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第6話「是正報告書の夜 ― 誠意では足りない」

 午後五時五十五分。

 労働基準監督署の調査は、ようやく終わりを迎えようとしていた。

 監督官が机の上の資料を丁寧に重ねながら、眼鏡越しに藤井仁ふじい・ひとしを見た。

「本日の調査の結果をまとめました。――こちらの内容が指導対象です」


 違反事項で用紙が真っ黒になるくらいに書き込まれた書類が机の上に置かれる。その紙束は、まるで“会社の余命宣告書”のようだった。


「労働基準法第三十二条および第三十六条第六項の違反を確認しています。

 長時間労働、休日労働、三六協定の超過……。加えて、過去の時間外実績の再確認と、割増賃金の支払いをお願いします」


 監督官の声は冷静だったが、その一言一言が重かった。

「この内容に相違なければ署名捺印してください」

…反論の余地もなく、社長は退席したまま…署名するしか無い…


「それでは今回の事項に対して再発防止策をまとめて報告書として提出してください。期限は二週間。抽象的な誠意ではなく、具体策でお願いします」


その書類を受け取り、一旦部屋を出ると社長は監督官に怯まず言い負かした気でいるのか満面の笑みを浮かべている。

「いやあ、いろいろ言われたが、うちは誠意をもってやってますからね。ね、藤井くん」

「……はい」

「“誠意”を報告書に書いておけば伝わるだろう」


(伝わるのは“誠意”じゃなくて“再提出”ですけどね……)


 ――その日、社長は悠々と帰り、監督官たちも書類を抱えて署へ戻っていった。

 残されたのは藤井仁ひとり。

 蛍光灯の白い光が、机の上の是正勧告書を照らしていた。



深夜の総務室


 夜九時を過ぎた社内は、まるで廃墟のように静まり返っていた。

 外では街灯が雨に濡れ、オレンジ色の光をぼやかしている。


 藤井はパソコンの画面をにらみつけながら、唸っていた。

 是正報告書――再発防止策――労働時間の適正把握。

 頭の中で条文が踊り、言葉が空回りする。


(誠意じゃダメ。努力でもダメ。……つまり、奇跡しか残ってないってことか)


 画面のWordには、すでに「誠意」「努力」「真摯」「改善に努める」という言葉が三十回近く登場していた。

 一度読み返すと、まるで道徳の教科書のようだ。


 コーヒーを啜りながら、藤井は独り言を漏らした。

「“働き方改革”って……働く人が死なないようにする制度のはずだよな……。

 でも今、改革書いてる俺が一番死にそうなんだが」


 総務室の隅には、貼り出されたポスターがある。

 《健康経営宣言! 笑顔で働ける職場へ!》

 ――その下で、目の下にクマを作った課長が、深夜までキーボードを叩いている。


(笑顔で働けって言うなら、まず残業ゼロの会社紹介してほしいわ……)



翌朝:社内是正会議


 翌日午前十時。

 藤井は完成した草案を片手に、社内是正会議に臨んでいた。

 会議室には社長を筆頭に、組立部長、調達部長、技術部長、鼻毛爺い、お局が並んでいる。


 社長が開口一番、神妙な顔で言った。

「さて、昨日の調査で指摘された件だが、うちは“誠意をもって”対応する。これが基本方針だ」


 藤井は小さくため息をついた。

「社長、“誠意”はもう封印してください。監督官から“誠意では足りない”と明確に言われています」


「じゃあ、“誠心誠意”にしてはどうだ?」

「濃縮しても駄目です」


 お局がすかさず割って入った。

「でもねぇ、残業なんて昔からの文化よ? “やる気の証拠”って言われてたじゃない」

「その証拠が今、是正勧告書です」


 組立部長が机を叩く。

「ほな、残業時間減らせって言われても、納期どうすんねん!」

「人を増やすとか――」

「そないな予算あるかい!」


 社長が頷いた。

「うん、残業削減より、納期遵守が最優先だな」

「社長、それが違反の原因です!」



 藤井が頭を抱えている横で、技術部長が静かに手を上げた。

「双方の意見、どちらももっともです。誠意と現実、そのバランスを取ることが重要でしょう」

「……つまり?」

「慎重に検討する、という方向で」


(それ、昨日も聞いた……“検討”って便利な言葉だよな。永遠に終わらないから)



 鼻毛爺いが胸を張る。

「ワシらの若い頃は、タイムカードなんて無かった。

 出勤は太陽が昇ったら、退勤は沈んでからや。これが自然の摂理じゃ」


「それ、地球の自転次第じゃないですか……」


 調達部長が苦笑しながら続ける。

「まあまあ、鼻毛の言う通りだ。昔は“働けるうちが花”だった。今は“働かせたら違反”だもんな。

 世の中、変わったもんだ」


(“花”の時代が長すぎたんですよ。もう枯れてます)



「要するに、“働く意欲”を奪う規制が悪い!」

 社長が拳を握りしめる。

「“働きたい”という社員の意思を尊重して、好きなだけ働ける会社にしたい!」

「それを“違法労働”って言うんです」

「いや、違う。“自由労働”だ!」


(社長……“自由”と“放置”は紙一重です……)



 昼を過ぎても会議は終わらなかった。

 議題は「どうすれば労働時間を適正に把握できるか」。

 しかし飛び出した意見は――


 ・「自己申告で十分」

 ・「出勤簿書くのが手間」

 ・「紙のタイムカードはエコじゃない」

 ・「ICカード? 高い」


 結果、導き出された結論は“誠意をもって申告する”だった。


(誠意のリバイバル……第3形態か)



夜、再び総務室にて


 午後九時。

 藤井は一人、報告書を打ち直していた。

 書いては消し、消しては書く。

 残業削減策――「社員の自発的退社を促す」。

 タイムカード導入――「費用対効果を検討中」。

 過去の賃金精査――「協議の上、誠実に対応」。


(……結局、“誠意”が主語から消えないんだな)


 社長室からのメモがデスクに届いた。

 付箋には丸文字でこう書かれていた。

 ――「誠意は数字より強い」


(いや、数字で怒られてるんですよ……)



提出前夜


 報告書の最後のページにサインを入れながら、藤井は小さくつぶやいた。

「この内容、きっとまた戻ってくるな……」


 机の上には、是正勧告書と報告書草案が並んでいる。

 一方には条文と数字、もう一方には“誠意と努力”。

 どちらが現実なのか、もはや分からなかった。


 蛍光灯がジリジリと音を立てる。

 外は夜更け、雨が降り始めていた。


(……“働き方改革”って、“報告書の書き方改革”のことだったのかもな)


 苦笑しながらプリントボタンを押した。

 レーザープリンタが唸りを上げ、報告書が一枚ずつ吐き出される。


 紙の温もりが、やけに重かった。


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