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外道に生きるモノ  作者: 神無月夕
第一章/人修羅を継ぐ者

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第三夜/前編

 

 わたしは日課の基礎訓練を終わらせてから、師父の道場へと向かっていた。

 時刻は朝七時。ひんやりとした朝の空気と、暖かくなり始めた日差しが、適度に疲労した身体を目覚めさせてくれる。


「……先週、次に訪れるときには、試練を終わらせて参ります、と啖呵を切った手前、失態を報告するのが恥ずかしいですね……」


 わたしは、はぁ、と溜息を漏らして、遠くに見える九鬼山を眺めた。

 昨日の巫道サラとの邂逅が脳裏に過ぎる。

 苦い敗戦――いや、敗戦と呼ぶのすらおこがましいボロ負けの黒歴史が思い出された。まったく、頭が痛くなる。


 師父の道場は、正面に見える雄大な九鬼山(クキヤマ)の隣に連なる、名前のない小山の麓にあった。

 名前のない小山は、標高200メートルほどで、周囲を広大な森に囲まれており、その総面積は東京ドーム十二個分に匹敵する。

 それら全て、森と山一帯、蒼森(アオモリ)(ゲン)名義の私有地である。

 師父の道場兼自宅は、そんな森の奥に、ひっそりと建てられた古民家である。

 農業や林業なども全くやっていないので、木々が伸びたい放題、荒れ放題で、ここ一帯は完全に遊ばせた土地である。

 ちなみに余談だが、昔から何度もこの山周辺をゴルフ場にしないかという誘いが来るらしいが、師父はそれをずっと断っているらしい。


 さて、わたしはそんな森の奥で隠遁生活を送る師父に、毎週日曜日だけ会いに来ていた。

 一週間に一度、師父の元に通って、稽古を付けてもらう。それをここ五年ほど繰り返している。

 それがちょうど二週間前、師父に免許皆伝を言い渡されて、同時に、二つの試練を与えられたのだ。与えられた試練は期間を設けられてはいなかったが、とはいえ、早く終わらせることに越したことはない。

 だから先週、稽古が終わった後、わたしは師父に啖呵を切っていた。


『準備と仕込みは終わりましたので、来週には試練を終わらせて参ります』


 わたしが強気で言い放ったとき、苦笑交じりに微笑む師父の顔が思い浮かぶ。

 あれからもう一週間か――わたしは失態を報告したとき、師父に何と言われるのかを想像しながら、ガサゴソと人の気配がする道場に足を踏み入れた。

 師父の朝は早い。とっくに起きて、早朝稽古をしているのだろう。


「おはようございます、師父。失礼いたしま――」

「――あらら? 呼び寄せてないのに、本命が来ちゃった。ちぇ……せっかく猟奇的な殺人現場を演出してから呼んで、盛大にショックを受けてもらおうと思っていたのに、ちょっと残念」


 道場に足を踏み入れて、普段通りに頭を下げた瞬間、聞きなれない場違いな声がわたしに投げられた。

 わたしはハッとして顔を上げて、道場の中で唯一存在している気配の主に視線を向けた。


 果たして、師父だとばかり思っていた気配の主は、性別さえ違う赤の他人だった。


「――――」


 わたしはその光景を見て、感情が一瞬にして振り切れる。頭が真っ白になると同時に、全身が凍ったように硬直してしまう。絶句して、呼吸すらも忘れた。

 目の前の光景が信じられず、ただただ呆然と、目を見開いていた。


「【人修羅】蒼森玄――ほんの一昔前まで、最強の代名詞だった暗殺者。だけど、よくよく調べてみれば、それも過去の栄光だったみたいね。十二年ほど前に【太陽の魔女】暗殺に失敗してから、立て続けに裏社会の信頼を喪って、いまや信用も名声もない()()()()()()――」


 見覚えのあるその女は、涼しげに語りながら、ボキっと、握り締めていた師父の首を素手で圧し折る。


「――とはいえ、一応、警戒して、準備万端、完璧な不意打ちで仕掛けたんだけど……結構、あっけなかったわ。と言うか、ここまで弱いと思ってなかったわ」


 胸元まで伸びたシャギーの茶髪、パッチリとした双眸、端麗な小顔には、柔和な笑みが浮かんでいた。


「私、魔術の一つも使ってないのよ? もっと苦戦すると想定してたのに……まぁ、人間離れした動きだったのは間違いないけどね」


 その女は、わたしにゆっくり向き直ると、これ以上ないほど満面の笑顔で告げる。


「ただの人間如きがこれほど動けるなんて、ちょっとだけ感動しちゃった。だから、慈悲で即死させてあげたの――優しいでしょ?」


 彼女の挑発は、しかしわたしには届かなかった。

 思考は完全に真っ白、停止状態で、ただただ呆然と目の前の光景を、信じられない気持ちで眺めていた。


(あり、得ない……そんな……信じ、られない……)


 かろうじて考えられるのは、この光景を否定する言葉だけである。

 だが、どれほど否定しようとも、目の前に立つ女性の容姿は見間違いようがなかった。


 ――彼女はどう見ても、一昨日、わたしが殺したはずの五十嵐葵、その人である。


「ねぇ、応えてよ? 私、優しいでしょ? わざわざ苦しまないように、心臓を一突きで仕留めてあげたのよ? そのせいで制服は少し汚れちゃったけどね」


 五十嵐葵は、わたしの驚愕など気にも留めず、右手で折れ曲がった師父の首を掴んで、その身体を軽々と持ち上げている。

 道場の床には、師父から滴る血が水溜りになっていた。

 五十嵐葵は、わたしに見せびらかすように師父をより高く掲げる。正面を向いた師父の胸元は、ちょうど心臓部分に大きな風穴が空いており、そこから血が止め処なく溢れていた。

 ちなみに五十嵐葵の左手は、見事に血塗れである。


「さて、それじゃあ、本命が到着したから、この前菜は捨てるわね?」


 五十嵐葵はそんなことをのたまい、わたしと視線を合わせて、ニヤリ、とほくそ笑んだ――瞬間、師父の身体がボールみたいに放り投げられる。

 老人とはいえ、師父の体重は軽く50キロはある。けれど、そんな師父がまるで弾丸ライナーみたいに馬鹿げた速度で、神棚の置かれた道場の柱に激突した。

 ブチッ、グチャ、とトマトが潰れるみたいな音が道場に響き、ぶつかった柱が一瞬で血に染まる。

 その光景も信じがたいことだが、師父の身体はまさに爆散と言う表現が相応しいほどバラバラになって、道場の床に転がった。

 しかも胴体の一部は、柱にめり込み、血と共にへばり付いている。


「うわぁ、ばっちいね。ああいうのが、まさしく、汚い花火、かな?」


 五十嵐葵が腕を回しながら、そんなことをほざいた。途端に、道場内には臓物の異臭が立ち込める。


 ――濃厚な血の匂い。死んだ人間の臭いだ。


「はい。で、本命さん――貴女、鳳仙(ホウセン)綾女(アヤメ)、って言うのよね? 一昨日は、よくも酷い目に遭わせてくれたわね? おかげさまで、私のお気に入りのお人形さんを一つ、潰すことになっちゃったじゃないの」


 五十嵐葵はそう言って、プクッと可愛らしく頬を膨らませる。

 わたしはまだ現状の理解が追いついていない。


「お父様たちを誤魔化すのも、中々大変だったし――鳳仙さん、貴女に、私の苦労、分かるかな?」


 五十嵐葵の声のトーンは、友達に愚痴を漏らすようなトーンだ。悪戯されて困ったなぁ――程度の軽い口調である。

 とても、殺されかけた被害者が、殺そうとした加害者に語る調子ではない。


「――ってまぁ、過ぎたことをいつまでもグチグチ言う趣味はないけどね。というか、命を狙われたおかげでようやく自覚を持てたから、結果としては、鳳仙さんに襲われて良かったとも言えるかな?」


 五十嵐葵はその場でクルリと踊るように回った。

 何を言っているのか、混乱状態のわたしにはまったく理解できない。ただその台詞が意味不明過ぎて、おかげで少しだけ頭が冷静になってくれる。


「…………五十嵐、葵、さん? 死んだ、はず……では?」


 幾分か落ち着いた思考で、それでも現実を直視できていないわたしは、とりあえず根本の疑問を口走る。

 すると、五十嵐葵はきょとんとした表情をして、次の瞬間、楽しそうに笑い出す。


「ちょっと、ちょっと、いつまで呆けてるのよ? 私を殺しに来たときの、冷酷で愉しげな鳳仙さんはどうしたの? まさか、自分は常に殺す側だとでも勘違いしてた? あ、そっか――冥土の土産とか、格好良いことほざいてたもんね。恥かしくて、現実を認識したくないのかな? でも、いま目の前に起きているのは、紛れもない現実だよ? 正気に戻って、鳳仙さん」


 五十嵐葵は矢継ぎ早にそんなことを告げてくる。

 言われるまでもなく分かっているし、正気でもある――ただ、心が追い付いていない。

 そのとき、呆然と立ち尽くすわたしの足元に、師父の右手が転がってくる。


「ね、その武器を使ってよ。とりあえず、闘いましょ?」


 五十嵐葵が千切れた師父の右腕を拾って、それをわたしに投げてきていた。


「…………」


 ――足元に転がる師父の右手、そこに握られていた小太刀を見て、わたしはようやく覚醒した。


「なるほど――いまやっと、分かりました」


 わたしは深く静かに息を吐いて、かつてないほど深く集中の世界に入る。全身が恐ろしく軽く感じる。


「師父が仰った『殺すこと』の意味、その真意、嫌と言うほど、理解いたしました」

「お? 冷静になった? じゃあ、本気出してみて――今日は、一昨日みたいに、逃げたりしないから」


 わたしは足元の小太刀を拾い上げて、スッと視線の高さに掲げる。

 そんなわたしの構えに、どうしてか満足げな表情をした五十嵐葵が、両手を無防備に広げる。

 五十嵐葵との距離は、およそ30メートル。道場の端と端に近い距離だ。

 例え、歩法飛天を使っても、一歩では詰められないだろう――だから、わたしは小太刀を投げた。


「へっ――? うわぁ!? ちょ、投擲!?」

「――驚くのは、まだ早いです」


 一直線に五十嵐葵へと飛んでいく抜き身の小太刀、それと同時に、わたしは道場の壁から天井へと回り込んで、重力を無視したように天井を駆けた。

 超人的な脚力さえあれば、壁走りも天井駆けも、決して不可能な所業ではない。

 とはいえ、不意打ちでなければ、視認されてしまうので意味がないけれど――


「もう、ビックリ――って、え? どこに消え――ッ!?」


 しかし一瞬だけでも、わたしの姿を見失えば、この不意打ちは成功だ。そして実際に、この不意打ちは大成功した。

 小太刀の投擲と言う予期せぬ攻撃と併用した結果、五十嵐葵は、ほんの一秒だけわたしを見失う。

 わたしは五十嵐葵の死角を突いて、天井から背後に飛び込むと、抜刀した仕込刀【魔女殺し】でもって、右肩を袈裟に斬りつけた。

 外道之太刀【斬鉄(ザンテツ)】――鋼鉄さえも切断する破壊力の剣戟、容赦のない胴体切りだ。

 ここに第三者が居れば、思わず歓声を上げて見蕩れるほどの美しい剣閃。

 まさに必殺のそれが、五十嵐葵の肩口を直撃する。


 しかし――


「ぁ――ぶなっ!?」


 五十嵐葵の肩口を斬り付けた刃は、制服の手前で、見えない空気の壁に阻まれた。

 ガキン、という甲高い金属の悲鳴が響いて、振り抜いたつもりの仕込刀は1ミリもその刃を通すことなく弾かれた。


「硬い――っ!?」


 想定していなかった強烈な手応えに、わたしは驚愕の声を上げる。同時に、あまりの衝撃により、仕込刀を握る手が痺れる。


「ちょ、ホントに、死ぬとこじゃん!?」

「――――っ、ぐが!?」


 刹那、五十嵐葵は文句を吐きつつ、わたしのわき腹に肘鉄を放ってきた。

 わたしは咄嗟に、それを左腕で防御する。けれど、とてもじゃないが腕一本の犠牲では防げる威力ではなかった。

 五十嵐葵の肘鉄は、いとも容易く防御した左腕を破壊する。そのうえ、握っていた仕込刀を弾き飛ばして、わたしの身体をも吹っ飛ばした。

 わたしは満足な受身も取れず、道場の壁に激突した。

 それは細身の五十嵐葵が放ったとは思えないほどの威力である。あまりにも人間離れしすぎていた。


「ちょっとだけ冷や汗だよ? エア・ウォールの結界が間に合わなければ、もしかしたら致命傷だったかも知れないでしょ!?」


 五十嵐葵はプリプリと怒り顔をしながら、そんな文句を吐き捨てていた。

 わたしはそんな五十嵐葵を睨み付けつつ、ゆっくりとその場に立ち上がると、徒手空拳のままで身構える。


(…………左腕は、死にましたか……)


 わたしは心の中で舌打ちをした。破壊された左腕は感覚がなく、もはや使い物にならなかった。

 しかし、この程度の損害であれば、闘うことに支障はない。まだまだ巻き返せるレベルだ。


「――外道之太刀、修羅之位(シュラノクライ)


 わたしは小さく呪詛の如き呟きを漏らす。その言葉を合図に、あらゆる痛覚を無視して、肉体のリミッターを解除する。

 途端に脈拍は恐ろしく速くなり、体温が43度を超えそうなほどの高熱を発した。

 脳の認識が異常なレベルまで加速して、まるで世界が止まって見えるくらいに集中する。


「うん、なかなか凄い集中ね。いい感じ」


 嬉しそうな声で呟く五十嵐葵に沈黙を返して、わたしはグッと身を屈めると、クラウチングスタートの姿勢になった。

 一方で五十嵐葵は、そんなわたしの予備動作を見ながらも、ずいぶんと余裕のある態度で無防備に立ち尽くしていた。

 わたしが徒手空拳だから、舐めているのかも知れない。


「無刀之型――穿(ウガ)(ヅキ)


 わたしはあえて放つ技名を声に出しながら、弾かれたバネのように、五十嵐葵目掛けて飛び掛った。

 今から何を行うか、繰り出す技を宣言することで、心技体を一致させて威力を倍増させる極意だ。

 無防備で余裕の態度をした五十嵐葵、その眼前に迫り、わたしは右腕を捻りながら手刀を突き出す。

 ボクシングの技術にあるコークスクリューブローと、空手の貫手を組み合わせてようなその一撃は、直撃すれば人体なぞ軽々と貫通する威力を持っている。


「無駄よ――流石に素手じゃ、私のエア・ウォールの結界は突き抜けないわ」


 涼しげに語る五十嵐葵の声と、グチョ――という、肉が潰されるような嫌な音が響いた。

 手応えは過剰なほどに感じるが、それは肉を貫いた感覚ではない。

 咄嗟に見れば、わたしの右腕は手首が砕けて骨が露出しており、肘付近まで腕の肉が内側から爆発したかのように裂けていた。とっくに痛覚は麻痺しているので、戦闘を続行することに支障はないが、これでは右腕も使い物にならないだろう。

 ダラン、と力なく下がった右腕に舌打ちして、わたしはサッと距離を取った。


「厚さ20センチの岩盤さえ貫くわたしの穿ち月で、掠り傷一つ負わないとは――厄介ですね」

「……岩盤さえ、って……漫画の見過ぎじゃない? ってか、物理攻撃で、私の魔術結界を突破できるはずないわよ? 突破するつもりなら、それこそダイナマイトでも使わないと不可能と思うわよ」


 涼しげな声でやれやれと肩を竦める五十嵐葵と対峙しながら、わたしはようやく痙攣の落ち着いた腹部に深く深く息を吸い込んだ。

 内臓の一部が傷付いたようで、口の中に血の味が広がる。だが、圧倒的な強者と戦う興奮の前には、そんなのは些細なことだろう。


 さて、状況を鑑みようか。


 現状はもはや、詰んだ、と断じても決して過言ではないだろう。

 わたしの利き腕である右腕は、ボロボロのグチャグチャで、刀を握ることはおろか、拳を握ることさえ、いや肩の高さまで持ち上げることさえ出来ない。

 かといって、左腕は左腕で、骨が折れていて筋肉が痙攣している。刀を握ったところで、本来の握力の十分の一もないだろう。

 身体の状況はもっと深刻だ。修羅之位で肉体を限界以上に酷使しているため、先ほどから、全身あちこちで悲鳴が上がっている。このペースで動き続ければ、恐らくあと十数分もしないうちに、意思とは裏腹に身体が動かなくなるだろう。

 既に全身は、筋肉痛どころの話ではなく、筋繊維がほとんど切れる寸前、至るところの骨も疲労骨折寸前である。


 たかだか数合――それでこの様か。


 確かに経験不足、未熟もいいところだ、とわたしは自嘲する。同時に、ゴブッ、と血反吐が零れた。


「まぁ、鳳仙さんの攻撃力は理解したから――次は、回避能力を見ようかな――行くわよ?」


 五十嵐葵がにこやかに言いながら、その場でスタンディングスタートのポーズを取った。

 突進でもしてくるつもりなのか、全身隙だらけだ。


(……けれど……防御が……硬すぎる……)


 朦朧としそうになる意識に活を入れて、無事な両足で道場を踏みしめる。

 五十嵐葵との距離感は、およそ15メートル前後、集中の極限に達しているわたしであれば、五十嵐葵が何をしようとも対応できる。


 ――そんな甘い考え、この期に及んで相手を舐めた思考こそ、わたしの慢心だった。


「ゴー!! おりゃあぁ――ッ!!」

「――――っ!!??」


 五十嵐葵が掛け声と共にスタートを切る。瞬間、道場の床が爆発した。

 脚力が強すぎて、踏み込みの際に床板を踏み抜いたようだ。およそ人間の機動力ではない。

 わたしの想定など軽く超越した速度の突進、それこそ縮地の領域――そんな視認できない速度で、五十嵐葵はわたしに迫った。

 唯一の救いは、馬鹿みたいな直進であることだ。

 直線的な動きであれば、拳銃の弾丸さえ見切れる今のわたしなら、なんとでもいなせる。


 わたしは思考するより疾く、身体の反射に身を任せて、突き出される正拳突きを左手でいなす。同時に、突進の風圧を受け流すために、軽やかなステップを踏んで身体を回転、闘牛士の要領で立ち位置を入れ替えた。

 一方で五十嵐葵は、渾身の正拳突きを避けられて、ビックリした表情のまま蹈鞴を踏んだ。勢いに釣られて、一瞬だけバランスを崩している。

 けれど、その隙を突きたくとも、いまのわたしに攻撃手段が残されていない。

 歯噛みしながら、咄嗟に距離を取ろうとバックステップする。


「――甘い、わよっ!!」


 しかし、わたしの逃げ腰のバックステップに合わせて、五十嵐葵はその驚異的な身体能力にあかせて急転換すると、ドヤ顔で迫ってきた。

 わたしは、ヒュ、と鋭く息を吸ってから、決死の覚悟でピタリと立ち止まる。

 五十嵐葵は、立ち止まったわたしに、瞬間、面食らっていたが、すぐにまた不愉快なドヤ顔になって、プロボクサー張りの猛ラッシュを繰り出して来た。

 ジャブ、ストレート、フック、アッパーと間断なく放たれる連撃。

 それは一つ一つが、空気がキナ臭くなるほどの速度を伴っており、その拳の風圧だけでも、頬と髪が切れるほどの破壊力だ。

 恐らく一撃でも浴びれば、イコール決着、致命傷になるだろう。

 けれども救いは、五十嵐葵の放つ攻撃が単調であることだ。

 実戦経験が足りないのか、そもそも格闘技術がないのか、身体能力に頼りきりの攻撃であるが故に、避けることはさして困難ではない。

 わたしはそれらの連撃を、左手を眼前に突き出して牽制しつつ、全てを捌き切った。


「チッ、ちょこまか、と――――ぐっ!?」


 五十嵐葵の怒涛の猛ラッシュを紙一重で躱し続けると、一瞬だけ攻撃が途切れた。その刹那の隙を見逃さず、わたしは全体重を乗せた渾身の回し蹴りを鳩尾にお見舞いした。

 修羅之位を発動した状態で繰り出すわたしの回し蹴りは、軽く鉄板に足型が残せるほどの衝撃だ。

 常人ならばこの回し蹴り一つで、腹部が弾けて即死、運が良くとも内臓破裂するだろう――とはいえ、この程度の攻撃で勝負が決するとは思っていない。これで仕留められるのならば、そもそも先ほどの無刀【穿ち月】で終わっている。

 わたしは油断せずに、少しでも距離を離せれば御の字と、五十嵐葵の反撃を警戒して、回し蹴り直後すぐに身構える。

 先ほど同様、見えない風の壁に弾かれるだろうという想定だった。

 しかしそんなわたしの想定を裏切り、五十嵐葵は回し蹴りをまともに喰らって、苦しげな表情のまま何歩か後退りした。

 風に阻まれた手応えはあったが、それほど硬くはなかった。


「く、そッ…………ふぅん、やるわね」


 わたしは冷静に、よろめく五十嵐葵から距離を取った。

 一方で、五十嵐葵は神聖な道場に唾を吐いて、口元をグイと拭うと、不愉快そうに表情を歪めている。想定外のダメージを受けた、と声に出さずともその表情が語っていた。


(…………今の蹴り、どうして効いたのでしょうか?)


 満足に拳を握ることさえ出来ない左手だけでファイティングポーズを取って、わたしは五十嵐葵と対峙した。状況は仕切り直しである。

 だが、漫然と仕切り直しをしても勝ち目はない。五十嵐葵を打倒する為に、何が有効で、何が無効なのかを考えなければならない――わたしは思考をフル回転させる。


「壊さないように、手加減してあげてるけど……それにしたって、鳳仙さんのほうが、さっき闘った人修羅のお爺ちゃんよりもずっと強いわね。やっぱり年の差かな?」

「負けた者は、何を言われても仕方ないと思いますけれど、尊敬する師父を馬鹿にされると、少しだけ不愉快です」

「そ? っと、よし――じゃあ、第二ラウンド始めよっか?」


 互いに軽口を言い合って、五十嵐葵は再び、スタンディングスタートの姿勢になった。

 またあの突撃か、と辟易すると同時に、いよいよ行動停止寸前になってきたポンコツで未熟な自らの身体を嗤う。もはや気合や意思では、誤魔化せない状態のようだ。


 この攻防が最後――光明を見出せないこの状況で、どうすれば勝てるのか、わたしは思考を今まで以上にフル回転させる。


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