第4話 派遣会社からの陳情
朝、総務課の電話が鳴った。
受話器を取った藤井仁(36歳)は、名乗りの瞬間に背筋が凍った。
「いつもお世話になっております、ルクルート人材サービスの吉岡と申します。本日、急ぎご相談したい件がありまして……」
声のトーンが、妙に冷たかった。営業の声というより、訴状の前置きだ。
藤井は悟った。――今日も平穏は訪れない。
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午前10時。
応接スペースには、派遣会社の担当者が硬い表情で座っていた。
机の上に、三枚の書類が置かれる。
「弊社の派遣スタッフ三名、本日付で撤退させていただきます」
「えっ……三人ともですか?」
「ええ。理由は――御社の**技師長(七十八歳)**です」
藤井は、言葉を失った。
またか。いや、“ついに来た”か。
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技師長は、会社の“創業の生き証人”だった。
昭和の高度成長期、図面を引きながら泊まり込み、飯を食いながら設計を仕上げたという伝説の男。
その経験と執念は確かに本物だが、時代という名の列車だけは、彼を置き去りにして走り去った。
――にもかかわらず、本人にその自覚はない。
昼、藤井が技術部の一角を覗くと、技師長は鼻歌まじりに笑っていた。
「最近の若い子は元気がなくていかん。昔はな、職場が暗いと事故が起きた。だから“明るくする”のが年長者の務めだったんや」
その“明るくする”方法が問題だった。
彼が若いころ、上司からこう教わったという。
> 「女子社員の体調は“現場の安全”に直結する。声をかけづらいなら、軽く背中を叩いて肌の張りで察せ」
> 「若い子だけ触ると贔屓になる。平等にいけ」
技師長は、それを**“安全確認の伝統”**だと信じて半世紀。
今もその善意のまま、均等に地雷を踏み抜いている。
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派遣会社の担当者は、怒りを隠せない。
「弊社の女性スタッフが“触られた”“肩を揉まれた”“胸を見られた”と訴えています」
藤井は謝罪しながら、メモを取る手が震えた。
「それに、技術部長様に相談したところ、“どちらの気持ちも分かる”と言われたそうで……」
……出た。玉虫色の男。
意見を求められれば「双方に理がある」と答える。
まるで言葉の回転寿司。流れてきた皿を選ばない。
「ご心配おかけして申し訳ありません。早急に対応を――」
「申し訳ありませんでは済みません。弊社としては“派遣停止”も検討しております」
その瞬間、藤井の視界が真っ白になった。
派遣が止まれば現場が止まり、納期が止まり、経営が止まる。
つまり――心臓が止まる。
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午後。製造現場は修羅場と化していた。
組立部長(76歳)が叫ぶ。
「なんで派遣が誰も来とらんのや! これじゃ納期守れへんやないか!」
加工部長(75歳)が腕を組む。
「知らねぇよ。人がいねぇなら、俺らでやるしかねぇだろ」
その間に立つ藤井。
まるで三途の川の渡し守。
そこへ当の技師長が現れ、笑顔で言った。
「人が足りんのか? ワシが手伝ったる。女の子おらんと寂しいのう」
――再発防止どころか、再犯予告である。
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夕方、社長室に呼び出された。
社長(83歳)は、机に肘をついて言った。
「私は社員の安心を第一にしております。だが、派遣会社が“セクハラ”などと騒いでおる。どういうことだね?」
「技師長の行動が原因で……」
「技師長? あの人が? まさか。彼は真面目一筋の男だぞ。女性に触れるなど――いや、触れたとしても、それは“職人気質”というやつだ」
(それを言った瞬間、あなたもアウトです)
そこへお局(71歳、前社長の従兄弟)が乱入。
「社長、甘いわよ! “職人気質”で済む時代じゃないの!」
「私は“紳士口調”で話している!」
「それが余計にタチ悪いのよ!」
応接室はもう、裁判前の法廷のようだった。
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夜。藤井は報告書を打ちながら、目頭を押さえた。
タイトル:「ハラスメント防止に関する緊急対応策(案)」
内容は、ほぼ懺悔文。
そして末尾には、労基署対応の予告が書かれている。
部屋の隅では、社長とお局が言い争っている声が聞こえる。
「いっそ、講師を呼んで研修をやろう!」
「いいわね。でも、誰が講師をやるの?」
「経験者が一番説得力がある。技師長に頼もう」
……人災を教材にするな。
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その夜、藤井は自分の机に突っ伏した。
現場は止まり、派遣は逃げ、社長は見て見ぬふり。
そして、加害者は“善意の教育”を語っている。
(……うちの技術部はもう職場じゃない。昭和の化石展示場だ。
人手不足は自業自得、再発防止は再放送。
この国の“人材活用”は、もう一周回って遺跡保存事業だな……)




