第48話 5S委員会編 ― “整理されぬ心たち”
春。桜が散り、社内にはまだ花びら混じりの埃が舞っていた。
そんな朝、社長が唐突に宣言した。
「本日より、“5S委員会”を発足いたします!」
突然の朝礼。
背後のホワイトボードには、堂々と書かれた五つの文字。
整理・整頓・清掃・清潔・躾
藤井仁(36歳・総務課長)は、その筆跡を見てため息をついた。
“清掃”の“掃”が“掃除の掃”ではなく“掃除の掃う”になっている。
つまり、すでに間違っている。
社長は胸を張って続けた。
「皆さん、5Sとは“魂の清掃”であります!」
お局が即座に小声で言った。
「また“魂”きたわね……」
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会議室。
5S委員会の初回ミーティングが始まった。
議長はもちろん社長である。
「まず“整理”とは、不要なものを捨てることです。
これは人生にも通じます!」
藤井:「ええ、物理的にはその通りですが……」
社長:「よって、会社の不要な考えを捨てましょう!」
お局:「それ、“異見を封じる”って言うのよ」
社長:「異見はゴミです!」
藤井:「…言葉の整理が先ですね」
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続いて、“整頓”。
社長が黒板に書きながら言う。
「整頓とは、秩序です!」
調達部長が腕を組む。
「秩序っつうのは義理人情の順番のことだな」
「……どこの任侠映画ですか」
「順序が狂うと信用を失うんだよ!」
お局:「でもアンタ、納期の順序いつも狂ってるじゃないの」
「うるせぇ! 順序より義理が先だ!」
「それ“G(義理)S活動”ね」
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加工部長が手を挙げた。
「社長、“整理”と“整頓”ばっかで現場止まってんじゃないですか」
「なぜです?」
「部品を全部並べろって言われて、作業場が展示会みたいになってんです」
「美しいじゃないですか」
「いや、どこに何があるか誰もわかんねぇ!」
「整頓です!」
「戦闘です!」
お局:「そろそろ“混乱”って六つ目のSを足すべきね」
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さらに“清掃”の議題。
社長は神妙な顔で言う。
「清掃は“心の浄化”です」
藤井:「床の話では?」
「違います。埃は心の投影なのです」
「それ、物理的な粉塵です」
「ならば粉塵を取り除けば、心が澄む!」
「……たぶん肺も」
お局:「そのうち“呼吸も5S”って言い出すわよ」
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翌日。
社長が新スローガンを貼り出した。
『会社を磨けば利益が光る!』
全社員でワックスがけが始まった。
加工部はフロアをピカピカに磨き上げたが、
翌日、リフトが滑って段ボールを散乱させた。
「社長、床がスケートリンクみたいです!」
「美しい証拠です!」
「納期が滑りました!」
「誠意で支えなさい!」
お局:「誠意は滑り止めじゃないのよ」
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その日の昼休み。
食堂では5Sブームが加熱していた。
鼻毛爺い:「ワシはな、心の整頓を始めたんじゃ」
藤井:「どうやって?」
「昼メシの順番を決めた。まず味噌汁、次にご飯、最後に納期」
お局:「食べ物の話しなさいよ」
加工部長はどんぶりを置いて叫んだ。
「うちは整理のしすぎで部品が行方不明だ!」
「どこに?」
「心の奥底に!」
「……遺失物届、出しましょうか」
「納期が遅れたのは5Sのせいだ!」
「いや、順番に“逆恨み”が混じってます」
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三日目の朝。
調達部長が社長室へ突撃してきた。
「社長! ワシの机、勝手に片付けたろ!」
「整理です!」
「違う! あれは“積層構造”なんじゃ!」
「ゴミの山では?」
「地層です!」
「何百万年の研究か何かですか」
「触ると崩壊します!」
お局:「それ、5Sじゃなくて考古学ね」
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その日の午後。
社長が“躾”の講話を開いた。
ホワイトボードに大きく書く。
『躾とは、社長を信じる心である!』
社員たちは沈黙。
藤井が恐る恐る聞いた。
「……一般的には、“習慣化された行動”のことですが」
「信じることこそ、最高の習慣です!」
お局:「もう宗教法人登録したら?」
「誠意教です!」
「来たわ、“第二の誠意”」
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次の日の現場。
加工部は反乱を起こしていた。
「いいか! 5Sやりすぎると納期が遅れるんじゃ!」
「でも整理整頓は大事では?」
「違ぇ! ウチは“3D”だ!」
「3D?」
「“どこだ”“誰だ”“どうした”!」
お局:「もう工場の迷子ね」
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一方その頃、物流倉庫の隅。
最長老が、黙々とモップを動かしていた。
誰に言われるでもなく、毎朝の日課のように。
藤井が声をかけた。
「最長老……5S、どう思われます?」
最長老はモップを絞りながら、ゆっくり言った。
「ええ……あれは、やることじゃありません…」
「と、言いますと?」
「“やってある”ものなんですよ…
掃除も整理も、言葉より音でわかります…」
「音、ですか?」
「ええ…朝にモップの音がすれば、職場は整ってます…」
藤井はハッとした。
(そうか……最長老、毎朝それを続けてたんだ)
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一週間後。
5S委員会の総括会議。
社長が立ち上がる。
「私は悟りました!」
「はいはい、また始まった」とお局。
「5Sとは、魂の状態を整えることです!」
「つまり?」
「整理とは過去を忘れる勇気!
整頓とは未来を信じる心!
清掃とは誠意の磨き!
清潔とは会社の美徳!
躾とは、社長を信じる義務!」
藤井:「最後だけ法的拘束力強くないですか?」
お局:「“信じる義務”って新興宗教よ、それ」
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その翌週。
現場はすっかり元通り、混沌に戻っていた。
床には切りくず、机には書類、社員の心も再びバラバラ。
だが、最長老の机だけが静かに整っていた。
誰も見ていなくても、整然と磨かれた木の天板。
その上に開かれた手帳には、小さな字でこう書かれていた。
――『整理整頓とは、静かにやるほど効くものだ。』
藤井は手帳を見つめ、ため息まじりに笑った。
(5Sは心の整理より、発言の整理からだな……)
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そして、その次の日の早朝。
社長は再び朝礼台に立ち、叫んだ。
「諸君! 来月から“第2フェーズ”に入ります!」
「……第2フェーズ?」
「“6S”です!」
「新しい“S”って何ですか?」と藤井。
「“誠意”です!」
お局:「もう、それしか残ってないじゃないの」




