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第2話 承認欲求は誰を救うのか?

 午後一時。昼休みが終わった直後の組立現場は、妙な緊張感に包まれていた。

 照明の白さがやけにまぶしい。

 静寂を破るように、**組立部のナンバー2(五十六歳)**が叫んだ。


「課長ぉ、聞いてくださいよ!」


 声のボリュームが過剰だ。溶接機の音すら一瞬止まる。

 **総務課長・藤井仁(36歳)**は、書類を閉じて内心でつぶやいた。

(……また始まった。昼飯より消化に悪い時間が)


「昨日も終電まで残って、製品のチェックしてたんすよ!」

 ナンバー2は、筋張った腕を組みながら胸を張る。

「部下が手ぇ遅くて、もう休みゼロっす! 俺なんか、会社のために命削ってるんすよ!」


 周囲の部下たちはうつむいたまま黙りこくっている。

 休日出勤を強要され、残業を指摘されれば「根性が足りない」と叱責される。

 彼らにとって沈黙こそ、生き残るための唯一の労務管理だった。


 藤井仁は手帳に走り書きする。

《組立:36協定超過の疑い。本人に自覚なし。部下、限界。》


 そのとき、ナンバー2が完成品を掲げて叫んだ。

「見てくださいよ課長! これ、俺一人で仕上げたんすよ! 根性さえあれば何でもできるんす!」


 現場が静まり返る。

 誰も拍手しない。誰も笑わない。

 **組立部長(七十六歳)**の眉間がピクリと動いた。


(……誰に向かって言ってんだ。部下は息潜めてるし、部長は今にも爆発寸前だ)


 案の定、部長が立ち上がった。

「せやない! 自分が部下を見てへんからやろ!」

「え、俺がですか!?」

「せや! 段取りや! 段取りが悪いんや!」

「でも部品が足りないんです!」

「そんなもん、工夫で回せや! 言い訳すんな!」


 金属音のような怒声が飛び交う。

 二人の言葉がぶつかるたび、空気が熱を帯びる。

 まるで漫才のようだが、笑う者はいない。


 藤井仁は心の中でため息をついた。

(……“怒声”が“労声”に聞こえてきたな。ここじゃ怒鳴ることが仕事の一部だ)


     ◇


 午後二時。

 藤井仁は現場の端で帳票を整理していたが、また背後から声が飛んだ。


「課長ぉ! 俺、誰より頑張ってるのに全然評価されないんすよ!」

 完全に自己主張モードだ。

 彼の話は、業務報告よりも長いのが特徴だった。


「評価って……何をもって?」

「根性っす!」

(またそれか……)

「根性は否定しませんけど、36協定は根性で破れません」

「じゃあ協定って何のために?」

「あなたを止めるためです」


 ナンバー2の顔が一瞬固まり、次の瞬間には怒鳴り声が出た。

「課長、俺のやる気を削ぐつもりっすか!?」

「いえ、あなたの寿命を延ばしたいんです」


 言い終わったあと、しばしの沈黙。

 部下たちは息を詰め、機械の油の匂いだけが漂った。


(この会社、酸素より“気まずさ”の濃度が高いな……)


     ◇


 夕方、事務所に戻ると、**営業事務のお局(七十一歳)**が机に肘をつきながら笑っていた。

「課長、今日もあのナンバー2の人、熱かったわねぇ」

「熱いというか、燃え尽き症候群の前兆です」

「うちの会社って、根性と火災、どっちが先に消えるのかしら」


(それを笑いながら言えるあなたの神経が一番強い)


 お局は書類をトントンと揃えながら続けた。

「前社長の従兄弟っていうのは便利よねぇ。あの人、部長より口出ししてくるもの」

「社長も頭が上がらないんですよ」

「そう? 私から見ると、あの社長、まだまだ子供ねぇ」


 藤井仁は心の中でメモする。

《組織図:上司=年齢順。理屈より血縁。》


     ◇


 午後七時。

 現場に再び戻ると、ナンバー2が工具を片手に叫んでいた。

「課長、見てくださいよ! 昨日も俺、最後まで残って片づけたんす! でも誰も褒めてくれねぇんす!」


 部下たちは視線を落としたまま動かない。

 組立部長は深く息を吐いた。

「……自分で褒めてどうすんねん」


 その言葉が、現場全体の空気を止めた。

 冷たい沈黙の中で、機械のモーター音だけが回り続ける。


(……同じセリフを、昨日も聞いた。たぶん明日も聞く。

 この会社の時間は止まってるんじゃない。堂々と回転してるんだ、逆方向に)


 背後でお局が小さく笑った。

「課長、あんたも大変ねぇ。あの人たち、労基署の調査が来ても“根性で乗り切る”って言いそうよ」

「ええ。たぶん署員の方が先に倒れます」


 窓の外は暗く、工場のライトだけが青白く地面を照らす。

 時計を見ると、終業時間を三時間過ぎていた。

 誰も帰らない。

 誰も「帰ろう」と言わない。


(……残業の定義が、この会社だけ辞書から削除されてる気がする)


 藤井仁は机の上の手帳を閉じ、静かに立ち上がった。

 その瞬間、奥の方から再び怒声が響く。


「せやない! お前の段取りがアホなんや!」


 今日も、労働と怒鳴り声が同義語のまま、日が暮れていく。

 そして、彼の憂鬱はまだ続く。

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