第19話 退職交渉編 ― 感謝とけじめの抱き合わせ販売
「総務課長、例の彼……退職の件で“面談希望”だそうです」
朝一番、電話の声が冷たく響いた。
“例の彼”とは——入社してまだ2年、初めの半年だけ出社し、その後、休職…
傷病手当だけは満額で受け取っている“計算型社員”。
藤井仁(36歳)は、深くため息をついた。
(ああ、とうとうこの日が来たか……。入社から2年で“退職”って、もうほぼ“短期投資”だろ)
机の上の退職届には、「一身上の都合」の文字が踊っていた。
便利な言葉だ。中身のない決意書。
その日の昼、社長室のドアが開いた。
声が低く、しかしやけに丁寧に響く。
「……私は非常に残念です…」
社長の声はいつも“初期設定:穏やか”。
だが、その穏やかさは、地雷の安全ピンと同じ役割を果たしている。
「あなたは、私が採用したのですよ? 教育もしました。昼食もご一緒しました。
恩という言葉、ご存じですか?」
(あ、出た。“感謝シリーズ”開幕だ……)
退職者はうっすら笑って答える。
「ええ、感謝してます。でも、そろそろ“卒業”かなって」
「卒業? あなたが?」
「はい、“会社を使って社会復帰した”感じです」
——静寂。
社長の眉がぴくりと動いた。
「……“使って”?」
「いやいや、言葉のあやです」
「私は“あや”では済ませませんよ」
声が急に大きくなった。
「私はあなたに食事をご馳走しましたよ! それも幾度も!」
「はぁ……」
「それに教育だって、私の時間を使ったんです!」
「それ、業務じゃ……」
「業務ではない! “愛情”です!」
(あーあ、完全にスイッチ入った……)
藤井は机の下でこっそりスマホの録音ボタンを押した。
何が起こっても、記録だけは残しておかねばならない。
⸻
社長の丁寧語が、どんどん音圧を増していく。
「あなたね、こういうのは“けじめ”というんですよ! け・じ・め!」
「……はい」
「会社を辞めるなら、“感謝”と“けじめ”をセットで出すのが常識です!」
「セット販売……ですか?」
「そうです! 社会人としての礼儀セットです!」
退職者の目が一瞬だけ光った。
「つまり、“感謝とけじめ”がないと、辞められないと?」
「当然です!」
「録音できました。ありがとうございます」
——終わった。
藤井の頭の中で、鐘が鳴った。
社長は雷鳴。退職者は避雷針。藤井はアース線。
⸻
翌朝、FAXが鳴った。
「退職代行を通じ、貴社のパワハラ発言を確認しました」
——退職代行からの一文で、会社は凍りついた。
お局がぼそり。
「FAXって、令和にもあんのねぇ。化石のバトルじゃない」
社長は拳を震わせながら、
「卑怯者め……!」と低く呟いた。
しかしその言葉も録音されていたらしい。
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藤井は独自に調査を始めた。
(このままじゃ、完全に“社長:加害者”コースだ……)
退職者の机を整理していくと、出てきたのは名刺の束。
だが、担当していた取引先の数と合わない。
藤井の眉が動いた。
(……抜かれてる)
引き継ぎ名目で呼び出すと、退職者は飄々とした顔で現れた。
「どうも〜、退職日までですけど、何か?」
「あなた、田村電機の名刺、どうしました?」
「捨てましたよ。もう関係ないんで」
「“捨てた”……?」
藤井は目を細めた。
「次、田村電機の営業職で募集出てますね」
「……っ」
「しかも、“前職で取引経験あり”って応募フォームの下書き。残ってましたよ、あなたのパソコンに」
退職者の顔が引きつる。
「……総務課って、監視好きですよね」
「いや、職務です」
藤井は淡々と録音ボタンを押した。
「この件、顧問弁護士に報告しますね」
「脅しですか?」
「予告です」
⸻
翌日、退職代行にFAXが送られた。
《依頼人による不正行為が確認されたため、委任を解除します》
午後には退職者本人が再び現れた。顔は真っ青だ。
「……すみませんでした」
社長は腕を組み、ゆっくりと立ち上がる。
「私はね、怒ってなどおりません。
ただ——“人として”悲しいのです」
(いや、怒ってるだろ……)
「あなた、恩を仇で返しましたね? でも私は赦します」
「……は、はい」
「なぜかわかりますか? “感謝とけじめ”を教えるのが、私の使命だからです」
藤井は机の下で、そっと頭を抱えた。
お局が隣でため息をつく。
「使命じゃなくて“趣味”よね」
⸻
退職処理は終わった。
だが、社内は“録音恐怖症”に陥った。
社員の誰もがスマホを伏せて会話する。
「おい、マイク穴見せんな」
「いや、これ通話用です!」
(文明が後退してる……)
⸻
一週間後。
社長が全社員を集めた。
「皆さん! 今回の件で、私は学びました!」
(学んでない……)
「裏切り者は、必ず恩を忘れる!」
(やっぱり学んでない……)
「だからこそ! 我が社は、“感謝とけじめ”の文化を守る!」
拍手がパラパラと起きた。
お局がぽつりと呟く。
「感謝とけじめ、抱き合わせ販売よ。返品不可」
藤井は天を仰ぎながら笑った。
(もうこの会社、宗教法人化してるな……)
その視線の先、社長の机にはまた新しい求人票があった。
《誠実な社風/社員を家族のように大切にします》
——そして今日も、新しい“家族候補”が面接にやってくる。
(この会社、永久機関だ……)




