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総務課長・藤井仁の憂鬱 ― 臨終雇用は日本の縮図  作者: みえない糸


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第7話 是正報告書、三たび ― 社長不在の出頭劇

午前九時半。総務課長・藤井仁は、またしても労働基準監督署のドアをくぐっていた。

 ポケットには汗でよれた是正報告書。

 書き直し、捺印、社長の「誠意でいい」の一言を添えて提出するのは、これで三度目だ。


 ――三度目の出頭。しかも社長はまたしても姿を見せない。

 (……社長の“誠意”はいつも口約束だけ。実行するのは俺の足だ)


 受付の若い職員が顔を上げ、書類を見るなり目を丸くした。

「あっ、藤井さん……また、ですか?」

 “また”が妙に突き刺さる。

「はい、少々修正を加えましたので」

「課長、少々どころじゃありません。うちではもう“藤井ファイル”って呼ばれてます」

 苦笑しか出ない。公務員のジョークは笑えないからタチが悪い。


 通されたのは、前回と同じ部屋だった。

 ドアの奥から、あの声が聞こえる。

「おやおや、またお会いしましたね、“誠意の方”」


 ベテラン監督官の声だった。

 笑っていない笑顔。目の奥が、前回の口論の記憶で光っている。

 ――社長が暴れた日の、因縁が今もくすぶっている。


「本日は……社長様は?」

「ええ、本日も業務多忙のため、私が代理で」

「そうですか。まさか三度続けて“代理”とは、さすがに誠意が違いますね」


 刺すような皮肉が飛ぶ。

 若手の監督官二人が横に座り、メモ帳を構える。

 一人が小声でつぶやいた。

「これが例の“対応力を見る好事例”ってやつですか?」

「そうそう、若いうちに生で見とくといい」

 教材扱いである。


 机の上には、藤井の提出した是正報告書。

 表紙には赤ペンで大きく「再提出」と書かれていた。

「さて、拝見しましたが……“労働時間の適正把握に努める”とは、具体的にどういう意味でしょう?」

「ええ、その、勤怠システムを導入し――」

「“導入予定”と書かれてますが、導入はいつです?」

「……検討中です」

「つまり、まだ。検討とは何を?」

 もう口が乾く。

 藤井が言葉を選ぼうとした瞬間、若手が横からメモを覗き込みながら、声を上げた。

「“誠意をもって対応”って、いい表現ですね! やっぱり現場感あります!」

「おい若いの、茶化すな」

「いえ、教材として最高で――」

「……静かにしてろ」


 沈黙。

 監督官が椅子を回しながら書類を指でトントンと揃える。

「まあ、努力や誠意も結構です。ですがね、法律は情じゃ動きません。

 再発防止策っていうのは、“また怒られない方法”じゃない。“怒られる要素を消す”ことです」


 (……そんなの、俺が一番わかってるよ。怒られる要素=社長そのものなんだよ)


 監督官が紙束を返しながら言った。

「では、再提出。今度は“具体的手段”を添えて。次はもう“ご指導”では済みません」


 ***


 帰社後。

 総務課のデスクに座る藤井の前で、社長が笑っていた。

「労基署? ああ、うるさい連中だな。誠意を見せたか?」

「はい。見せすぎて寿命が削れました」

「ははは、よく言う。誠意を尽くせば伝わるんだ。私はそう信じてる」

「……伝わったのは恨みでした」


 書類の山に再び手を伸ばす。

 第二稿。

 “誠意をもって是正に努めます”を“真摯に対応いたします”に書き換え、

 “勤怠の徹底”を“適正管理”に変えた。

 違いは言葉だけ。

 だが社長は満足げにうなずく。

「いいじゃないか。柔らかい。役所は丸く言えば丸く収まる」

(丸くなったのは俺の背中だけですよ……)


 翌週、再び提出。

 結果――不受理。

 理由:「誠意の具体的担保がない」


 三度目の報告書では、“具体的に週一回の確認会議を実施”と書き足した。

 それを見た監督官は言った。

「会議を増やすのは対策ではなく“残業を増やす要因”ですよね?」

 ――確かに。

 (……これもう禅問答だな。是正じゃなくて修行だ)


 ***


 夏が終わる頃、また電話が鳴った。

「労働基準監督署です」

 声のトーンでわかる。あの監督官だ。

「何度も申し訳ありません。“改善策の持続性”について再度お話を……」

「持続性、ですか」

「ええ、“努力を続ける”では努力の持続性が証明できません」

(じゃあどう書けば……“努力を永遠に”か?)


 社長は電話を聞きながら笑っている。

「よし、努力を永遠にって書いとけ! いい響きじゃないか!」

(宗教法人かここは……)


 ***


 半年後。

 電話が鳴った。聞き慣れない声だった。

「労働基準監督署の新任の者ですが。前任の担当が異動になりまして――」

 ――ついに来たか。

「ええ、是正報告の件でして。引き継ぎ資料が見当たらないので、提出分はこれで受理ということで」

「……ありがとうございます」

「はい、お疲れさまでした」


 電話を切った瞬間、藤井は机にもたれかかった。

 書類の山に囲まれながら、ゆっくりと天井を見上げる。

 (……是正って、制度を直すことじゃないんだな。人が異動することなんだ)


 静まり返った事務所の中、パソコンのファンがかすかに鳴っている。

 その音が、まるで労働の終わらない残響のように聞こえた。

 そして藤井は小さくつぶやく。

「……次は誰が、俺の“誠意”を審査する番なんだろうな」


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