全こそ、経営の礎です!」
(昨日まで“納期のために命張れ”って言ってた人のセリフじゃないですよね……)
お局(71歳)が横でにっこりと笑い、
「社長、“命を守る経営”の特集、社内報に載せましょう」
「うむ、それはいい! “命を守る社長”だ!」
(……その命、毎日すり減らされてるんですけど)
社長はさらに声を張った。
「今回はサプライズで現場を回る。ありのままの姿を見たい!」
「……了解しました」藤井は苦笑した。
(“ありのまま”を見たい上司ほど、現実を見た瞬間にブチ切れるんだよな……)
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■現場、大パニック
昼前。社長査察の情報が工場中に流れた。
組立部はまるで火事場のような騒ぎになっていた。
組立部長(76歳)が怒鳴る。
「おい! 社長が来るんやて!? 今日だけでもヘルメットかぶっとけ!」
ナンバー2(56歳)はげっそりした顔で、
「昨日も残業でみんなフラフラなんすよ……」
「社長の前で倒れるなよ! 倒れるなら通路の外で倒れろ!」
(それ、昼巡回の俺の鉄板だけど……通路は社内だから労災になるだろ!)
加工部長(75歳)が口を挟む。
「ヘルメットなんざ飾りだ。うちは“手触りで安全”を守ってんだよ」
鼻毛爺い(74歳)がモップを持って現れた。
「見た目って大事だからな! 床、ピカピカにしとくわ!」
ツルツルに磨きすぎた床で、パートの一人がスケートのように滑っていった。
藤井は思わず頭を抱える。
(……安全対策が物理的に滑ってどうする)
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■社長、降臨
社長が現場に足を踏み入れた。
白手袋を掲げ、ドヤ顔で歩くその姿は、まるで政治家の選挙カー。
「私は、命を大切にする経営者です!」
技術部長(61歳)が曖昧に笑う。
「ええ、どちらのご意見ももっともでございます」
「誰も意見してないぞ?」と藤井が小声でツッコミを入れた。
お局がカメラを構えながら言う。
「社長、“誠意ある笑顔”でもう一枚!」
「うむ、任せたまえ!」
その瞬間――。
社長の足が延長コードに引っかかり、盛大に転倒した。
ドシンッ。
全員が凍りついた。
「社長――!」
社長は起き上がり、鼻の頭を押さえながら言った。
「だ、大丈夫だ……! 転倒も経験だ! リスク管理の実地研修だ!」
(お願いですから、もう経験値積まないでください……)
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■現場、カオスと化す
社長が転んだ直後、ナンバー2が叫んだ。
「社長が転倒したのは床が汚れてたせいです! 今すぐ磨き直します!」
部下たちは慌ててモップを手に取り、床をゴシゴシ。
「俺は昨日も終電まで残って安全対策してたんだ! お前らも根性見せろよ!」
部長が渋い顔で言う。
「せやない。掃除は安全活動ちゃう。お前の後始末や」
(いや、どっちにしても残業確定だろ……)
お局がぽつりと呟く。
「誠意があれば事故も減るわよねぇ」
(誠意がブレーキになるなら、交通安全協会が黙ってませんよ……)
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■査察終了、そして“奇跡の広報化”
午後、社長は応接室でお局と談笑していた。
「いやぁ、社員たち、実に活気があって素晴らしい! 私の視察中、誰一人としてサボっていなかった!」
(そりゃ、倒れた社長の前で動けるわけないでしょ……)
お局がペンを走らせながら言った。
「“社長、自ら転倒し安全の大切さを体現”――このタイトルでいきましょうか?」
「いい! 誠意が伝わる!」
(伝わるのは危機管理の無さですよ……)
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■翌日、総務室にて
藤井の机には、社内報の見出しが躍っていた。
《社長、現場視察で身を挺して安全意識を示す!》
藤井仁はコーヒーをすすりながら、ぽつりと呟いた。
「……いや、身を挺したのは重力だ」
お局が後ろから覗き込み、言う。
「次は“再発防止会議”よ。社長が議長を務めるって」
「……まだ一回目の発生ですよね?」
「“再”ってつけたほうが誠意が伝わるでしょ?」
(誠意の多用は粉飾です)
壁のカレンダーには、赤ペンで書かれていた。
《社長主導:安全再教育会議/議題:命の使い方》
藤井は天井を見上げて息をつく。
(是正の次は査察、査察の次は再教育。
再教育の次は再発。再発の次は……再提出か)
その横で、誰かが新しい安全標語を貼り出していた。
《安全第一、命は自己責任》
藤井はそれを見つめ、口の端をゆがめて笑った。
(……やっぱりこの会社、まだ死んでないな)




