第三夜
ピピピ、という目覚まし時計の電子音に起こされて、わたしは意識を覚醒させる。
わたしは枕元にあった目覚まし時計を止めると、深呼吸を一度してから、軽やかに起き上がった。自慢ではないが、寝起きは良い方である。
「……さて、念願の自宅に帰ってきて、早速、月曜日とは少しだけ憂鬱ですね」
はぁ、と小さく溜息を漏らしてから、わたしは寝間着を脱ぎ捨てて下着姿になると、普段のトレーニングウェアである剣道着に着替えた。
時刻は、まだ空が白んでいる時間帯、朝五時である。ここから日課の基礎訓練を一時間少々行うのだ。
わたしの日課は、例外的な事象が発生しない限り、規則正しいものである。
年間を通して、起床は朝五時。それから基礎訓練を一時間ほど行って、朝食と昼食の弁当を支度して、シャワーを浴びる。
これは平日だろうと土日祝日だろうと変わらぬルーティンである。
その後は、土曜日か祝日であれば、九鬼山の登山道をトレイルランニングして、山頂で昼食の弁当を食べてから、学校の課題や師父からの課題、怪しまれない程度の友達付き合いをする。
これが日曜日であれば、師父の道場に稽古に出掛けて、昼食を食べるのだ。
けれど、今日は月曜日――平日である。
平日は、さして代わり映えのないルーティンだ。学校に登校する準備をしてから、七時半の出発時刻になるギリギリまで、全国ニュースと地方ニュースで世間の情報を確認する。
わたしは、部活動には所属していない。なので登校時間に余裕はあるのだが、それでも学校までの距離が割と遠いので、バスと電車を乗り継いで通っていた。とはいえ、通学時間はおよそ一時間程度なので、遠すぎるほどではない。
ちなみに、わたしの通う三幹高等学校には、教職員兼用の豪華絢爛な寮があるので、通学に二時間以上掛かるような遠方に住む生徒は、だいたいが寮生活を送っている。
ピロリン、ピロリン、ピロリン、と連続して携帯のSNSアプリのメッセージ着信音が鳴った。
わたしは、朝の全国ニュース番組を眺めながら、リビングで充電しているスマホに視線を向ける。
この時間帯に連続してメッセージを送ってくるのは、十中八九、一人しか思い付かない。
「――やっぱり、優華さんですか」
わたしはスマホを確認した。すると、それは予想通りの人物からだった。
『綾女ちゃん、今日は久しぶりに学校に来れるんだよね?』
『アタシ、いまバス乗ったんだけど、一緒に登校しよ?』
『あ、今日ってそういえば、英語の小テストやるんだった。勉強してないよぉ(´;ω;`)』
その文章を読んでから、わたしは時刻を確認する。
いまは七時十五分、彼女と合流する為には、もう出掛ける必要があるだろう。
わたしはテレビを消してから、返事をする前に家を出た。
メッセージの送り主は、為我井優華――わたしが唯一、友人と呼べる稀有な存在である。小学校からの幼馴染であり、学校、私生活共に、何かあればつるんでいる同級生である。
「わたしも、いつものバスに乗ります……と」
わたしはスマホの画面を見ずにフリック入力で返信してから、バス停に向かう。ちなみに、為我井優華が乗っているバスは七時二十五分に到着するバスであり、普段わたしが一人で乗っているバスの一本前に着く便である。
バス停はわたしの自宅から早歩きで七分ほどの距離にあり、基本的に誰も乗降しない。なので、少しでも遅刻しようものならば、すぐにバスが行ってしまう。
わたしは時刻を確認しながら、バスに乗り遅れないよう小走りに向かった。
果たして、バスは定刻通りに到着していたが、わたしはかろうじて、乗り遅れることなく間に合った。
「――おはようございます、優華さん。先週はご心配をお掛けしました」
「おはよ~、綾女ちゃん――うん、すっごく心配したよぉ。体調、ダイジョブ?」
わたしは五人ほどしかいないバスに乗り込み、最後尾の横一列席を堂々と独占している為我井優華に近付いた。
為我井優華は、小動物チックな可愛らしい系の美少女である。
光の加減で赤茶色に見えるサイドテール、身長147センチと小柄なのに胸は87のFカップという凶悪なスタイルを持ち、性格は天然で空気を読まず、ちょっとお馬鹿で運動音痴――男子からの人気はダントツだが、一方で同性の九割からは、男に媚びるあざとい女子として非常に毛嫌いされている。実際、為我井優華の友人に、同性はわたしだけで、あとはオタク系の男子ばかりである。
わたしはそんな為我井優華に、申し訳ない、と謝罪しながら、いつも通りに彼女の隣に腰を下ろした。
為我井優華は、頬を膨らませてプリプリと怒りながら、パタパタと駄々っ子のように腕を振っていた。その腕の振りに釣られて、ブルンブルンと揺れる巨乳に少しだけ殺意が芽生える。
「……ええ、もう大丈夫です。ちょっと実家で水垢離をした際に、たちの悪い風邪を引いてしまったようで、ずっと臥せっていました。けれど昨日、完全に快復しましたよ」
「もぉ――綾女ちゃんは昔から、身体が弱いんだから、いくら暑くなってきても、水垢離とか挑戦しすぎだよぉ」
「ええ、失礼しました」
わたしの嘘八百な出鱈目に、為我井優華は本気で心配してくれている。
為我井優華は、幼い頃から付き合いのある紛れもない友人だ。だがしかし、彼女はわたしの裏の顔を全く知らない。当然わたしもそれを明かすつもりはないし、巻き込まないよう細心の注意を払っている。この秘密は、死ぬまで隠し通そうと思っている。
ちなみに為我井優華は昔から、何かと裏事情で学校を休むわたしのことを病弱だと勘違いしており、連絡なく突然来なくなった際には、何も聞かずに色々フォローしてくれる。
とはいえ流石に、先週の一週間の軟禁は、だいぶ彼女に心労を掛けていたようだ。
わたしが一切どこにも連絡出来ず、挙句に自宅にも帰れなかったので、何か事件に巻き込まれたのではないか、と心配していたらしい。
戻ってくるのがあと数日遅れたら、為我井優華は捜索願を出すつもりだったようだ。
「あ、そういえば、優華さん。忘れていましたが、期末テストって、もう全部戻ってきましたか?」
「うん、戻ってきたよぉ! アタシも全教科、ギリギリ赤点回避~!! 夏休みの補習は免除だよぉ」
「それは良かった――となると、わたしのテストはまだ教諭がお持ちなんですか?」
「ううん。綾女ちゃんに届けようと思って、アタシが受け取ったよぉ。でも、綾女ちゃん家に居なかったから、とりあえず預かってる。でもでも、結果は返さなくても分かるんじゃないのぉ? だって、学年トップ10は、廊下に全教科の点数が貼りだされてるからさぁ……」
為我井優華が口をへの字に、ジト目をわたしに向けてきた。わたしはとぼけた調子で、そうですか、と軽く頷く。
為我井優華の反応を見るに、わたしは学年上位に名を連ねているようだ。まぁ毎度のことだし、テストの際にも結構な手応えを感じていた。当然の結果だろう。
とりあえず補習さえ免れれば、夏休みは確保できる。わたしとしては、それ以上は望んでいないので、正直、学年で何位だろうと関係ない。
「……ところで、優華さん。今年の夏休みは、どこかに行く計画とか立てたのですか?」
バスに揺られながら、わたしは視線を逸らしつつ多少強引に話題を変える。すると為我井優華は、ニカッと笑顔を見せて、すぐにわたしに合わせて返してくる。
「うん、まぁねぇ。と言っても、みんな忙しそうだから、まだ出発日時は未定だけど……あ、綾女ちゃんも一緒に来る? 去年はオーストラリアだったから、今年はハワイの予定で、一応、七泊くらいを考えてるんだぁ」
「丁重にご遠慮いたします――それにしても、相変わらず豪勢な旅行ですね」
「んー、豪勢かなぁ? 普通だと思うけど……あ、でも、去年よりはゆっくり出来るよ。だって今年、ハワイで何するか全然決めてないもん。だから、ビーチで遊んで、美味しい物食べて、あとは別荘でグータラするんだぁ。だから、綾女ちゃんもどう?」
一緒に行こうよ、と首を傾げてくる為我井優華に、わたしは苦笑しながら、今一度ハッキリと辞退する。家族水入らずの旅行に、部外者が同行するのは気が引ける。
それにしても、為我井優華と話していると時々、普通の生活水準とは何かを疑わしくなってしまう。平然と言う彼女の『普通』は、あまりにも一般からはかけ離れている。
為我井家は語るまでもなく大富豪の家である。
父親は大手建築会社の社長で、彼女はいわゆる社長令嬢――末っ子の六女だが。
「旅行、と言えば……凛花さん、最近、メディアで大活躍ですね。旅番組にゲストで出演してたでしょう?」
「あ、そうそう、そうなの。しかも、この間の映画がヒットしたおかげで、助演女優賞の受賞が決まったみたいだし……凛ネェ、ここんとこ、だいぶ調子に乗ってるよぉ」
「調子に、ではなく時代の波に乗ってるのでしょう? いまが旬の芸能人としても、メディアで取り沙汰されてましたし」
「むぅ――ポンコツの癖に、生意気だよぉ」
為我井優華のそんな悪態に、わたしは苦笑だけを返す。大根役者と言うが、そういう為我井優華は、演技など到底出来ないではないか――とは、口が裂けても言わない。
為我井家四女の為我井凛花は、為我井優華の姉であり、劇団所属の女優で且つ、新進気鋭のアイドルグループのセンターも兼務している。演技力は芸能界でも指折りで、演技が出来て、歌って踊れるアイドルとして、多大な人気がある。
そんな彼女をポンコツとけなすのは、あまりに僻み過ぎだろう。
とはいえ、実際の人物を知っているわたしとしても、為我井優華が、けなしたくなる気持ちは分かる。
為我井凛花は、芸能において非凡だが、勉学と頭脳の点において落第レベルである。軽く若年性健忘症ではないのかと疑うほど、脳みその容量が少ない。それこそ為我井優華よりも勉強は出来ない。
「あ、そうだ、そうだ。凛ネェのことなんてどうでも良いけど――綾女ちゃん、聞いてよ! 先週、隣のクラスにねぇ、転校生が来てねぇ」
その時、ふと為我井優華が話題を変えた。わたしもそれに応じて、為我井優華との他愛無い世間話に興じることにした。
わたしたちの降りる場所は、バスの終点だ。もうしばらく時間は掛かる。
そうして、隣のクラスの転校生の話や、わたしが軟禁されていた間に起きたあれこれを話すことに夢中になって、気付けば学校に着いていた。
久しぶりに顔を合わせたからか、いつもお喋りな為我井優華は、普段よりいっそうお喋りだった。
わたしは為我井優華と話しながら、廊下ですれ違う同級生を横目に、教室に入った。
ここで一旦、会話は切り上げである。
わたしと為我井優華は同じクラスであるが、座席は教室の端と端で離れている。
「それでは、また後で――」
「うん、また休み時間にねぇ!」
時間に余裕を持って着席してから、わたしは為我井優華に借りたノートを開いて、欠席していた間の板書を写し始める。正直、予習復習は綿密に行っているので、写す意味はあまりないが、無言で黙々と作業する為のアピールには、ノート写しに勝る作業はないだろう。
わたしはノートを書きながら、さりげなく教室を見渡す。
一週間程度では、教室の雰囲気は当然、変わりようもなく、わたしに対しての態度も誰一人変わることはなかった。
わたしも、為我井優華ほどではないが、誰からも相手にされていない。
いや、相手にされていないというよりも、話しかけ難いらしい。
『綾女ちゃんは、高嶺の花過ぎるんだよぉ。成績優秀、けど欠席しがちの病弱で薄幸の美少女。そんなステータスで、しかも普段からニコリともしないクールビューティーだから、よほどの猛者じゃないと、声を掛けるのなんて無理だよぉ』
――とは、為我井優華談である。
実際、意味もなく話す必要を感じないので、話しかけ難いのであればそれは僥倖である。
友人が居ないことに苦労を覚えたことはないので、周囲からどう評価されようとも気にしない。
さて、学校の授業は退屈至極だが、学生の本分は勉学にある。授業に出たからには、教諭の金言は漏らさず聞いて、しっかりと学ばないといけない。
それでなくとも、わたしの通う県立三幹高等学校は、県内有数の進学校である。
授業内容は先取りしており、とっくに高校二年生の範囲は終わっている。油断すれば、すぐに授業に置いて行かれてしまうだろう。
とはいえ、期末テストという一大イベントが終わり、教諭の方も、授業より生徒たちの内申点を付けることに気持ちが向いているようだ。授業内容はそれほど進んでおらず、また新しい範囲を教えているというのに、随分と流し気味の講義になっていた。
これであれば、ただ聞いているだけで充分学習できる。先週一週間の欠席は、恐らく今日一日で挽回できるだろう。
わたしは丸一週間ぶりの授業を拝聴しながら、せっせと機械的に、為我井優華から借りたノートの板書を書き写す。当然ながら、拝聴している授業の板書も忘れない。
そうこうしているうち、あっという間に午前の授業が終わり、昼休みになる。
「綾女ちゃん、やぁっとお昼だよぉ――学食、行こ?」
昼休みになると、途端に元気になる為我井優華が、一目散にわたしの机にやってきた。久しぶりの光景である。
わたしは、ええ、と笑顔で言いながら、持参した弁当を持って為我井優華と学食に向かう。
「優華さん、わたし、席を確保しておきますね」
「うん、分かったぁ。アタシの今日の気分はぁ――キツネうどん!」
為我井優華は、券売機のボタンを楽しそうに押下すると、出てきた食券を大事そうに抱えて学食の受取カウンターに並んだ。
わたしはそこそこ賑わっている人混みを掻き分けて、直射日光が降り注ぐテラス席を確保する。
夏間近の日差しは強く、テラス席はどこにも日陰がない為、非常に不人気だった。
「……少しだけ眩しいです」
わたしは目を細めながら、四人掛けのテラス席に弁当を置いて腰掛ける。
よく清掃された白色のテーブルに日差しが反射して、わたしは思わず目が眩んでしまった。
「綾女ちゃん、綾女ちゃん、どこぉ――あ、ここかぁ。うわぁ、蒸し暑いよぉ」
冷水と無料の冷たいお茶を用意して席で待っていると、しばらくして為我井優華がテラス席にやってきた。彼女は学食から外に出た瞬間、その端正な顔を歪めてプリプリと頬を膨らませていた。
蒸し暑いのは承知だ。しかし残念ながら、学食内に席は空いていなかった。
わたしは口をへの字にした為我井優華に向かい席を勧めながら、どうぞ、と冷水と冷たいお茶を差し出した。彼女は席に座ると、水を一息に飲み干して、途端、ほわっと破顔する。
「この炎天下だと、冷えた飲み物が凄く美味しいねぇ! でも、わざわざこんなとこにしなくても……」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、でしょう? そもそも、学食内は席がありませんでしたよ?」
「そうだけどぉ……というか、綾女ちゃん、毎回そうやって自分を苛めてると、また体調を崩しちゃうよぉ?」
気を付けます、と言いながら、わたしは手を合わせてから、食事を始める。為我井優華も同様に、いただきまぁす、と手を合わせてから、食事に手を付け始める。
ちなみに、蒸し暑いとテラス席に文句を言っている癖に、為我井優華の食べている昼食は、熱々のキツネうどんと、小サイズのカツ丼セットである。
「――あ、そうそう。ねぇ、綾女ちゃん。今日の放課後、六花モールに買い物に行くんだけど、付き合ってくれないかなぁ?」
ひとしきり食事が終わり、お互い小休止していると、不意に為我井優華がそんな提案をしてくる。
六花モールと言えば、九鬼市と虎尾市の中間地点に建つ大型ショッピングモールだ。ゲームセンターや映画館も入っており、買い物だけでなく、学生たちの遊び場としても人気のスポットである。
余談だが、徒歩五分圏内に、二十四時間営業のマンガ喫茶、カラオケ、ダーツバーもある為、警察官が日夜青少年の補導で徘徊している場所でもある。
「申し訳ありませんが、今日は用事が――」
わたしは今日、わざと街を徘徊して、五十嵐葵が所属している組織からの刺客を誘い出そうと思っていた。
龍ヶ崎十八から聞いた話では、わたしを助け出したとき、あの場には何者かが潜んでいたらしい。
その何者かは、龍ヶ崎十八と九鬼連理の姿を見て、そのまま撤退したらしいが、わたしが軟禁されている間、ずっと監視の目はあったと言う。
だからこそ、軟禁から解放された今でも、どこかでわたしを監視しているはず――気配は感じないが。
それを知っているので、わたしは狙われ易いように、為我井優華の誘いを即答で断ろうとして――だが、待てよ、と。
わたしが独りで理由もなく徘徊するより、為我井優華のような一般人と遊んでいる風を装った方が、狙われ易いのではないか。
ふと龍ヶ崎十八の言葉を思い出す。
『五十嵐葵――【言霊の魔女】が所属していた組織は、間違いなく綾女さんの命を狙ってくる。けど、警戒して行動すれば、そう簡単に狙われないと思う。だから、当分の間は不要不急の外出……特に買い物とかは、絶対に避けて欲しい――』
わたしが独りで徘徊しただけでは、警戒されてしまう可能性が高い。一方、為我井優華のような無関係な人間と一緒に行動した方が、油断してると思われて狙われ易い気がする――
「用事、あるのぉ? んー、独りで行くのはなぁ……」
「――用事が、ありませんでしたので、是非、ご一緒いたしますよ」
わたしは、にこやかに前言撤回して頷いた。
すると、為我井優華は満面の笑みを浮かべて、やったー、と両手でガッツポーズをとっていた。
わたしの脳裏には、龍ヶ崎十八の言葉がまた浮かぶ。
『――綾女さんが強いのは分かるけど、【理外の祝福】や【魔女の恩寵】もなしに、理外の存在を相手にするのは無謀だよ。ましてや【魔女の騎士】や【魔女の弟子】が出てきたら、今度こそ死ぬかもしれない。だから、無茶はしないでほしい』
龍ヶ崎十八はわたしのことを慮って、強く釘を刺してきた。
けれど、わたしの望みは強くなることであり、強くなる為には、危険であろうとも、強者との闘いを避けて通ることなど出来はしない。
わたしが目指す最強は、スポーツのように万全の態勢を整えてから、いざ始め、という闘いに勝つことではない。あらゆる状況下において、どんな敵が相手でも、息の根を仕留め切る強さを持つことである。
「……それでは放課後、買い物にいきましょう」
「うん、やったー、綾女ちゃんと久しぶりの買い物だぁ――じゃあさ、じゃあさ。アタシ、掃除当番だから、終わっても待っててね?」
「ええ、もちろんですよ」
わたしはニコリと微笑んで、食べ終わった弁当箱を片付けて、テラス席のテーブルを布巾で掃除する。それを横目に、為我井優華も食器を返却口に持って行った。
昼休みはまだ少しあるが、とりあえずこの席は蒸し暑い上に眩し過ぎるので、わたしたちは教室に戻ることにした。
午後の授業は、移動教室である。準備も含めて、お喋りは教室でしているのが妥当だろう。
そうしてあっという間に授業は終わり、放課後になった。
為我井優華は掃除当番の為、いまは教室に残って清掃とゴミ捨てをしている。わたしはそれを手伝うことはせず、早々に教室を出て、図書室で暇つぶしをしていた。
読む本を物色するでもなく、勉強の為に参考書を借りるわけでもなく、ただ何気なく気になった本を手に取って中身を流し読みしていた。
「……魔女、魔女の弟子、魔女の騎士、護国鎮守府、理外の存在……」
わたしは誰にも聞こえない程度に囁きながら、龍ヶ崎十八と九鬼連理から聞かされたそれらの単語を調べていた。しかし当然ながら、望む情報が記載された書物は見つからない。
パタン、と手に取った本を閉じて、また別の本を取り、堂々と立ち読みする。
「――四象の教主は、四神を束ねて異端を制して、理外を律した。そんな四神が欠ければ、当然、補填が必要になりますよね?」
その時ふと、すぐ隣で意味不明な呟きが聞こえた。わたしは怪訝な表情を浮かべて、呟きの主に顔を向ける。
そこには、見覚えのない女生徒が立っていた。
彼女はわたしの視線に気付いて、ハッとした表情になり口元を押さえる。
その反応から、ただの独り言か、と判断して視線を切ろうとすると、女生徒はわたしに向かって言葉を続ける。
「ええと、初めまして、鳳仙綾女さん? わたしは、水天宮円。ついこの間、聖ユスティノス女学園から転校してきた者です」
ニコリともせず、無表情に淡々と告げるその自己紹介に、わたしは何が何やら分からず、はぁ、と頷きだけ返して、一歩後退る。
なぜわたしの名前を知っているのか、なぜ話しかけてくるのか、まったく意味が分からなかった。
「ああ、失礼――警戒しないで下さい。鳳仙さんのことは、貼り出されていた期末テストの順位表で拝見して興味を持ちまして……聞いたところ、入学以来、ずっと学年首席だとか? それだけでも凄いのに、ご本人はそんな成績が霞むほどの美女……天は二物を与えず、とは嘘ですね」
水天宮円はそう口にしながら、ジロジロとわたしの全身を頭から足先まで流し見てくる。値踏みするような不愉快な視線だが、そこには敵意も悪意も感じなかった。
わたしは警戒しつつ、さりげなく殺意をぶつけてみるが、水天宮円はそれに反応しなかった。
九鬼連理のように、立ち居振る舞いから強さが滲んでいるわけでもない――わたしの命を狙いに来た刺客かと一瞬勘ぐってしまったが、それは早とちりのようだ。
わたしは警戒は解かずに、しかし一息吐いてから、素直に感情を口にする。
「水天宮、円さん? ええ、初めまして――こんなわたしに、美女という評価を頂けるは、ありがたく思いますが、そういう水天宮さんには負けますよ」
これは嫌味ではなく、本音である。
実際、水天宮円は同性であるわたしから見ても、驚くほど綺麗だった。
身長はわたしより少しだけ低いが、その分、スタイルは女性らしく、胸のボリュームは為我井優華ほどではないが、まな板のわたしと比べれば、羨ましいばかりである。
きめ細かく、シミ一つない白い肌、切れ長の瞳はパッと見て西洋人と見紛うばかりの蒼眼である。
肩口まで伸ばした髪は、透明感ある青みがかった黒髪で、整形でもしたのかと疑いたくなるほど完璧に目鼻立ちが整っていた。
冷然とした無表情は似合いで、纏う雰囲気はおよそ同級生とは思えない妖艶さをも醸している。
「……それに友人から聞きましたが、水天宮さんは、難しいと定評のある三幹の転入試験で、満点を叩き出したそうじゃないですか? まさに才貌両全ですね」
わたしは一瞬だけ水天宮円の顔に見入ってしまったが、すぐにハッとして、そう言葉を続けた。
彼女のことは、登校時のバスで為我井優華から聞いていた。
『綾女ちゃんに匹敵するくらいの美少女で、しかも超頭良いんだって――油断すると、綾女ちゃんのポストを奪われちゃうね』
そんな朝の会話の一幕を思い出して、わたしはつい苦笑する。
ポストを奪われるも何も、そんな下らないジャンルで争うつもりはないし、実物は想像以上に綺麗だ――わたしでは勝てないだろう。
すると、水天宮円は表情を少しも動かさずに、ありがとうございます、と会釈する。
「お世辞でも、鳳仙さんにそう言ってもらえると嬉しいです――あら? もう少しお話したかったですが、お迎えがいらしたようですので、わたしは失礼します」
水天宮円はそう言うと、図書室の入口に視線を向ける。
音で把握していたが、確かに待ち人である為我井優華が、その時ちょうどやってきていた。
「――それではまた、いつか。ごきげんよう」
トテトテ、足音を鳴らしながら近付いてくる為我井優華から逃げるように、水天宮円はそんな優雅な挨拶をして、図書室から出て行った。
わたしは出て行く水天宮円を見送ってから、入れ違いに現れた為我井優華と向き直る。
「ごめん、綾女ちゃん、遅れちゃったぁ……」
「いえ、別に遅れたほどではありませんよ」
「うぅ、ありがとぉ――あ、ちなみに、綾女ちゃん。いま、水天宮さんとお話ししてたりした?」
水天宮円を見送った視線に気付いて、為我井優華が首を傾げた。わたしは、ええ、と頷いてから、同じように首を傾げながら言う。
「……よく分かりませんが、自己紹介だけしました……ちなみに、優華さんから聞いていた以上にお綺麗で驚きましたが、とても不思議ちゃんでしたよ」
そんなわたしの言葉に、為我井優華は、どゆこと、と眉根を寄せる。わたしは、さあ、とはぐらかすように言って、為我井優華と肩を並べて図書室を出た。
その後、制服のまま為我井優華と六花モールでショッピングを満喫して、八時過ぎに全国チェーンのファストフード店で食事を摂った。
その間、わたしは隙だらけで、いつでもどこからでも狙ってこいとばかりに振舞っていたが、残念ながら、刺客はおろか、不審者の類も現れはしなかった。
為我井優華が電車で痴漢された時などは、すわ刺客か、と張り切って腕を捻じり上げたものだが、まったく関係ない凡人サラリーマンだった。
がっかりである。
ちなみに、痴漢した凡人サラリーマンは、結論、鉄道警察に現行犯逮捕してもらったが、わたしを女子高生だと侮って抵抗してきたので、偶然を装って腕を圧し折っておいた。
ついでに、運転免許証の名前を電車内で読み上げたので、即座にSNSで拡散されることだろう。
期待した敵が現れなかった分の憂さ晴らしには足りないが、ほんの少しだけ満足して、わたしは帰路に着いた。