第9話:安全再教育会議 ― “再是正”の始まり
労基署への是正報告が正式に受理されてから、一か月。
玄関の横断幕には、金色の文字で「是正完了 安全第一!」と誇らしげに掲げられていた。
社員たちは誰もその幕を読まないが、社長だけは毎朝見上げて満足げにうなずく。
(……是正って、そんなトロフィーみたいに飾るもんじゃないんですけどね)
総務課長・藤井仁(36歳)は、出勤早々、苦いコーヒーをすすりながらため息をついた。
思えば、この一か月は“平穏”というより“嵐の前の静けさ”だった。
労基署との半年に及ぶ攻防を終え、是正報告がようやく受理された矢先、社長が現場査察中に延長コードに足を引っかけて派手に転倒。
その瞬間を目撃した全社員の心臓が止まりかけた。
――だが、社長本人は満面の笑みで言った。
「見たか! 私は安全の大切さを身をもって体験した!」
(……いや、誰も見たくなかったですよ)
そして今日。
その“体験”を全社員に共有すべく、「安全再教育会議」が招集された。
議題は「再発防止と安全文化の浸透」。
名目は立派だが、実態は社長の転倒事件の“名誉回復”である。
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◆ 会議、開幕
会議室に全管理職が並び、社長が壇上に立った。
「よろしいか諸君! 我が社は労基署からの是正を完了した! だが、安全に終わりはない! 私が転倒したことは、会社全体への警鐘だ!」
拍手がまばらに起こる。
お局(71歳)がすかさず声を上げた。
「社長、それを社内報に載せましょう。“体験で学ぶ経営者”という特集で!」
「うむ、よいタイトルだ!」
社長の顔がぱっと明るくなる。
(……学びの前に治療しろ、ですよ)
技術部長が慎重に手を挙げた。
「社長、現場では転倒防止策として、棚の下部に“転倒防止板”を追加する案を検討しています」
「よし、それだ!」
即答だった。
組立部長(76歳)が口を挟む。
「いや、あんまり長くしたら足ひっかけまっせ」
「長いほうが安心感があるじゃないか!」
「安心感と安全性は別もんですわ!」
会議室が一瞬ピリッとする。
加工部長(75歳)が口を開いた。
「安全は気持ちですよ。現場の意識改革こそが是正の根幹です」
「その通り!」と社長がうなずいた。
(……延長コードを踏んだ本人が“意識改革”を語る会社)
お局がメモを取りながら呟いた。
「“安全は心の余裕から”ってスローガンどうかしら」
「うむ、採用!」
社長が嬉しそうにペンを走らせた。
鼻毛爺い(74歳)が、机を軽く叩いて口を開いた。
「社長、安全はええですけど、やりすぎると動線が詰まって仕事になりません。ほどほどが一番ですわ」
「安全に“ほどほど”などない!」
社長の声が響き渡る。
(……ほどほどにしてほしいのは、あなたの気合いですよ)
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◆ “やりすぎ安全”の現場
数日後、現場では転倒防止板の設置作業が進められていた。
社長の意向で“より安心感を”との指示が出され、板は足首どころか膝の高さまで延長された。
「これで社長も転ばないな」と誰かが冗談を言い、現場が凍りつく。
藤井が見回りに行くと、組立部の年配社員が苦笑いを浮かべていた。
「課長、動線が狭くなって、台車が通らんのですわ」
「……うん、見たら分かる。安全対策で危険を増やすとは斬新ですね」
社長の言葉通り、見た目は“どっしり”としている。
しかし、少し油断すればすぐに足を取られそうだ。
実際、通路では“安全第一”と書かれた掲示板が板の角に当たって倒れた。
(……安全掲示板が安全を脅かす。ここまで来ると芸術だな)
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◆ 再び、事件
昼下がり。
現場から無線が鳴った。
「救急車、呼んでください! また転倒です!」
藤井の背筋が凍る。
急いで駆けつけると、70代の社員が腕を押さえて座り込んでいた。
原因は――例の防止板。
足を取られ、派手に転倒。
骨折ではないが、全治三週間の捻挫だった。
「またか……」
藤井は空を見上げた。
(是正完了から一か月で、再発二件目。日本記録いけるな)
社長は翌朝、再教育会議を再招集した。
「よろしいか! 安全は一日にして成らず! 今こそ“安全再教育の徹底”だ!」
お局が即座に提案する。
「安全体操を朝礼に組み込みましょう!」
「いい! 体を動かすのは良いことだ!」
その横で技術部長が、恐る恐る付け加えた。
「ただ……時間がかかりますので、始業を15分早める形で」
「うむ、よろしい!」
(……15分早める? それ残業じゃなくて“早残”ですよ)
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◆ 再教育の果て
翌週から、朝の体操が始まった。
社長が壇上でラジオ体操第一を率先して行い、途中で息切れして中断。
それでもお局は拍手を送り、誰も笑えない空気が漂う。
午後には、「安全に関する標語コンテスト」も開催された。
入賞作は、営業部のお局による――
『安全第一、命は自己責任』
(……それ、再利用やめてください)
総務には、また新たな報告書の山が届いていた。
“再教育計画書”“体操指導日誌”“事故防止報告フォーマット”。
それを整理している藤井の目の下には深いクマが刻まれていた。
残業時間は、再教育前より30%増。
社員たちは安全より睡眠を求めていた。
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◆ 永久機関の会社
深夜。
藤井は静まり返った事務所で、パソコンの画面を見つめていた。
フォルダの中には「是正報告(完了)」の隣に、新しく作ったフォルダがある。
――【再是正】。
中には、再教育計画の修正版、再発防止策の追加報告書、そして事故報告の下書き。
「安全第一」の名の下に、書類だけが増えていく。
藤井は画面を閉じ、深く息を吐いた。
(……うちは安全を守る会社じゃなくて、“安全の書類”を守る会社だな)
ふと見上げると、壁には例のスローガンが貼られていた。
――「安全第一、命は自己責任」
(……命より、是正の方が重い会社って、どうなんだろ)
彼はゆっくり立ち上がり、消灯スイッチを押した。
蛍光灯がパチンと音を立てて消える。
暗闇の中、壁のスローガンだけが白く浮かび上がっていた。
それは、会社の“終わらない再教育”を照らす墓標のように見えた。
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◆ 結語
翌朝、社長は満面の笑みで社員に語った。
「よし、再教育は順調だ! 事故があったということは、改善の余地があるという証拠だ!」
お局が言う。
「じゃあ次は“安全再々教育会議”ですね!」
(……やっぱり永久機関だった)
藤井は、笑う気力もなく、手元の出勤簿に目を落とした。
“是正済”の文字が、黒々と皮肉に光っていた。




