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総務課長・藤井仁の憂鬱 ― 臨終雇用は日本の縮図  作者: みえない糸


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第3話 人情は経理を知らない

 午後の社内は、妙な静けさに包まれていた。

 古びた蛍光灯が微かに唸り、パソコンのファンが低く鳴る。

 調達部と総務部の島は同じフロア。灰色のパーテーションで仕切られているだけで、くしゃみ一つすれば隣の部署まで響く距離だ。


 そんな中、調達部の鼻毛爺い(七十四歳)が受話器を置き、深いため息をついた。

 白髪頭を掻きながら、ボソリと呟く。


「まったく、あの仕入先も弱ったもんだよ。人が足りねぇ、納期が間に合わねぇって泣き言ばっかりだ」


 藤井仁(36歳)は総務の島から顔を上げた。

 机の上の伝票束の一番上には、見覚えのある社名がある。だが、日付が昨日付になっている。


「……この発注書、昨日の発注ですか?」


 鼻毛爺いは、何でもないように笑った。

「いやぁ、ちょっと出し忘れてたんだよ。急ぎだったから今日出した。多少の無理は通るって」


「納期、“明日”になってますけど」


「大丈夫、大丈夫。昔はよくあっただろ? “今日言って明日出す”ってやつ」


(昭和はとっくに終わりましたよ……)


 藤井が呆れてため息をついたその瞬間、また電話が鳴った。

 鼻毛爺いが慌てて受話器を取ると、顔色が一気に変わる。


「えっ? 人件費が払えない? 材料代も? いやいや、ちょっと待ってくれよ……明日まで? そんな馬鹿な……」


 その会話を、すぐ背後の調達部長(七十二歳)が聞き逃さなかった。

 椅子がガタンと鳴る。江戸っ子口調の怒鳴り声がフロアに響く。


「なんだと⁉︎ 仕入先が困っとるのか⁉︎ そりゃいけねぇ、ワシが助けに行く!」


 部長の目がすでに燃えていた。

 藤井は慌てて立ち上がる。


「部長、気持ちはわかりますけど、支払いは銀行振込で――」


「馬鹿言え! 義理と人情は顔合わせ示すんだ! 数字だけで救えるもんじゃねぇ!」


(いや、経理的には数字でしか救えませんけど……)


 鼻毛爺いがすかさず追い打ちをかける。

「さすが部長! そういう男気が今の若ぇもんに足りないんですよ!」


(お前の発注ミスで全部始まってんだよ……)


 部長は机をドンと叩き、身を乗り出した。

「いいか藤井、金庫を開けろ! 困ってる相手を見捨てるような会社に未来はねぇ!」


「……支払伝票、まだ承認が――」


「そんなもん後だ! 義理は生モノ、今行かにゃ腐っちまう!」


(義理も腐るんですね……)


 こうして、総務の反対を押し切って、部長は現金を掴み会社を飛び出した。


 ――数時間後。


 夕方、ドアが開き、部長が戻ってきた。

 手には空の封筒、顔は晴れやか。


「やってきたぞ! 仕入先の社長さん、泣いて喜んでた! “助かった、命拾いした”ってよ! これが本当の商売ってもんだ!」


 その隣で、鼻毛爺いが満面の笑みで拍手する。

「いやぁ、さすが部長! 義理と人情の化身ですなぁ! 経理は冷たいけど、部長は温かい!」


 藤井は冷静に帳簿を開き、淡々と尋ねた。

「……領収書は?」


「あるぞ!」と胸を張る部長。

 確かに社名も印もある。金額も合っている。

 一瞬だけ、藤井は安堵しかけた。


 ――だが、その直後だった。

 部長がポケットからもう一枚、くたびれた封筒を取り出す。


「あと、ちょっと“気持ち”も渡しといた。材料屋にも挨拶しといたからな。ああいう時は腹減っとるもんだから」


 藤井の目が止まる。

「……材料屋?」


「おう。仕入先の社長が“材料代が払えねぇ”って泣くからよ。問屋に直接払ってきた。早いだろ?」


 藤井の顔が青ざめた。

「……それ、問屋に? 請求先を飛び越えてですか?」


「そうだよ。現場が止まる前に動かにゃダメだろ! スピード命だ!」


(命がけなの、こっちの帳簿なんですけど……)


 鼻毛爺いが頷く。

「いやぁ、部長の判断、最高っすよ! 取引先の信用守るために動くなんて、おとこですよ!」


(その信用を壊したの、お前なんだが……)


 藤井は静かに席を立った。

「……部長、確認しますが、問屋との契約はうちじゃなく、仕入先ですよね? 直接払うと、取引関係が成立しません。

 経理上、“どこの支出”にもならないんです」


 部長は眉をひそめ、腕を組んだ。

「けど材料はもう届いとるんだろ? 結果オーライじゃねぇか!」


「その“結果オーライ”を会計で通す方法が、世の中にないんです!」


 翌朝、藤井は問屋と仕入先を相手に、支払整合の再確認。

 問屋には「昨日の現金は誤払い扱いで返金してください」と頭を下げ、仕入先には「再請求書を再発行してください」と懇願。

 社内では、二重伝票と返金処理の山。

 昼前には、藤井の机の上が紙の地層になった。


「おい藤井、どうした?」

「……いえ、経費処理が昭和初期みたいになってきまして」


 午後。ようやく返金が終わり、部長の机に封筒を置いた。

「これが返金分です。会社の金は会社の帳簿に戻さないと、処理が通りませんので」


 部長は苦笑しながら封筒を受け取った。

「いやぁ、すまんな藤井。お前、ほんとよう動くな。だがな――こういうのは心意気だよ、心意気!」


「心意気で経費は締まりませんから……」


 藤井はデスクに戻り、手帳を閉じる。

 隣では鼻毛爺いが、「やっぱり部長は頼りになるなぁ」と一人で感動している。

 ――たぶん、何も理解していない。


 蛍光灯がチカチカと瞬き、パソコンの電源が落ちかける。

 藤井はため息をつきながら心の中でつぶやいた。


(……うちの“義理人情会計”は、もはや昭和の商店街だな。

 レシートより口約束、帳簿より情け。経理じゃなくて――もはや家族経営レベルだ……)


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