第三夜/後編
徒手空拳で構えるわたしと、徒競走のスタンディングスタートみたいな姿勢で構える五十嵐葵。
無言で見詰め合ううちに、互いの緊張は否応なく高まり、何かの拍子ですぐさま爆発しそうな空気が出来上がった。
「――――スタート!!」
そして、五十嵐葵の無意味な掛け声を合図に、戦闘の火蓋は切られた。
大砲の如き速度の飛び込みと、より苛烈で強烈な連撃がわたしに襲い掛かる。
五十嵐葵は驚異的な身体能力を持っていても、戦闘技術は素人のようだ。繰り出された連撃は、先ほどとまったく同じ攻撃パターンで、戦術を感じさせるものではなかった。
とはいえど、技術がなくとも運動センスが抜群であることに違いはない。攻撃パターンが単調だろうと、繰り出す連撃は、完璧な姿勢から最適な軌道で放たれている。
ただ攻めるだけでも、圧倒的過ぎる身体能力を駆使されれば、戦術などあろうとなかろうと躱すことは非常に困難だ。
――そもそも、わたしの反射神経でさえ、ここまで怒涛の連撃は見切れない。
残像しか感じ取れないくらいの疾さをした致命の連打を、わたしが捌ききれている理由はひとえに、五十嵐葵の動作が分かり易いおかげである。五十嵐葵の予備動作から、次に繰り出される攻撃を予測して、先読みして避けているのだ。
集中の極地に到っている今のわたしだからこそ出来ている芸当である。
わたしは、瞬きの一瞬さえ許されないその極限の状況で、しかし焦ることなく、五十嵐葵の放つ致死の攻撃全てを躱す。
その過程で、身に着けている衣服と、皮膚の表面、それに精神力と体力が凄まじい勢いで削られていく――けれど、緩んだら一撃で決着である。文字通り死に物狂いで避けなければならない。
さて、そんな致死の嵐は、たっぷり三分間、まったく緩まず続いた。五十嵐葵は無呼吸で絶え間なく動き続けて、付け入る隙が出来なかった。
永遠にも思える三分間――だが、やがて決着のときが訪れる。
「……っ、プハッ――」
超人的な五十嵐葵でも、さすがに無呼吸で動き続けることなど出来なかったようだ。酸欠状態になった五十嵐葵は、ラッシュの合間に一息だけ息を吐く。
それはほんの刹那、時間にして一秒にも満たない息継ぎである。けれどその一瞬、彼女は致命的なまでに隙だらけになった。
「――ぁっ!?」
そんな千載一遇の好機を、わたしが見逃すはずはない。その一瞬こそ、わたしにとっては、まさに死活の瞬間だった。
わたしは既に使い物にならなくなっている左腕を突き出して、五十嵐葵の鳩尾、ついさっき回し蹴りをお見舞いした箇所に、渾身の一撃を叩き込む。
――――無刀之型【穿ち月】
先ほど放った際には、風の壁の前に為す術もなく打ち負かされたが、回し蹴りが効いた箇所であれば、効果が期待できるかもしれない。
賭けではあったが、勝算は高いと踏んでいた。
「くっ――では、続けて、これが――」
果たしてわたしの放った穿ち月は、今度は見事に、五十嵐葵の鳩尾を貫通した。
わたしのボロボロの左腕が、五十嵐葵の腹部を貫き、背中から顔を出している。代償に、技の衝撃に耐え切れなかった左手は、手首半ばまで爆発したかのごとく弾け飛んでいたが、その程度の犠牲は些細なものだろう。
まだわたしは死んでいない。
「――無刀之型、弧月【斬鉄】」
わたしは左腕が五十嵐葵を貫いた状態で、勢いよく右半身を前に捻り、その懐に踏み込んだ。同時に、Y字バランスのように、右足を高く蹴り上げる。
跳ね上がった右足は五十嵐葵の頭上で一瞬溜めてから、次の瞬間、踵落としの要領で、彼女の肩口に叩き付けた。
さて、この攻撃は有効なのか、無効なのか――最初に弾かれた斬鉄と同様の斬撃である。これが弾かれなければ、わたしの推測が正しいことを証明できる。
果たして、ブシュ――と、鋭利な刃物で斬り付けられたかの如く、五十嵐葵の肩から胸元まで、パックリと袈裟に切り裂かれる。
血飛沫が上がった。
(当たった――となれば、やはり五十嵐さんは、攻撃時に隙が出来るっ!)
わたしは勝利の手応えを感じて、心の中でガッツポーズを取る。けれど、ここで油断などしない。まだまだ勝負は決していない。
「こ、の、化物ッ――」
ところが、手刀で腹部に風穴を開けられた上に、足刀で心臓部分に到達するほど深く胸部を切り裂かれているにも関わらず、五十嵐葵は即死しなかった。いや、即死しないどころか、その表情には驚愕しか浮かんでおらず、苦痛の色が一切ない。
実際、声音にはダメージを感じさせなかった。
「――くっ、おりゃあ!!」
五十嵐葵はわたしの足刀に怯まず、盛大に血飛沫を撒き散らしながらも、腹部を貫くわたしの左腕を強く握り締めてきた。
「――っ!?」
どれほどの握力があればこんな芸当が出来るのか――五十嵐葵は、わたしの左腕を握力だけで握り潰して引き千切る。
ブチブチ、ボキボキ――と、左腕の筋肉と骨が千切れて、砕かれる音が響いた。
わたしは声を出さずに驚愕して、咄嗟に五十嵐葵から離れる。当然、千切れた左腕はそのままで、結果、わたしは左腕の肘から先を失う。
「ちょっと……制服、汚れちゃったじゃないの……どうしてくれるのよ?」
五十嵐葵は、低くドスの利いた声でわたしに首を傾げた。その顔はまったく笑っておらず、明らかに不快な表情で苛立ちが全身から放たれていた。
わたしは五十嵐葵の立ち姿をマジマジと眺めて、もはやホラーだな、と心の中で呟いた。
制服の胸元を大きく切り裂かれた彼女は、その白い胸をあられもなく露出していて、またその胸部からはダラダラと止め処なく血が流れていた。しかも鳩尾には、引き千切れたわたしの左腕が突き刺さっている。
「どうして、そんな状態で、まだ生きている、のでしょうか?」
わたしも満身創痍で、決して人のことは言えない状況だったが、それでも対峙している五十嵐葵と比べれば、少しも致命傷ではない。
たかだか両腕が死んでいて、身体中が悲鳴を上げているだけ――内蔵に達する傷は一つもない。
ところが、五十嵐葵はどう見ても致命傷を受けている。これで殺せないのならば、もうわたしではどう闘えば良いのか分からない。
(…………それにしても、昨日の巫道さんのときもそうでしたが……これでは、自信なんて、なくなりますね……)
わたしは自分が、いかに井の中の蛙だったか、これ以上ないほど痛感した。同時に、わたしが選んだ外道がどれほど険しい道だったかを理解する。
最強に至る道のりが困難なのは当然だが、入り口でこれほど厳しいとは思っていなかった。
わたしはまだまだ未熟で、甘すぎた――師父の言葉に憤っていた先々週の自分を思い出して、思わず鼻で笑ってしまった。
わたしのそんな葛藤など知らず、五十嵐葵はわたしに質問を返してくる。
「どうして、って? 私が、死んでいないのが不思議?」
わたしはその問いに頷きだけで返した。すると五十嵐葵は、苦笑しながら口を開いた。
「……あのね、鳳仙さんも大概よ……ただの人間風情が、よくもそんな状態で平然としていられるわ……そうねぇ……ここまで私を追い詰めたご褒美に――それこそ冥土の土産に、色々教えてあげようか」
五十嵐葵は見下すような視線でわたしを眺めながら、鳩尾に突き刺さった左腕を無造作に抜き取って、道場の隅に投げ捨てた。
途端に、ドバァ、と堰を切ったように大量の出血が発生して、道場の床をいっそう汚した。
しかしそんな大怪我にまったく頓着せず、五十嵐葵は血に濡れた右手を自らの胸に添えた。
「私は、魔女なの――それも、天然の魔女。通り名は【風神】または【言霊の魔女】で通ってるわ。鳳仙さんは知らないみたいだけど、少なくとも命を狙われるくらいには有名人みたいよ?」
五十嵐葵の荒唐無稽な言葉に、わたしは思わず鼻で笑う。その拍子に、ごぶ、とつい吐血してしまった。
何が魔女だ――ふざけた台詞である。
「魔女、だから、死なない……とでも、言いたいのでしょうか?」
わたしは薄笑いの表情を浮かべたまま、五十嵐葵を睥睨した。そんなわたしに、やれやれ、と肩を竦めてから、五十嵐葵は溜息を漏らす。
「その顔、信じてないわね……まぁ、信じる、信じないは別にどっちでもいいけどさ。事実は認めなきゃいけないわよ? 事実として、私はまだ死んでないでしょ?」
「はっ――魔女は、不死身、だとでも?」
わたしは嫌味たっぷりに、強気で返す。そんな態度が不愉快だと言わんばかりに、五十嵐葵は冷めた調子で吐き捨てた。
「残念ながら、不死身じゃないわよ。物凄く死に難いだけ――魔女ってさ、この程度の傷じゃ、致命傷にはならないし、寿命も数百年に延びるんだって……しかも漲る魔力のおかげで、身体能力は数十倍に跳ね上がるし、例えば、こんなことも出来るのよ?」
言いながら、五十嵐葵の全身から凄まじい風が巻き起こる。するとそれは、まるで意思を持つかの如く球状の風の塊を形成して、五十嵐葵の周囲を漂う。
「…………」
「エア・ボム――威力は、とくと御覧あれ」
怪訝な表情を向けるわたしに、五十嵐葵はそんな台詞を吐くと、風の塊にフッと息を吹きかけた。
瞬間、風の塊は弾丸の如き勢いで道場の柱に向かって飛んでいき、激突して途端に弾けた。
風の塊が弾けると、風速50メートルはあろう凄まじい衝撃波が巻き起こり、爆音と共に、神棚が飾られた太い柱が圧し折れる。
ちなみに、発生した衝撃波は床に転がっていた師父の肉片を吹き飛ばして、道場内にばら撒いた。
「どう? 凄いでしょ? 本気を出せば、こんな魔術を連発できるのよ、私――だから鳳仙さん、もう諦めたらどうかな? 貴女には端から、勝ち目なんてなかったのよ?」
五十嵐葵は勝ち誇ったよう笑みを浮かべて、わたしを見下した。この期に及んで、まだ諦めていないわたしが気に食わないようだ。
だが生憎、わたしは諦めが悪い性質である。この程度の逆境で、諦めるなど有り得ない。
「ふ……強がって、いませんか? わたしが、想像以上に強かったから……五十嵐さんを、追い詰めてしまったから……わたしが、怖いのでしょう?」
わたしは強気で挑発した。けれど、そんな強気の態度とは裏腹に、身体はもはや限界を訴えており、その場にガクリと膝を突いた。
わたしが膝を突いた姿を見て、五十嵐葵はニンマリと会心の笑みを浮かべる。
「まったく――どっちが強がってるのかな? もう立てもしないくせに……よくもまあ、そんな吠えられるわね」
五十嵐葵は切り裂かれてあらわになっている左胸を右手で隠しながら、一歩、わたしに近付いてきた。
「確かに、鳳仙さんを怖いとは思うわよ? 【魔女の騎士】でもないのに、私相手に、ここまで戦えるなんて異常だもん……というか、魔女との戦い方も知らないことも考えると……もしここで見逃したりしたり、ほかの勢力に取られて恩寵とか授かっちゃうと、末恐ろし過ぎるわ――」
だから殺すね、と優しい声音で言って、五十嵐葵は本気の殺意を全身から放ってくる。
道場内の空気が一気に冷たく重苦しいものに変わり、いまにも爆発しそうなほど緊迫した空気が満ちる。
「……ちな、みに……ごほっ……魔女、は、どうすれば……殺せ、るのでしょうか?」
わたしは乱れ始めた呼吸を隠さず、懸命な様子でそんな質問を投げた。
五十嵐葵はわたしの質問を耳にして、ふっ、と思わず苦笑している。まだ諦めていないのか、とその不敵な表情が物言わず語っていた。
「もう狂戦士って奴ね、鳳仙さんは――いいわ、教えてあげる」
五十嵐葵は、出来の悪い子に教えるみたいな態度で、仕方ないとばかりに頷いた。それは、わたしを舐めきっているがゆえの慢心である。
とはいえ、わたしの不意打ちを警戒して、身体の周囲に目で見えるほど厚い風の壁を展開していた。
「魔女の弱点は、【魔女の聖痕】って呼ばれるタトゥーみたいな刻印なの。で、その刻印は身体のどこかに隠されていて、それが傷付かない限り、どれほどの重症でも時間経過で治るのよ。だから、ゾンビとか吸血鬼とかみたいに、首を切断すれば殺せる、とか、心臓を杭で打てば殺せる、とか――そんな共通の殺し方はないの」
「………………魔女、の、聖痕……」
ドヤ顔で告げる五十嵐葵に、わたしは衝撃を受けた振りをした。それが嘘か真かは分からないが、どちらにしろ、弱点はいまだ曝されていない。
しかし――なるほど、信憑性は高い。賭けてみるだけの価値はあろう。
わたしは、明滅し出した双眸を一旦閉じて、観念したかのように顔を伏せた。その様は、まるで全てを諦めて介錯を待つ武士のような格好だった。
「やっと諦めてくれた? 良かった――あ、分かり易い弱点がなくて、ごめんね?」
五十嵐葵は余裕の笑みを浮かべつつ、ゆっくりと近付いてくる。逆巻く風の音が、耳にうるさい。
わたしは静かに深呼吸して、もはや使い物にならなくなり始めた身体に活を入れる。すると、忘れていた凄まじい痛覚が戻ってきて、集中がいまにも途切れそうになった。
しかし、集中を途切れさせることはしない。集中が切れたが最後、恐らくわたしは気絶して、二度と目が覚めることはないだろう。
――次の攻防が、本当に最期だ。刺し違えても五十嵐葵を殺す。
わたしはそんな決死の覚悟を胸に刻み込んで、完全に諦めた体を装って脱力する。
「――お疲れ様、鳳仙さん。最期に言い残すことはあるかな?」
もはや勝利を確信した様子の五十嵐葵は、膝を突いたわたしを見下ろす位置で立ち止まり、そんな馬鹿にした台詞を吐いた。
圧倒的優位に立っているが故の油断――万が一にも、負ける未来を想定していない。
「……ひとつ、だけ……よろしい、でしょうか?」
「ん、なに? いいわよ、聞いてあげる」
わたしは口の中に溜まった血反吐をゴクリと飲み込んでから、ゆっくりと顔を上げる。五十嵐葵の勝ち誇った笑みが、目に飛び込んできた。
「くたばれ――ブスで性悪の糞女」
わたしは精一杯の悪態と共に、挑発的な笑みを浮かべてみせた。わたしの汚い罵りを浴びて、五十嵐葵は勝ち誇った笑みを一瞬凍り付かせる。
そして、直後にハッと我に返ると、怒りに顔を紅潮させて、思い切り右腕を振りかぶった。ハラリと、隠していた白い左胸があらわになる。
「死に損ないの癖に――この、化物っ!!」
わたしの捨て台詞に激昂した五十嵐葵は、振りかぶった右腕に風を巻き付かせて、渾身の右ストレートを打ち下ろしてきた。
五十嵐葵の右ストレートは、まるで風のドリルだ。直撃すればきっと、肉を抉って、骨を砕いて、痛みさえ感じることなく一瞬で昇天できるだろう。掠っただけでも、巻き付いた竜巻に巻き込まれて致命傷を負うに違いない――けれど、これは計算通りである。
いまこの瞬間、攻撃に集中している五十嵐葵には、鉄壁の防御はない。
「死ぬのは、五十嵐さん、です――」
わたしは呟きと同時に、上半身を思い切り反らして倒した。その姿勢は、まるでリンボーダンスのような仰け反りである。
「っ――!? 往生際が、悪いっ!!」
怒りで視野が狭くなった五十嵐葵は、わたしの動きに咄嗟に反応できず、渾身の右ストレートを空振って体勢を崩した。
とはいえ、五十嵐葵はその驚異的な身体能力にあかせて、すぐさま姿勢を立て直し、腹を見せているわたしの腹部に右拳を打ち下ろしてきた。
――まったく予想通りの動きだ。
わたしはドタンと背中を道場の床にぶつけると、その場で回転、左足を犠牲に五十嵐葵の右拳にぶつけて軌道を逸らした。
五十嵐葵が放った右拳の打ち下ろしは、そのまま道場の床を貫く。一方で、右拳の風に巻き込まれた左足は、肉が裂かれて血塗れになる。
「っ、嘘、でしょ――くっ!?」
利き腕が床を貫いたせいで完全に体勢を崩した五十嵐葵は、悲鳴にも似た驚愕の声を上げる。
わたしは、そんな五十嵐葵の首に右足を掛けて、彼女を床に引き倒そうとした。けれど、そこまで為すがままになるほど、五十嵐葵は弱くない。
「こ、の――」
わたしは四つん這いで耐えた五十嵐葵の首を支点に、右足だけで空中に飛び上がり、回転する独楽のように身体を回して、彼女の胸元を足刀で薙ぎ払う。
ブシャ、と首筋と胸元が裂かれて、五十嵐葵のデコルテ部分が露出した。ついでに下着も切り裂いたので、五十嵐葵はセミヌード状態になった。
その瞬間、五十嵐葵は蒼白になって、慌てて左手で胸元――正確には、右側の乳首ではなく、大胸筋部分を隠すように手を回した。
「やはり、そこですか――」
わたしはそんな五十嵐葵の行動に確信を得て、ブッと血反吐を吐きながら、床に転がっている仕込刀【魔女殺し】の近くに飛んだ。
突如距離を取ったわたしに、五十嵐葵は安堵の表情を浮かべる。しかしその安堵こそ、致命的な隙だ。まさしく敗着であろう。
五十嵐葵はわたしの吐き出した血を顔面に浴びて、彼女は視界を奪われる。
「――流星穿ち月」
わたしは右足を器用に動かして、仕込刀を蹴り上げる。そして、蹴り上げた仕込刀を、はしたなくも口にくわえ込み、五十嵐葵へと飛び掛る。
わたし自身を一本槍に見立てた捨て身の突撃。その渾身の一突きを、五十嵐葵の胸元、左手で隠している右胸部に突き刺す。
途端に、パキン、と硝子がひび割れるような、そんな不思議な音が響き渡った。
「ぁ、ぁぁああああああああっ!!!!?」
五十嵐葵の凄まじい絶叫が道場内に響いた。
チラと見れば、わたしの思っていた通り、突き刺さった仕込刀の位置には、500円玉ほどの大きさをした不可思議な刺青が浮かんでいた。
瞬間、わたしはくわえていた仕込刀を離して、死んでいる左足を高く掲げると、追撃の踵落としをその刺青にお見舞いする。
すると、パキパキ、と硝子片を踏み砕いたような音が鳴り、ブシュウ、と五十嵐葵の大胸筋から、噴水の如く鮮血が噴き出した。
「っっっ――――がぁ、あああああああ!!?」
わたしは確かな手応えと、五十嵐葵のその反応に、決まった、とそう確信した。
しかしその刹那、五十嵐葵の力任せに振るった剛腕を喰らって、ホームランボールのように軽々と道場の壁まで吹っ飛んだ。受身など取れなかった。
ドタン、ゴロゴロ、と、わたしは無様に道場の床を転がり、ぐったりとうつ伏せに倒れ込んだ。
もはや四肢はほぼ全部使い物にならなくなっており、かろうじてまともに動くとしても、右足のみである。本当の本当に、もうこれで何も出来ない。
「ぁっ、うぉぁあああああっ――い、痛いっ!? 痛いっ!!!」
一方で、わたしの渾身の一撃に貫かれた五十嵐葵は、大絶叫しながら駄々っ子のようにその場で転がり回っている。
わたしが吐いた血のせいで両目は開けられず、耐え難い苦痛をそこかしこに当り散らしている。
絶叫しながら力任せに床を叩いて、ドガン、ドガン、と大穴を空けている様を見て、わたしはニヤリとほくそ笑む。勝者の笑みである。
まったく、いい気味だ――と、わたしは消え入りそうになる意識を必死に繋ぎとめて、そんな五十嵐葵をただジッと眺めていた。
「ぁああああ――な、なんでっ!? どうしてっ!!? がぁ、ぅぉおおおお――」
五十嵐葵は激痛で錯乱状態になっているようで、明後日の方向を向きながら、両手で床を叩き続けている。その場にへたり込んで、血が流れるままに喚き散らしている。
わたしはそんな五十嵐葵に苦笑しながら、声には出さず、心の中で回答した。
(……五十嵐さんの弱点は、魔女の聖痕、と言う話を聞いた瞬間に、すぐ察せました。最初からずっと、貴女は右胸を庇っていた……)
思い返せば、最初の一撃からそうだった。仕込刀で斬りかかった際、五十嵐葵は本気で命の危険を感じていた。だが、その後の攻撃には、有り得ないほど無頓着だった。
それを考えれば、自ずと弱点の位置は推察できる。
(…………けれど、嘘を言っている可能性もあったので、博打ではありましたが……)
わたしがそう思考する一方で、五十嵐葵は、わぁぁ、とか、ぎゃぁ、とか、ひたすら喚き散らしている。もはや完全に我を失っており、自らの身体を掻き毟って肉を引き裂いている。
漂う異臭と、壮絶な絶叫、上半身裸になって体中を掻き毟る美少女――その光景は、あまりにもシュールである。
「ぁぁああぁあぁああ――――ぅ、ぅぁ、ぁ、たす、けて――教主、様ぁ」
やがて、その絶叫は段々と音量を落としていき、最期にはめそめそと小声で泣き出した。
わたしはそれを満足げに見詰めて、いよいよ遠のき始めた意識に終わりを覚悟した。
不意に、パリン――と、綺麗に澄んだ高音が五十嵐葵の胸元で鳴り、途端に彼女は絶句する。
「――――ぁ」
そしてパタリと、五十嵐葵は力尽きた。穴だらけになった道場の床に、血の池が広がり始める。
濃い血の臭いが充満した道場に、ようやく静寂が下りた。
わたしはしばらくは警戒をしていたが、五十嵐葵が動く気配はもうなかった。やっと絶命したらしい。
それでようやくわたしは緊張を解いて、ホッと一息吐いた。途端、強烈な眠気が襲い掛かってくる。
――しかし、それも当然か。
わたしは首を捻って、見える範囲で自らの身体を確認する。
左腕は、肘から先を失って、右腕は肉が飛び散り骨が露出。左足はふくらはぎが抉れて、足首が変な向きで折れ曲がっている。口の中には血の味しか感じず、視界はモノクロになっている。
息をするたびに肺が痛むが、それさえ他人事のような感覚だった。
(血が、足りない……かも……)
朦朧とする意識のまま、わたしは睡魔に負けて目を閉じた。
意識を失う刹那、わたしが考えたのは、起きたらお肉を食べなければ、なんてそんなこと下らないことだった。