第43話 賞与査定編 ― “正解は社長の気分です”
時は少し戻り、十二月初旬。賞与査定の季節がやってきた。例年なら、営業実績と勤怠、そして“誠意”という曖昧な基準を掛け合わせ、最後はすべて社長の気分で決まる。
だが今年は違った。朝礼で社長が高らかに宣言したのだ。
「今年から、明確な評価基準を導入します!」
社員一同、思わず拍手したが、次の一言で空気が凍りついた。
「“誠意理解度テスト”を実施します!」
総務課長・藤井仁は、手元のコーヒーを吹きかけた。
「せ、誠意テスト……?」
「そうです! 誠意とは目に見えぬが、測れないわけではありません!」
社長は胸を張った。
「出題範囲は、経営理念、社訓、経営目標、そして――私の考え!」
お局が腕を組んだ。
「その“考え”、どこに載ってんの?」
「私の頭の中です!」
「…もう無理じゃん」
営業課長が弱々しく手を挙げた。
「社長、その“私の考え”って、どの時点の……?」
「常に最新です!」
「時価かよ!」
「…株価より変動が激しいわね」とお局。
こうして、誰も望んでいない「第1回 誠意理解度テスト」が告知された。
試験当日、会議室には全社員が整列。机の上に置かれた試験用紙には、社長直筆のタイトルが躍る。
『第一回 誠意理解度テスト』
筆ペン。達筆。嫌な予感しかしない。
藤井は問題文を見た瞬間、頭を抱えた。
〈第1問〉会社の理念を50字以内で説明せよ。
〈第2問〉“誠意”とは何か、あなたの言葉で書け。
〈第3問〉“誠意の三段活用”を述べよ。
〈第4問〉私が先月の朝礼で言った「誠意とは〇〇である」の〇〇を答えよ。
〈第5問〉“理念を守る”とは、誰を守ることか。
〈第6問〉私が会社を導く理由を答えよ。
〈第7問〉“愛と誠意の違い”を述べよ。
〈第8問〉“誠意が足りない社員”の特徴を三つ書け。
〈第9問〉“誠意の限界”とは何か。
〈第10問〉“誠意の未来”を自由に論ぜよ。
営業課長が青ざめながら呟く。
「これ、宗教検定じゃないですか……?」
技師長が頭をかいた。
「“誠意の三段活用”って、なんじゃ?」
お局が答える。
「誠意します・誠意した・誠意してる、でしょ?」
藤井:「動詞化しないでください」
最長老は静かに手帳を開き、さらさらと書き込んでいた。
(もう答え出してる顔だ……)
三日後、社長室の机には答案の山が積まれた。赤ペンを握った社長の目は、異様に輝いていた。
「“誠意とは気合”……ふむ、最初は○だな。いや、待て。“気合”は一過性。やっぱり×だ。」
「“誠意とは静けさ”……これはいい。悟ってる。○! いや、“静けさ”は逃げの美学だな。×にしよう。」
「“誠意とは、誠意のことである”……んー、循環論法だが、深い。△。」
お局がため息をついた。
「社長、採点って“迷子”になるもんなんですか?」
「思索は迷うほど価値があるのです!」
藤井は後ろで呟いた。
「その迷走が現場に延焼するんですよ……」
採点が進むにつれ、社長の基準はどんどん変わっていった。
「“理念を守るとは、顧客を守ること”……○だ! いや違う、“社員を守る”だな。×にしよう。」
「“愛と誠意の違い”に“愛は無料、誠意は有料”と書いてある。ふむ……面白い。○!」
「“誠意の限界とは、誠意を語ること”……これは天才的だ! 採用しよう!」
藤井:「何を採用する気ですか?」
「理念にです!」
お局:「また会社が哲学寄りになるわね」
昼休み。社員全員が食堂に集合した。社長が満面の笑みで言う。
「皆さん、結果を発表します! 平均点――48点! つまり誠意はまだ半分!」
拍手はない。沈黙。
社長は構わず続けた。
「人間は誠意50点からが成長期です!」
(新しい人事制度の匂いがする……)
営業課長が恐る恐る聞いた。
「社長、その……賞与は?」
「誠意の高い者ほど多く、誠意の薄い者ほど少なくなります!」
「誠意の濃さって、どう測るんですか?」
「私の目です!」
「視力検査か!」とお局。
翌日、藤井の机に返却された答案には、点数の代わりにコメントが書かれていた。
「あなたの誠意は冬眠中です」
「誠意が発芽しかけています」
「誠意が脱線しました」
「誠意は感じるが、方向が違う」
お局の答案にはこうあった。
「あなたは誠意より皮肉が勝っています」
「採点者より正しいことを言わないでください」
営業課長は涙目で言った。
「私、誠意の模範解答もらっていいですか?」
「ない!」と藤井。
「正解は社長の気分よ!」とお局。
その日の夕方、社長は自室で再び答案を眺めながら呟いた。
「誠意とは、理解されないほど尊い……」
藤井:(また進化してる……)
「明日から“誠意再試験”を――」
「待ってください! もうやめましょう!」
「何を言うのです。誠意は習慣でしょう!」
お局:「それ、うちの残業制度と同じ理屈じゃない」
数日後。最長老の答案だけが社長室に掲げられた。
採点欄には“満点”の朱書き。
藤井が覗くと、回答欄には一言だけ。
――「社長の考えは、常に進化しておられる。」
社長は感動して言った。
「これだ! これが誠意の極致だ!」
お局:「ただの保身じゃない?」
最長老は穏やかに笑い、手帳を開いた。
そこには、いつもの淡々とした筆跡でこう書かれていた。
『誠意とは、正解のない試験である。』
その夜、藤井は机に突っ伏しながらつぶやいた。
(この会社、評価制度も宗教の域だな……)
天井の蛍光灯がチカチカと瞬き、まるで言葉のように彼に答えた。
――「正解は、いつも気分です。」




