第30話 銀行交渉編 ― “背水経営”
年度末が終わった翌週。
まだ決算書のインクも乾かぬうちに、社長の声が社内に響き渡った。
「藤井くん! 明日は銀行交渉に行きますよ!」
藤井仁(総務兼経理兼社長通訳)は顔を上げた。
「……社長、資料ならもう送付済みですが」
「違います! 数字は送っても、魂は送れません!」
「(送れなくていいんですけど)」
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社長は元々、商社出身の営業マンだ。
言葉の熱で契約を取り、勢いで信頼を築き、そして勢いで壊す。
先代が「営業力が欲しい」と言って引き抜いたが、
数年後には「やりすぎた」と後悔したという。
その男が、今は社長席に座っている。
藤井の机には、社長からのメモが置かれていた。
『銀行三行訪問予定。同行のこと。説明は任せる。』
「……“説明は任せる”って、爆弾の処理班かよ」
お局がコーヒーを差し出す。
「藤井くん、去年も同行してたよね? 担当者、泣かせたやつ」
「ええ。今年も情熱のテロ行為に行ってきます」
「合掌」
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翌朝。
黒塗りの社用車に乗り込みながら、社長は胸を張った。
「私はね、藤井くん、数字の裏にある“魂”を見せたいんですよ」
「去年もその魂で担当者を燃やしましたね」
「今年も盛大に燃やしましょう!」
「(消防署に通報したい…)」
最初の目的地は都市銀行。
本店ビルのガラスは冷たく光っている。
社長はまるで営業全盛期のように笑った。
「さあ行きましょうか。今日は勝負の日になります」
「(勝負って、何と……)」
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応接室。
支店長、若手担当者、そして藤井。
説明が始まって5分もしないうちに、社長が立ち上がった。
「――我が社は3年で売上を10倍にいたします!」
沈黙。
空調の音だけが響く。
支店長がペンを止める。
「…10倍……ですか?」
「はい。我が社の情熱と努力で!」
藤井の心拍数が跳ね上がる。
(出た……今年の爆弾)
「具体的な施策は?」と支店長。
社長は胸を叩く。
「弊社従業員一丸となった魂で、です!」
藤井:「(それ、施策じゃなくて詩ですよ)」
若手担当者が微笑んだ。
「素晴らしいです。挑戦する姿勢が……」
「そうでしょう!」
(止めてくれ若者! それを肯定するな!)
会議が終わると、社長は満足げに言った。
「よし、今日の手応えは上々です」
「……はい、支店長の顔が死んでましたね」
「彼は感動していたのですよ」
(いや、脳が再起動してただけです)
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二日目、地方銀行。
支店長は穏やかで人当たりの良い人物だった。
藤井が慎重に資料を開く前に、社長が拳を握る。
「我が社は今後、女性比率を50%にいたします!」
藤井:「(また始まった……!)」
支店長:「現在は何%でしょう?」
「二名です!」
支店長が静かにペンを置いた。
「……50%?」
「はい! 勇気ある数字でしょう!」
(勇気じゃなくて虚構です社長)
藤井は慌てて補足した。
「ええ、理念としての目標です。意識改革を促す意味で――」
社長:「そう! 魂のジェンダー平等!」
お局の声が幻聴のように響く。(“魂に性別あったのね”)
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三日目、信用金庫。
「今日は地域密着を語ります!」
(また語る……!)
会議が始まるなり、社長が宣言した。
「我が社は地域大学と連携し、新技術を生み出します!」
支店長:「どこの大学と?」
「……これから選びます」
「具体的には?」
「これから決めます!」
支店長:「……楽しみにしております」
藤井:「(いや、これ本当に信じた!?)」
こうして“地獄の三連戦”は終わった。
藤井は三日で五歳老け、電卓の数字が二重に見えるほど疲れていた。
だが、地獄の本番はここからだった。
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翌週。
社内の電話が一斉に鳴り響いた。
「“10倍計画”の根拠を教えてください」
「“女性比率50%”のスケジュールは?」
「大学連携の詳細を伺いたい」
(うわぁ、ちゃんと覚えてたのか……!)
しかも社長は地方出張中。
――説明に行くのは藤井ひとり。
お局が見送りながら言った。
「藤井くん、今日は“誠意の火消し隊”ね」
「消火器より聖書が欲しいです」
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都市銀行・再訪。
支店長が穏やかに笑っていた。
「社長のお話、感動しましたよ。3年で売上10倍……なかなか厳しい目標ですな…」
藤井:(うわ、ぜんぜん目が笑ってない!)
「根拠をお聞かせ願えますか」
藤井は深呼吸し、頭をフル回転させた。
「ええと……あれはですね、社長が“社外に高い目標を公表することで、社内に後戻りできない状況を作り、奮起を促す”という戦略でして」
支店長の目が光る。
「なるほど、背水の陣、ですな!」
(通じた!)
「…経営者の覚悟、感服しました」
(覚悟というより暴走ですが)
会議後、支店長は深々と頭を下げた。
「社長のお考え、感銘を受けました」
藤井は笑うしかなかった。
(理屈が死んで、信仰が生まれた……)
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地銀では「女性比率50%」を説明する羽目になった。
「理念です。実際の採用数よりも、意識の比率を指しております」
「なるほど、精神的平等ですね、奥が深い!」
(違う! でも助かった!)
信金では「大学連携」について。
「未来への布石として象徴的意味を持たせた計画です」
「すばらしい、まさに地方創生の旗手だ!」
(いや、看板立てただけなんですよ!)
結果、三行とも感動していた。
――完全に誤解している。
だが、誰もが信じていた。
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夜。
税理士がやって来た。
「藤井さん、銀行の反応が異常に良い。何をしたんです?」
「何もしてません。ただ、社長の言葉を日本語にしただけです」
「通訳ですか」
「はい、異世界間通訳です」
税理士は笑いながら言った。
「あなた、外交官に向いてますよ」
「戦地の、ですけどね」
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数日後、銀行三行から正式な連絡が届いた。
都市銀は追加融資を検討。
地銀は社長を表彰。
信金は地域誌で特集を組んだ。
社長が報告を受け、上機嫌で言う。
「藤井くん、みんな私の覚悟に感動していますよ!」
「(それ俺の即興説明のせいです)」
「やはり魂は伝わるんだ!」
お局:「幻聴も伝わるのよ…」
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夜。
藤井の机の上に、新しいファイルが置かれていた。
タイトル:《三年計画(社長案)》
開くと、一行目に大きく書かれていた。
「3年で売上10倍」
その下に赤字の追記。
「※根拠:社外信任獲得済」
藤井は笑ってしまった。
「……信任って、誤解のことですよ社長」
外の街灯が書類の上を照らす。
机の上の電卓が、まるで心臓の鼓動のように光っていた。
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翌日。
社長:「藤井くん、政府系金融にも行こう!」
藤井:「……情熱、再計上ですね」
「うむ、誠意を再投資だ!」
お局:「藤井くん、いよいよ宗教法人設立の時ね」
「たぶん“信金”って“信仰金庫”の略ですね」
社長は笑った。
「数字は血だ! 信頼は酸素だ! 魂は経営資本だ!」
藤井:「……じゃあ私、貧血です」
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夜、最長老が帳簿を閉じて呟いた。
『この会社、もはや宗教を超え、文学になりつつある。
だが文学も、返済はできぬ。』
――“背水経営”。
誠意を燃料にしたこの会社は、今日も前進している。
止まれない。止まれば、誠意が腐る。
そして藤井は知っている。
数字より怖いのは、“信じる人”だということを。




