第20話:人事査定編 ― 賞与は“愛”で支給される
年の瀬。
社内には“ボーナス”という単語が禁句になっていた。
——なぜなら、この会社には「昇給」は存在しない。
十年間、誰ひとりとして基本給が上がった者はいない。
社長の信念は明快だ。
> 「固定費は一定であるべきです」
つまり、人件費はコンクリート構造物だ。
上に積めば崩れる。下を削っても倒れない。
だから全員、給料は固定。
代わりに、賞与という“夢”で調整される。
総務課長・藤井仁(36歳)は、その賞与査定会議の資料を前に、遠い目をしていた。
(夢の支給って、寝言の延長線上にあるやつだよな……)
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午後、会議室には役職者が勢ぞろいした。
社長を中心に、経理、営業、加工、組立、そしてお局。
妙に張り詰めた空気。
まるで誰かの“生前葬”。
社長がゆっくりと開口する。
「皆さん。今年も一年、ご苦労さまでした」
(いや、まだ終わってないけど……)
「今年の賞与は、“感謝と誠意”で支給します」
(出た、“愛情通貨”)
お局が腕を組んで言った。
「社長、それってつまり“ゼロ”ってことね?」
「いえいえ、“愛の満額支給”ですよ」
「……それ、現金化できる?」
「できます。心の中で」
会議開始、5分で崩壊寸前。
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社長はホワイトボードにペンを走らせた。
「私はですね、社員のモチベーションを数字で測るのは嫌いなんですよ」
(え、じゃあ査定会議いらなくない?)
「ですから、“愛情係数”という概念を導入しました」
藤井が一瞬、頭を抱えた。
(係数? 指数化すなよ……)
社長は堂々と続ける。
「愛情係数とは、会社への“忠誠度”をベースに算出するものです」
「算出って言ってるじゃないですか」
「いや、感覚です!」
(やっぱ感覚か)
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営業課長が恐る恐る手を挙げた。
「社長、うちの課では売上前年比200%で……」
「結果ではなく姿勢です!」
「は、はい」
「“200%の姿勢”なら評価しますが、“200%の売上”はお客様次第です!」
お局がすかさず小声で突っ込む。
「つまり、“他力本願ボーナス”ね」
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加工部長が口を開く。
「社長、うちは事故もゼロでした」
「それはいいことです。が、当たり前です」
「……」
「当たり前を誇るのは、努力ではなく怠慢です」
(じゃあ事故った方が評価されるのか?)
隣の組立部長がぼそりと。
「去年ケガした奴、むしろ褒められたもんな」
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社長が資料を見ながら、満足そうに頷いた。
「私はですね、皆さんに“金銭”ではなく“気持ち”で報いたいのです」
「……“気持ち”で生活はできませんよ」
藤井の口から、思わず本音が漏れた。
社長は優しく微笑む。
「できます。気持ちがあれば、生活できます」
「……宗教ですか?」
「経営です」
お局が笑いをこらえながら小声で。
「いやもう、ここまで来たら“宗経一体”よ」
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議題は“査定基準”へ。
社長は再びホワイトボードに書き出す。
① 忠誠心
② 笑顔の多さ
③ 私への敬語の正確さ
「最後の項目なんですか?」
「敬語は心を映す鏡です」
「……怖いなぁ」
お局が、ペンをくるくる回しながら言う。
「じゃあ、“社長を褒めた回数”で決めりゃいいじゃないの」
「それは不正防止のため、非公開です」
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藤井はそっと自分のメモに書いた。
《忠誠心:数値化不能 笑顔:定義不明 敬語:恐怖要素》
(これ、もう“倫理の崩壊会議”だな)
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会議も中盤に差し掛かったころ、社長が突然言った。
「そういえば、辞めた彼——録音の件、覚えてますね?」
(忘れられるわけないだろ)
「私は、ああいう裏切りを許しません。
ですから今回の査定では、“感謝耐性”という項目を追加します」
「感謝……耐性?」
「どんなに理不尽でも、“ありがとうございます”と言える力です」
(……もう完全にスピリチュアル人事)
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営業の若手が小声で呟いた。
「つまり……“我慢力”っすね」
「その通り! 我慢は美徳です!」
「じゃあ、残業代も我慢で……」
「はい、そこも評価対象です」
(評価って、つまり無給だろ!)
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会議はついに3時間を突破。
誰もが限界に近づく中、社長は締めの言葉を放つ。
「皆さん。今年も“愛情査定”を誇りに思ってください」
お局が乾いた拍手を打つ。
「はいはい、愛で包んで餓死するわよ」
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翌週、賞与明細が配られた。
封筒の中には金額と一緒にメッセージカードが入っていた。
> 『今年もよく耐えました。愛しています。——社長』
藤井はため息をつき、計算機を叩いた。
「昨年より五千円減……」
お局が後ろから覗き込む。
「減っても“愛”は増量中よ」
「うるさいですよ」
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その日の午後、藤井は社員から匿名アンケートを受け取った。
Q1:来年の希望。
A1:「昇給」
A2:「転職」
A3:「悟り」
藤井は黙ってすべてを封筒に戻し、机の引き出しにしまった。
(……仏門への道、近いな)
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夕方。
社長が廊下を歩きながら笑っていた。
「人は金じゃない、心ですよ」
お局がすれ違いざまにボソリ。
「そう言う人ほど、財布の中見せないのよね」
藤井は微笑んだ。
(この会社、給料は止まっても笑いは止まらない)
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そして夜。
藤井は机に突っ伏しながら、静かに呟いた。
「……昇給ゼロ、賞与に愛、労働に信仰。
会社ってなんだろうな」
蛍光灯がちらつき、残業の影が壁に揺れた。
お局の声が廊下から響いた。
「おーい、総務課長! “愛の残業”終わった?」
藤井は苦笑し、答えた。
「……あともう少し、“愛の請求書”まとめてます」




