スヴェルノヴァとアストリシオーネ
宵闇が支配する時間。
月明りに照らされるヴェリウス家の屋敷を遠目に見ることができる河川港。その一角にひと際目立つ大きな建物があった。
その屋上に、二人の男女が立っている。
「見えるか、アストリシオーネ」
低く響く男の声に応えるのは、黒髪の少女だった。
「見える……この『影』かな?」
アストリシオーネと呼ばれた少女は、藍色の瞳をでもってヴェリウス家の屋敷をじっと見据えていた。
距離を超え、まるで屋敷の中を覗き込むようなその視線。それがただ遠目で屋敷を見ているだけでないのは明白である。
その様子を眺めながら、鍛え上げられた体躯を持つ黒いロングコートを着た男は薄く笑みを浮かべた。
「やはりお前は天才だ。この距離で『恩寵の力』を行使できるなど、エリシャ族の歴史でも初めてのことだろう。お前が送られて来た時は驚いたが、エリシャ機関の本気というものがよく分かる」
彼の称賛の言葉はアストリシオーネの心に刺さりはしなかった。
そして淡々とした言葉で自身の心情と現状を述べる。
「私としても少し戸惑っているわ。それほど人材不足ということかしら? 今は色々なところで仕事があるみたい」
「でなければ休眠機関員を主体に任務を行うなど許可はしないだろうな。その穴を埋めるためのお前というわけだ」
「なにして遊ぼうか考えていたらこれよ。本当に面倒だわ。でも仕事は仕事。それで使うのは支配でなくていいのよね?」
アストリシオーネは男に確認する。重要な任務なら、最初から全力を尽くすべきだと考えていたからだ。だがそれを男が否定したのだ。
「そうだ。いかにお前の能力が優れていようと支配を続けるには消耗が大きい。そして移動する相手を捕捉し続けるのも困難だろう? この任務で上級機関員と呼べる能力を持つのは俺とアストリシオーネの二人だけだ。不測の事態に備えて消耗は抑えたい。ノクタリアスの負傷がなければ任務は確実に成功したのだろうが……それを言っても意味はない」
男の言葉に納得したアストリシオーネだが、少しの苛立ちがあった。
そして不機嫌になりながら男に文句をつける。
「任務については良いけど、その名前で呼ぶのは止めてって何度も言ったはずよ、スヴェルノヴァ」
「シオンと呼べ、だったな。では、シオン」
スヴェルノヴァと呼ばれた男は肩をすくめるようにして言い直し、命令を続けた。
「セシリア・アリオンが屋外に出るように暗示をかけろ。外に出てからは潜入している機関員の先導により城下の市に移動させる。そこまで行けば人員に余裕ができ、拙速に事を運べるからな」
「分かったわ……待って、近くに誰かいる。ノクタリアスが言っていた侍女じゃないかしら? とてもへんな『影』……」
シオンと呼ばれた少女は眉をひそめる。初めての感覚に困惑する。
「確かにこの『影』には通りが悪そう……」
アリオン領襲撃でのノクタリアスの失敗。それはシオンとしても信じられない話だった。
ノクタリアスはエリシャ機関の頂点の一角である達人級の能力行使者。エリシャ機関の人間なら誰しもが恐れ、尊敬の念を抱くほどの使い手なのだ。
そのノクタリアスがこの女に後れを取り、その負傷によって連絡員程度のことしかできなくなった。
だが今なら分かる。この『影』に『恩寵の力』は通用しない。それは自分の力で触れたからこそ、確信となってシオンには理解できた。
「ほう? ならば機関員にそいつを引き離すように指示を送れ」
「……今、送ったわ。でも大丈夫なの? 私たちには厄介な存在よ」
「確かに知らなければ問題だろうな。だが、知っていればいくらでも対処は可能だ」
スヴェルノヴァの計画に変更はない。
『恩寵の力』が通用しない者の存在。この計画には織り込み済みであった。
「その者は報告では剣の使い手とあった。傭兵の攻撃を退けたことからもそれなりの腕はあるようだ。それは確かに我らにとって脅威であるだろうが、それならば直接戦わなければいい。そのための戦力はノクタリアスから譲り受けている。問題など起きはしない」
「そう? ならいいけど」
シオンは興味を失ったように会話を止めて屋敷へと体を向ける。
スヴェルノヴァが問題ないというのだから、任務についての話をする必要性を感じなくなったのだ。
そしてセシリア・アリオンとその女にのみ意識を集中することにする。
「……この日のために我らはカステリスに潜んでいたのだ。懲罰人事の左遷先? 結構なことだ。そのおかげで、この重大な任務に携わることができたのだからな」
スヴェルノヴァの脳裏に浮かんだのはヴェリウス辺境伯領への異動を言い渡された時の屈辱だった。
しかしその決定に不服はあれど納得もしていた。あの時の自分には焦りがあったのだ。それゆえの措置。反論などできはしない。
だが、それすらも今は感謝している。左遷されたが故に転がり込んできたこの機会。この幸運をつかみ取るために雌伏の時を耐え忍んできたのだ。
「邪魔な辺境伯の軍勢はここにはいない。子飼いの密偵どもへの対策も済んだ。今宵こそが絶好の機会だ。ノクタリアスは『イレギュラー』などと御伽話のようなことを言っていたが、その対策すら計画にあるのだ。この状況で侍女の小娘如きに何ができる? それこそ、『イレギュラー』が何度も起こらない限りはな」
スヴェルノヴァには絶対の自信があった。それはこの日のために綿密に組まれた計画と、これから行使する自身の能力に対する自負からくるものであった。
「侍女が離れたみたい……セシリア・アリオンに暗示をかけるわ」
「了解した。ならば始めるとしよう……」
スヴェルノヴァは目を閉じ、思考を集中させると、『恩寵の力』が発揮されていく。その瞬間、彼の脳裏には鮮やかな光景が広がった。
無数の光の糸が彼を中心にして放射状に広がり、点在する機関員たちを基点とし、さらに伸びて行く。
基点と基点は接続され、それぞれの糸の交差により意志が共鳴し、その全て掌握しているかのようだった。
これはただの幻視であったが、まるで実体を伴っているかのような感覚がある。
「これが『恩寵の力』の本質だ……」
スヴェルノヴァはその圧倒的な感覚に酔いしれた。光の糸は単なる指示や報告の伝達ではなく、まるで機関員全員と一体化した意識のもとでの統率が可能になっている。
「全てが掌中にある……これならば無能と蔑まれた機関員であろうとも問題なく使うことができる!」
離れた場所にいる機関員たちに、自身の意志が誤差なく伝わる確信を抱きながら、スヴェルノヴァは微かに笑みを浮かべた。
「この手法の確立と任務の成功。これにより俺は中央に返り咲く! ……待っていろ、エゼルシオン。俺はお前に追いついてみせる! 必ず望みを果たしてみせるぞ!」
その意気込みに満ちた顔を、シオンはそれほど興味がなさそうに横目で見ていた。
これで自分の仕事はほとんど終わり、あとはちょっとした補助をするだけ。
そんな余裕ができたことから、シオンは目を細め虚空に幻視される視界の中の違和感に集中する。
ノクタリアスを退けたという侍女。その『影』の形、魂の在り方。まるで分からない。理解できない存在。
でも、だからこそ……。
「あなたは何なの? いったいどういう人なの?」
シオンは虚空に向かって問いかける。しかしその問いに答えるものは当然ここには存在しない。
だが、その答えは遠くない未来に解答が成されるだろう。様々な思惑によって作られたこの舞台。その幕は今開いた。
この幕引きがどのようになるか。それこそがこの問いの答えになるのかもしれない。