夜は動き出す
闇が支配する屋敷の中を、俺は照明魔法を頼りに歩いていた。
毎日根気よく練習を続けたおかげで、この魔法は男の心のままでも使えるようになっている。光の強さは大したことないけど、夜なら十分効果的だ。
最近は魔法の練習が楽しい。エリックが使っていた『風打ち』を習得するための練習もしているが、反射発動魔法はイメージだけで簡単に使えるようなものじゃなくて、体に発動の感覚を覚えさせなければならない。まだまだこちらは難しそうだ。
そんな充実した日々を送ってるわけだが、稽古が終わればまたセシリアのメイドとしての仕事だ。小さな光を灯し、今はセシリアの元へお湯を運んでいる。
俺の心が男だと知っても、体を拭かせるのを良しとするセシリア。あれは彼女の余裕の表れなのか、それとも、俺が取り乱す姿をまた見たいだけなのか……。
どちらにせよ信頼されているからいいか、と苦笑しながらセシリアの部屋へと向かう。
しかし今日は何か変な感じがある。心がぞわぞわするというか? なんだこれ?
とはいえそれだけだ。そんな日もあるのかな? そう思いながら部屋の扉が視界に映った瞬間、胸に不穏な感覚が広がった。
扉が、開いている。
普段ならきちんと閉じられているはずの扉が、少しだけ開いたままになっているのを見て、嫌な予感が胸を突いた。
中を覗くと、案の定、セシリアの姿はどこにもなかった。
「……嘘だろ」
焦燥感が胸の内に湧き上がる。こんなことは今まで一度もなかった。
直感的に窓辺へ駆け寄り、外を見る。
そこには、広い庭をふらふらと歩くセシリアの後ろ姿があった。夜闇に溶け込むような不安定な足取り。その先導をしているのは、この屋敷の侍女だ。
「……あいつ」
俺に湯を運べと指示を出した侍女だ。遠目ではあるが、間違いない。
焦燥感がさらに募り、心臓の鼓動が速くなるのを自覚する。
あれだけエリックが注意して、セシリアも渋々ながら今まで従っていたのだ。それなのに、こんな夜中にセシリアが自分の意志で外に出る訳がない!
セシリアをすぐにでも追いたいという逸る心を自制して、剣帯を装着して手袋に手を通す。そして剣を帯びて確認を済ませて、急いで部屋を飛び出した。
屋敷の中は不気味なほど静まり返っていた。
この時間でも、普段なら少しは人の動きがあるはずなのに、まるで誰もいないかのような異様な静けさが支配している。足音が床に反響し、それがさらに不安を煽る。
頭の中に浮かぶのは、あの黒いローブの男の姿。
「精神への攻撃……まさか、奴の仲間か?」
悪夢を見せる力……それが精神へ干渉するものであるなら、人を意のままに操ることもできるのでは? そんな考えが脳裏をよぎる。
庭へ飛び出すと、門の方向に目を向けた。そこでは、門番が昏倒しており、門が半開きになっていた。
さらに目を凝らすと、坂道を下るセシリアの背中が見えた。月灯りに照らされた僅かな姿が、次第に夜の闇へと消えていく。
「セシリア!」
全速力で追いかける。
胸中では何度も警鐘が鳴り響いていた。この先には、何かが待ち構えている。それはアリオン領での危機と同等、いや、それ以上のものかもしれない。
しかし、それでも俺は足を止めるつもりはなかった。
俺は、セシリアを守るためにここにいるのだ。命を惜しむつもりは毛頭ない。
「絶対に守る……!」
決意を胸に、夜闇の中へと駆け出した。セシリアを追い、坂を駆け下りる。
曲がりくねった坂道を、セシリアがふらふらとした、人形めいていた足取りで歩いていた。そして、その先導をしているのは屋敷の侍女。
一瞬、その侍女が俺の存在に気づき、焦ったような表情を浮かべる。だが、彼女はすぐに表情を取り繕い、急ぐことなくセシリアの先導を続けた。
「……何か策がある目だ」
直感でそう感じた俺は、構うものかとさらに速度を上げた。段差を飛び降り、最短距離でセシリアとの距離を詰めていく。
坂の中程にある広間のような空間。そこにたどり着くと、セシリアの姿をすぐに見つけることができた。しかし、その間に人影がゆらりと現れる。
身の丈の高い、軽装の女だ。短く切り揃えられた髪と鋭い目つきが、まるで猛禽のような鳶色の目で俺を睨みつけている。
そして、何より目を引いたのはその武器だった。
俺の身長より少し短いくらいの長さの両手剣。それを彼女は軽々と振るい、金属音を響かせながら鞘を無造作に投げ捨て、無駄のない動作で構えを取った。
その姿勢には、長年の戦いで磨かれたかのような自信と余裕が滲んでいる。
「そこをどけ!」
言っても無駄だと思いつつも叫ぶ。それに対して当然のように俺の前に立ち塞がる。
そして、その女は自らの名を名乗った。
「イヴリン・グリムヴァル」
その声は低く冷たく、まるで戦場で響く死神の宣告のようだった。
「名を名乗れ」
俺に短く言い放つイヴリン・グリムヴァルと名乗った女。
おそらくこいつは高地人傭兵だ。この雰囲気は知っている。ヴァルガ……奴と同じ圧倒的な存在感がそこにあった。
名乗り合いなんて意味はない。しかしこの女は俺が剣を抜くのを待っているようだ。
どのみち戦わねばならないのなら、彼女の戦士としての矜持に応えるべきだと感じ、剣を抜きながら名を告げる。
「リーナ」
そして、剣を構えてイヴリンに相対する。勝てるかどうかは分からない。だが、やるしかない。
全身の神経を研ぎ澄ませる。すると肌を刺すような冷たい緊張が走り、心臓が一拍遅れて鳴る。
極限の集中。刹那の瞬間を見切るために、心を戦いのために作り替える。
戦闘が始まった。
イヴリンの剣が動きだす。巨大な両手剣が振り下ろされ、風切り音を出しながら襲いかかる。
反射的に地面を蹴る。一気に後退し、ギリギリの距離で初撃を回避する。
心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。
鉄塊が速さを伴って振り抜かれるその光景を目の当たりにして、理解した。少しでも遅れていたら、真っ二つに叩き斬られていただろう。
そう、この戦いは一瞬の油断が即、死につながる。
さらに容赦なく大剣が繰り出される。まるで暴風のような連撃。俺のリーチをはるかに超えるその両手剣が、怒涛の勢いで斬りかかってくる。
その巨大な刃が振るわれるたびに、回避に専念するしかできなくなる。下手な防御ではそのまま叩き切られてしまう!
最近習得した魔法の使用も頭をかすめるが、駄目だ。心を女に切り替える余裕など、この瞬間には存在しない。
ならどうすればいい!? このまま避け続けるだけなら当然勝機はない。焦燥感が胸を締め付ける。
だが、その瞬間。フランとの稽古を思い出した。彼女もまた長剣を使う戦士だった。
無論フランとこの女では剣の持つ威力が、威圧感はまるで違う。しかし戦いを型で判断すれば根本は同じもののはずだ。
魔法なしでならフランには勝ち越していたんだ。ならば狙うのはその再現。隙を突いて懐に入る! 勇気をもってあの剣の嵐の中に飛び込むしか勝機はない!
決心した俺は攻撃をかわしながらも、大きく振りかぶるイヴリンの動作を極限の集中で見極める。
……ある! 隙はある! 剛剣のように振り回すのなら絶対にできてしまう隙。それを見定めて一気に踏み込んだ。
そして、全身のバネを解き放つように渾身の突きを繰り出す。半身になり、リーチの差をわずかに埋める。その剣先が、まるで吸い込まれるようにイヴリンの胴へと迫っていった。
取った!
そう思った瞬間、地面がうねった。突如として隆起した地面が必殺の剣の軌道を逸らしてゆく。
『土壁』……!
フランも使っていた反射発動式の魔法だ。ただの防御ではなく、迎撃として使われたその魔法によって、剣とともに体幹が崩される。バランスを失い、足元が揺らぐ感覚に血の気が引いた。
完全な隙。そこを目掛けてイヴリンの剣が唸りを上げて横薙ぎに振り抜かれた。
「くっ……!」
全身の力を抜き、重力に身を任せて沈み込みながら滑るように体を逃がす。 刃が頭上をかすめ、風圧で髪が逆立った。
そのまま地面に倒れ込むように転がり、勢いを殺さずにさらに横へ跳ねるようにして飛び退く。
再度の風切り音。これもぎりぎりでの回避に成功する。
グレン先生の教えがなかったら確実に死んでいた。付け焼刃かもしれないが、力を無駄にしない身体操作のおかげでなんとか避けることができた!
しかしだからといって俺のピンチは終わっちゃいない。
完全に体勢が崩れている俺の隙を見逃さず、イヴリンの三撃目が振り下ろされた。
追撃のためなのか威力が弱かった。だから剣によって防ぐことができたが、それでも圧倒的な威力によって、剣を弾き飛ばされてしまう。
「……!」
そして、流れるような動作から突進とともに繰り出されたイヴリンの鋭い蹴りが、腹部を貫くように打ち込まれた。
「っ……!」
その一撃を受け俺は大きく後退し、背後の石壁に叩きつけられる。
体を浮かすことでダメージは最低限に抑えた、まだ戦うことはできる。
「よく飛べたな。見事だ」
イヴリンは冷たく称賛の言葉を口にした。
だが、それだけだ。剣を持たずに丸腰の状態。そして後ろは壁に阻まれこれ以上後退はできない。
腹への蹴りは威力を逃がせたけど、ダメージがないわけじゃなく、確実に蓄積している。そして目の前には、剣を振りかぶるイヴリンの姿があった。
横に飛ぶか? いや、駄目だ。せめてもう一呼吸おかないと、足腰に全身を動かす力が出ない。
万事休す。それを意識したその瞬間。
イヴリンの大上段から構えられた剣が、今、振り下ろされた。