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第1話 昼休憩の安否確認は命懸け

 正午。天井のスピーカーが電子音を三度鳴らし、工場の回転が一斉に止まった。

 総務課長の藤井仁は、弁当のフタを閉め、青い背表紙のファイルを手に取る。マジックで太く「安否巡回」と書かれたそれは、彼の昼休憩の定番装備だ。縁起でもない文字だが、この会社では最も現実的な備品でもある。


 廊下に出ると、空気がすっと冷える。人の気配はあるのに、声が消える。

 若い職場なら食堂へ向かう笑い声が重なる時間帯だろう。ここでは違う。机に腕を枕にして静止する背中が、島ごとに連なっている。七十代は若手。八十代が現役。定年は本人の意思。つまり、臨終まで。


 最初の目的地は技術の島の奥、名誉職の**技師長(七十八歳)**の机だ。ドラフターには太い鉛筆線の図面、乾いたインク、糊の跡。のど飴の缶が二段重ねで置かれ、その横で当人は額を図面に乗せて微動だにしない。半開きの目。胸の上下――見えない。


(……嫌な沈黙だ)


 藤井仁は呼吸を止め、そっと肩に手を置く。

「失礼します。大丈夫ですか」

 急ぎすぎない力で、二度、揺らす。


 ビクンッ。

 全身が跳ね、荒い息が戻る。瞼が上がり、焦点がこちらへ合う。


「……あれ、寝てたかな?」


 毎度の第一声。藤井仁は胸の鼓動がおくれて追いつくのを待ち、笑みを作る。

「呼吸が浅かったので」

「ちょっと考え事をね。図面は、目を閉じるとよく見えるときがある」

(それは“考え事”ではなく“無呼吸”と呼ぶ領域です)


 喉まで出かかったツッコミを飲み込み、藤井仁は小さく会釈した。

「体調、気をつけてください。……もしものときは、せめて会社の敷地から一歩出てからにしてください。労災になりますから」

 冗談に聞こえるよう、声の角を丸める。技師長は喉で笑い、のど飴の缶をカラリと鳴らした。


 背中に冷たい汗が滲む。ファイルに「呼吸停止疑い→回復」と走り書きし、藤井仁は次の島へ向かった。


     ◇


 **加工部長(七十五歳)**のブースは工具の匂いで満ちている。江戸っ子を自称するだけあって、治具も書類も隙間なく整頓され、置き場所が一ミリでもずれると機嫌が悪い。本人は椅子にもたれ、口を半開きにしている。

「部長、失礼します」

 肩に触れると、上体が起き、吸気が勢いよく滑り込んだ。

「……お、昼はもう終わりかい?」

「いま、始まったところです。さっき息が止まってました」

「じゃあ今のうちに息しとくよ」

 加工部長は胸を張って二回、深呼吸。

(生理学的には正しい)

 藤井仁は内心うなずき、チェック欄に丸を付ける。


 廊下の先から、一定の鼾が聞こえる。物流のソファだ。

 **物流部員(七十八歳)**は背もたれに沈み、吸っては止め、数えてから爆発するように吐く。

(カウント、四、五……止まるなよ)

「失礼します」

 軽く肩を揺すると、目が開き、大きく吸う。

「……ああ、海にいました」

「陸に戻ってください。午後は入荷が三件です」

「はいはい」

 藤井仁は掲示板の《あなたの“一声”が命を救う》の文字を横目に、ファイルの「意識・呼吸」欄に二重丸をつけた。標語が現実に役立ちすぎる会社だ。


     ◇


 事務島に戻ると、電話の早口が耳を刺した。

 **お局(七十一歳)**である。前社長の従兄弟。社内の誰もがその血縁を知っていて、誰も口に出さない。

「だからねぇ、納品書のハンコがかすれてるって、それはそっちの印刷機の問題でしょ? こっちは関係ないの」

 言葉はきついが、伝票の流れは誰より正確。彼女の机の周りだけ時間が速い。


 ちょうどそこへ**社長(七十九歳)**が通りかかった。

 足を止め、眉をひくつかせ、それから何も言わずに通り過ぎる。

(……見て見ぬふりの熟練度が違う)

 藤井仁は心の中でつぶやいた。社長はいつも丁寧だが、その丁寧さは時折「不干渉」という名の鎧になる。


 **恰幅の良い平社員(七十三歳)**が、机から顔だけ上げて言った。営業の顔、報告の声。

「藤井仁くん、見回り助かるよ。今ここで死んだら、夢の年金生活の前に払い損だからね。せめて一回くらいはもらってからにしたい」

 笑いながら言う。

(給料をもらって働く間は支給停止――昨日も一昨日も説明しました。たぶん明日も言います)

 藤井仁は口角だけで笑い、「ご安全に」を小声で返した。


     ◇


 技術の通路に戻ると、技師長が図面をめくりながら、鼻で笑った。

「私は年金より図面ですね。まだこの案件が山ほど残っています。紙の山の下敷きになったら、それは労災になりますか?」

「部屋の散らかり具合によっては“遭難扱い”です。救助要請は早めにください」

 周囲に笑いが広がる。

(冗談であってくれ)

 藤井仁は喉の奥でつぶやき、ファイルに「技術:意識明瞭・冗談可」と意味不明なメモを書いた。自分だけが分かればいい。


 組立の島に入ると、空気の密度が一段上がる。

 **組立部長(七十六歳)**が机から跳ね起き、開口一番に言った。

「せやない!――って、誰に言うたんやワシ。寝言やな」

 関西弁はここだけ本場。まず否定してから正しい手順を語るのが流儀だ。

「大丈夫ですか、部長」

「大丈夫や。せやけど、部下の段取りな、もう半歩早くできる。そこ直したら現場は回る。**せやない、**文句やない、提案や」

 声は大きいが、言葉は柔らかい。藤井仁は二重丸をつけ、(心臓には悪いが現場には良い)と付記した。


 その背後で、組立のナンバー2(五十六歳)が、強面の顔をしかめながら甲高い声で言う。

「課長、俺、昨日も遅くまでチェック入れて手直しさせられてたんすよ! このままだと今月も休みゼロっす!」

(あなたが帰らせた部下のぶんまで、ですね)

 言いかけて飲み込む。昼は喧嘩の時間ではない。昼は生存確認、夜に労務。順序を間違えると、どちらも失敗する。


     ◇


 巡回の途中、**鼻毛爺い(七十四歳)**が手を挙げた。

「課長、AEDってどこでしたっけ?」

「一階の自販機横です。電子レンジの上に置くのはやめてください、とお願いしました」

「いやぁ、みんなの目に付く場所が良かろうと思って」

「『目に付く』と『雑に扱う』は別の概念です」

「さすが課長や、頼りになりますわ〜」

 語尾は軽い。完全に他人事の音色。藤井仁は(本件の真因はだいたいあなた)とだけ心でメモした。


     ◇


 安否巡回の終盤。

 藤井仁は自席に戻り、ファイルの空欄を埋めながら、引き出しの胃薬を水で流し込んだ。

(安定を求めて来て、安否を数えている。慣れたら終わりだ)

 自戒は声にしない。声にすると、慣れが耳を塞ぐ。


 そこへ受付から内線。

「藤井課長、派遣会社のご担当が来ています。例の“女性スタッフが続かない”件で」

 額に薄い痛みが走る。

(例の、が多すぎる)

 藤井仁は立ち上がり、青いファイルを閉じた。昼の勝ち点は「全員呼吸あり」。小さな勝利。これを胸ポケットに入れて、次の火の粉へ向かう。


 通路を抜けると、向こうから社長がやってくる。

 にこやかに頷き、丁寧に言う。

「私は、昼休憩にしっかり休むことが重要と考えております。ですので、見回りは継続してください。午後は短納期のご依頼にお応えしたく、皆で力を合わせましょう」

「承知しました。順に段取りを整えます」

 言葉は柔らかく、命令は固い。藤井仁は予定表の余白に鉛筆で書き添える。

《段取り=人命優先/機械停止手順確認/残業上限注意/派遣会社対応》

 昼に数えた安否を、夜にもう一度数えないための手順。総務の仕事は、たいてい目に見えない。


 事務島を抜けると、お局の早口が再び響いた。

「だからねぇ、うちは“誠意対応”するけど“無制限”じゃないの。そこ、言葉の違い分かる?」

 周囲の手が一瞬止まり、また動き出す。

 その脇を社長が静かに通り過ぎる。視線は落とし、歩幅は一定。

(社長は彼女に弱い、なんて口に出す必要はない。態度で十分伝わる)

 藤井仁は心の中で苦笑した。


 ドアの前で一度だけ振り返る。

 昼休憩の静けさはすでに溶け、機械音が戻り始めている。古い床の傷が、窓明かりに細く光る。誰かの長い年月の軌跡。藤井仁はその傷を踏まないように、慎重に一歩を置いた。


 ――今日も誰も死なせない。

 言葉にしない誓いを、唇の内側で結ぶ。

 そして、次の“例の”へ向かう。

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