その11
○登場人物
大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)
片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)
久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)
野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)
柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)
亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)
光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)
「それで。それが僕がやった証拠になるんですか」
「現場状況はお前がやったと指し示している」
「それが何だっていうんだ。僕がやったという決定的な証拠にはならない」
「お前、当日スーツケースを持っていったらしいな。野木には土産を入れるためだと
言ったようだが、その中に遺体を入れて運んだんだろ」
「勝手な憶測を言うな。土産を入れるために持ってったんだ」
「あぁ、確かにお前は帰りがけに大量の土産物を購入していた。証言は取れている。
だが、行きの中味は証明できない」
「行きは空だ。何の荷物も入ってなんかない。だったら、今ここにそのスーツケース
を持ってくるから調べてみるか」
「そんなもの無駄だ。証拠は消してあるに決まってる」
「消してなんかいない。元から何もない」
「どうせ、そのうちにお前の犯行だと全てバレるんだ。なら、せめて自白したらどう
なんだ」
「自白。自白はやった人間がするものだ。僕がする必要なんてない」
強い言葉が狭い取調室の中を行き交う。ここまで真実を明かされた屈辱に理性を振ら
されるが、まだ首の皮一枚つながっている事実で押し留める。まだだ、まだ俺は崩され
ちゃいない。
そこで、一旦に話は途切れた。外壁を壊し、中へ侵入し、最後の牙城を崩そうとする
亀谷。己の運命が掛けられた牙城を崩させやしないとする大田。両者の睨み合いが続け
られている。
「すまんが、席を外してくれ。一対一で話がしたい」
彼は取調室にいたもう一人の刑事へ言った。刑事は驚いていたが、彼の気に押されて
部屋を出て行った。
一人減ったことで、取調室はより狭まった気がした。閑散とした空気が余計に不穏さ
を際立たせる。
「自白をする気はないのか」
「その必要がないと言っている」
そうか、と彼は息を一つつく。
「十七年前の吉野川での火事を覚えてるな」
「忘れるはずがない」
「俺はあれもお前がやったと思ってきた」
正確に言うなら、途中からそう思い出した。事件当時には、男の裏にある凶気に気づ
けなかったから。
「馬鹿馬鹿しい」
「あぁ、俺も何度とそう思ったさ。だが、小学生が人を殺められないわけじゃない」
「ふざけるな。いくら刑事だからって、何から何まで事件に結びつけていいってもん
じゃない」
そう言い投げると、彼は少し黙った。返答がなく、それが男には奇妙に感じられた。
「野木が全て話したよ」
彼の言葉に、男はまさかという顔を見せる。心を崩され、その事実を受け入れられは
しなかった。
「あの火事はお前が起こしたものである事。そして、それが事前に計画された残虐な
大量殺人だった事もだ」
それを男性から聞かされた時、彼も驚きを隠せなかった。それを長年疑ってきたのに、
事実として告げられるとさすがに重いものだった。
「どうして・・・・・・」
どうして、野木がそれを亀谷に話したんだ。俺はあいつを助けたんだぞ。あいつには
俺を助ける義務があるはずだ。
「お前が柴村忍を殺めたであろうことをあいつに話した。あいつは本気で落ち込んで
たよ。お前が全うな人間になってくれることを誰よりあいつは望んでたからな。だから、
俺はあいつに訊いた。十七年前の火事の真実を教えてくれ、大田恵一がやったんだろ、
とな。それでも、当然あいつは口を割らなかった。でも、あいつの反応を見ていれば、
それがどういうことなのかぐらい簡単に分かる。もう時効は過ぎてるから大田やお前が
罰せられる事はない、その事について俺が二人を個人的に攻める事もしない、と言い加
えた。それでも、あいつは口を閉ざした。自分を助けてくれたお前を裏切ることが出来
なかったんだ。だから、俺は最後にあいつに言った。お前が本当に大田を助けたいと思
ってるんなら真実を話してくれ、償わないとあいつはいつまでも罪の世界から抜け出せ
ない、と。そうしたら、あいつは全てを話してくれたよ」
男の体に彼からの言葉が沁み込んでいく。もう罪に苦しむのは終わりにしたい、と前
に男性から言われたことを思い出した。
「野木は十七年も苦しんできたんだ。ずっと闇の中から抜けられないお前を目にして。
お前がそこから出ないと、あいつも出られないんだ。あいつは独りでそこから出るよう
な奴じゃない。抜けるならお前と、と思ってる」
「・・・・・・うるさい」
小声で呟く。男の体の中が迷いで疼く。
「最後、あいつは泣きながら話してたんだぞ。もしかしたら自分がいけないのかもし
れない、こうなる前にもっと早くお前を助け出していればよかったのに、って」
「・・・・・・うるさい」
また小声で呟く。機能は壊滅する寸前まで迫ってきていた。
「お前は独りきりなんかじゃない。これだけ心配してくれる人間がいるんだぞ」
「うるさいって言ってるだろ」
男はありったけの声で怒鳴り、ありったけの力で机を殴り、ありったけの感情で亀谷
を睨み、溢れてくる涙を抑えきれなかった。
「俺も同じだ」
感情を曝け出した男から視線を外すことなく、彼は言いつける。
「十七年前の火事の時、真実に気づいてやれなかった事を後悔してる。あの時に俺が
本当のお前を分かってやれていたら、こんなに長い間お前が苦しむことはなかったし、
こんな事件も起きなかった」
この十七年間を雑に急速に思い起こす。どれだけの思いを男と男性と彼はそこに費や
してきただろう。
「すまなかった」
その言葉は、男の長年に渡って留めてきた感情を崩した。男の中で何かが解放された
気がした。
「柴村忍を殺したのは・・・・・・お前だな」
呟くほどの声で彼は言った。男は何も言わず、ゆっくり首を縦に振った。長きに渡っ
て築き上げられてきたものが許された瞬間だった。
取調室を出ると、亀谷は大きく息をついた。自責の念に駆られながらも、十七年分の
葛藤からの解放感もやってきた。昨日から今日まで稼働しまくった体への疲労感も同時
に襲ってくる。今は取り合えず休みたい。
自分のデスクには戻らず、外に向かって歩き出す。狭い部屋の中にいたので、外界の
空気を吸いたくなった。外へと出ると、涼しい空気が真正面から当たってきて気持ちが
いい。しかし、落ち着いて何気なしに目を配らせると、視界に数メートル先に佇む人物
の姿が捉えられた。彼はその人物の方へ近づいていく。不定な表情をして立っていたの
は片柳彩子だった。
「大田なら、待ってても来ないぞ」
女の子への聴取はとっくに終わっていたのだろうが、それからここで待っていたんだ
ろう。聴取を担当した刑事がどう説明したかは知らないが、おそらく大体の事は伝わっ
ているはずだ。
「ここにいつまでもいない方がいい。そのうち、報道の人間も詰め掛けるはずだ」
その時に女の子がここにいるのはまずい。恰好の報道のネタとして取り扱われるに違
いない。
「教えてください」
署内に戻ろうとすると、言葉を掛けられた。
「何だ」
「教えてください。あの人の事、全部」
その不定な表情は言葉の通りに女の子の感情を示していた。男の繕った表面的な姿を
信じてきたのだから、今の状況を素直に受け入れられはしないだろう。
「これ以上に首を突っ込んでも、あんたの立場がまずくなるだけだぞ」
殺人犯の交際相手、そんな事がマスコミから世間に出されたら女の子の芸能人として
の人気は終わりだ。これ以上を知る事は、それだけでなく彼女自身の精神的ダメージを
増やすだけにしかならない。
「・・・・・・違うんです」
女の子は首を振り、弱い言葉を吐く。何を違うと言ってるのか、彼には全く分からな
かった。
「あの人はそんな悪い人なんかじゃないんです。もっと、心が優しくて、時に弱くて、
温かい人なんです」
「それは、あんたの前ではそう見せていただけだ」
「そんなことありません。あれは絶対に嘘なんかじゃない」
女の子の気迫のこもった言葉に、彼は息をつく。完全に男の表面の姿を信じてしまっ
ている。
「あんたはあいつの何なんだ」
そう煙たがるように言い投げると、女の子は考え込んでしまう。
「分かりません。私があの人の何なのか」
信じたい、自分が想いを寄せる人を。でも、現実は信じがたいものばかりを突きつけ
られている。
「それでも、あの人は私にとって大切な人なんです」
女の子の芯のある視線に、彼は手を上げる。
「分かった。全てを話そう」
このまま、男の本性を知らないままでこの先を歩かせるのはあまりに酷だ。それなら、
いっそ一思いに苦しみを一瞬にしてあげた方が楽になるだろう。
「その代わり、最後まで背けずに聞いて欲しい。今から言う事は全て真実だ」
女の子は息をつき、覚悟を決めたように頷いた。
「大田恵一は徳島のごく一般的な家に生まれた。両親は将来を思い、あいつを妊娠し
た時に一軒家を購入したが、結局子供はあいつ一人だけだった。あいつがまだ一歳の時
に、父親は他に女を作って家を出て行った。元々が遊び人の気質だったらしいが、母親
と出会ってからは大人しくなったので安心してたらしい。ただ、元来のものはそう簡単
には消えなかったようだ。だから、あいつは父親の顔も知らない。まぁ、知りたくもな
いだろうがな。それ以来、あいつは母子家庭で育てられた。生計を成り立たせなければ
ならないから、母親は外で働き、その間あいつは祖父母に預けられていた。それでも、
育ち盛りの子供をそうそう手放すわけにもいかないし、父親がいない負い目を味わわせ
たくはなかったから、母親は仕事もパートの数時間だけにして、なるべくあいつの側に
いてやったらしい。それもあって、生活は苦しかった。父親からの養育費はあったが、
かなり貧しい毎日を過ごす必要があった。それでも、二人はそれでいいと思ってたんだ。
だが、周囲の心ない人間がその慎ましい生活を突いてきた。小学校に入ると、あいつは
特定の数人から貧乏を囃され、いじめを受けるようになった。時には中傷され、時には
暴行され、心と体を痛めつけられた。教師も現場を目撃した時でないと助けてはくれず、
同級生も見て見ぬフリをし、学校にあいつの休まる場はなかったんだ。家に帰っても、
いじめっ子が罵ってくる言葉の通りの生活で、次第にそこにすら滅入るようになってき
てしまった。あいつの中で、小学校の六年間は地獄の日々だった。それを吐き出せなか
ったのは、自分のために働いてくれる母親の存在とそこ以外に居場所がなかったからだ。
六年間であいつはだんだん自分自身を閉塞させてしまい、精神的に限界が近づいてきた。
来る日も来る日も罵倒され、暴力を振るわれ、やがて理性で押し留めていたものを本能
が追い越してしまう瞬間が訪れた。小学校の卒業式の二週間前に、あいつのクラスでは
キャンプが行われ、そこを逆襲の場として選んだ。全員が寝静まった夜、あいつは全て
のテントに入口から火をつけていったんだ。俺はその時に現場に行ったが、火は無尽に
燃え盛っていて手の施しようがなかった。結果、テントで寝ていた十七人が全員死んだ。
俺の刑事生活の中でも最大の惨劇だった。あんな長閑な場所に起こるはずのない事件だ。
だが、当時はあの事件は事故として扱われた。現場には事件性を思わせるものはなく、
花火もやっていたので発火の恐れのあるものもあり、なにより小学生があんな事を起こ
せるはずがないと決めてかかっていたからだ。ただ、当時どうしても気に掛かったこと
はあった。事故関係者に話を聞いている中で、あいつの瞳だけはやけに印象的に映った
んだ。険しく鋭くっていうような分かりやすいものじゃなく、静かなのに過ぎるほどの
感情を内に押し込めているような感じだった。事故の後も関係者のケアにはあたってい
たが、大田恵一だけは明らかに他の人間とは違っていた。事故による悲しみじゃなく、
もっと別の悲しみを自身の中に抱いていた。そして、あいつに接していくうちにある仮
説が俺の中に浮かび上がってきたんだ。あの火事は事故じゃないかもしれない、という
とんでもない説だ。あまりに突拍子のない仮設だったから誰にも言わなかったが、俺は
それが頭の中から消せないようになった。大田恵一はとてつもない凶気かもしれない、
もしかしたら何か次に遣ってのけるんじゃないか、という思いが離れなくなってしまい、
いつからか俺はあいつの行方を追い掛けるようになっていった。定期的に、あいつの姿
を確認するために仕事の後の時間を使った。中学生以降、あいつはいじめを受けること
はなくなった。明るさを前面に出すようになったんだ。もちろん、それがあいつの本質
ではなく、意図的に作り上げたものだ。中学と高校と大学と、あいつは特に大事を起こ
さずに無難に進学を続けていった。大学の卒業を控えてる頃に母親が亡くなり、あいつ
は卒業と同時に上京してタクシードライバーになった。俺もなんとか後を追おうと、熱
心に頼み込んで東京の署に異動することが出来た。仕事でもあいつは周囲に溶け込み、
無難に毎日を過ごしていった。ただ、一つだけ俺には気になっていたところがあった。
どうして、あいつはタクシードライバーを仕事に選んだんだろうと。大学を卒業してい
れば普通の会社員に落ち着くことができるのに、何故そこにいったんだろうと。当時は
行き着くことができなかったが、今なら分かる。あいつは復讐を続けていたんだ。昔に
受けてきた傷への思いをずっと消してなかったんだ。対象は人間ではなく、金。貧乏を
貶され続けてきた過去を蹴散らすために、何不自由のない生活を送れるだけの富を手に
する人生に向かう決断をあいつはしていたんだ。そのためには、しがない会社員として
一生を平凡に暮らしていく道は択べなかった。出来るかぎりの富を築く一攫千金を狙う
人生、その道にその職業は合っていた。現実に、あいつは様々な有権者と関係を持つ事
になった。そして、そこへうまく取り込み、ヘッドハンティングされる事にも成功した。
だが、あいつの前に大きな壁が立った。柴村忍があいつに逆境となる写真を撮り、それ
を週刊誌に掲載すると言い出した。ネガごと処分したらしいから写真の内容はつかめて
ないが、あいつとしてはこんな復讐の半ばで線を断たれるわけにはいかない。あいつは
柴村忍を殺め、その遺体を故郷の山に埋めた。十七人を手にかけた人間にとって、十八
人目に対する迷いは自己制御の範疇にはならなかった。そうして、あいつは新たな犯罪
に手を染めてしまったんだ」
男の人生を言いあげるうち、途中から女の子は涙を流していた。悲しみなのか、憐れ
みなのか、もっと他の感情なのか。その涙の真意は分からないし、あえて聞くこともし
ない。
「あの人は・・・・・・私のせいで」
「それは違う。今回の事件について、あんたに責任などない。これはあいつが独断で
遣った行為であって、あんたが強く心を痛める必要はない」
元々、男が柴村忍に手を掛けた理由はそこではないだろう。おそらく、男が女性から
脅されてたのは久留米雀との関係の写真のはずだ。
だが、彼はそこに関しての言葉は避けた。知らなくてもいい事実を無理に知らせるこ
とは止めておく。どのみち、これだけの真実を突きつけられ、男のところに留まっては
いられないはずだ。
大田恵一の逮捕により、柴村忍の失踪事件に終止符が打たれた。男は女性を殺めて、
さらにそれを山に埋めるという殺人と死体遺棄の罪を重ねた。当然、この事件は報道で
世間へ知れ渡る事になり、関係者たちに激震を与えた。
亀谷からの聴取に対し、久留米雀は男との深い関係について否認を貫いた。柴村忍が
自身で撮影した写真で男を脅した事が事件の原因に繋がったのは調査済みで、その写真
は久留米雀との只ならぬ関係を証明するものに違いない。ただ、女はそこを否定し続け、
男の方もそこについての詳細を一切吐かなかった。現物が廃棄されている今、当人が口
を割らないと前進は難しい。
光村沙耶にも話を聞いたが、ここも否認を貫くだけだった。もとより、こことの写真
が撮られたところで脅されるようなことはないだろう。彼自身も特に疑いを持っていな
かったので、あまり深く突くことはしなかった。ただ、久留米雀も男を単なるマネージ
ャーと言い切ったように、女も男を単なる友人と言い切るぐあいがどうにも腹立たしか
った。女の部屋に男が何度と入っていく姿も、二人で仲睦まじく出かけてる姿も目撃し
ていると言おうとも、単なる友人としか言わない。自分を守ることに必死で、見ていて
無様だった。
それに比べ、片柳彩子は正反対といえる対応に終始した。男との交際を認め、柴村忍
が撮影した男との写真についても自分とのものだと断言した。それによって自分がどれ
だけのものを失うか分かってるはずなのにそこまで為し得る潔さは脱帽に等しいほどだ
った。そこまですることで現実に目を背けず、男との関係をきっぱりと絶とうとしたの
だろうと思った。
世間へと流れた報道では、久留米雀は加害者と仕事上での付き合い、光村沙耶は全く
零れなかった。逃がしてやったわけではない。知らなくてもいい事実を無理に知らせる
ことはない、それだけだ。片柳彩子については、彼女の証言がそのまま世間に流れた。
女の子の記事は社会を賑わせ、周りには常にマスコミがへばりつく日々が続き、右肩上
がりだった人気は急落し、モデルを務めていた雑誌との契約は解除、所属事務所も解雇
され、女の子の芸能人としての地位は消え去った。こんな時、世間というのは冷たいも
のだ。数日間は恰好の餌食として突つきまくり、やがて話題がなくなればあっさり捨て
てしまう。
報道も一段落がつき、世間から次第に事件の記憶は薄れ出していた。亀谷右京は東京
拘置所の側に車を停め、窓を全開にして空を眺めている。雲は流れ、時間は流れ、記憶
も流れ始めている。忘れることなど決してないが、それでも日々は続いていく。新しい
一日は訪れ、そこを生きていかなければならない。十七年間という長い年月を費やして
きたが、ようやく自分も解放される時が来たんだ。
昨日、野木晃彦へと電話を入れた。徳島でも今回の事件は大きな衝撃となっていた。
地元の山へ死体が埋められ、その犯人が出身者だったのだから当然だ。男性は今回の件
について、誰に何を言われようと真実を話さなかった。知らない、分からない、連絡を
取り合ってない、と他人同然に振る舞った。よく知りもしない人間に余計な詮索をされ
ないために。
野木は一度、拘置所に面会に訪れた。その時の男は下に俯き、生気の弱まった病人の
ような印象だったらしい。そこでは男性の方が一方的に喋り、男はそれを聞き続けた。
内容は思い出話がほとんどだったが、大人になってからはそんな話もしてなかったので
新鮮にもなれた。話が一つ落ち着くと、職員から終了の時間の旨を告げられる。特に何
をしに来たわけではないが、実際何も得るものはないのかと思った時、急に男がごめん
と謝ってきた。何について言ったのか分からなかったが、おそらく一連の事件について
総じての謝罪だったんだと思う。男性はそれを笑って払ったが、男の思いは嬉しかった。
男にとって、自分はそんなに大した存在ではないんだろうと思ってきたところもあった
から。
大田恵一と野木晃彦が出会ったのは小学校五年生の時だった。二人はすぐにお互いの
存在を認識する事になる。二人は、共にいじめられっ子だったから。男は家庭の貧しさ、
男性は気の弱さがその原因だった。ただ、二人が絆を深めるシーンというのは中々生ま
れはしなかった。傷の嘗め合いをする気もなかったし、弱者同士が集まると、より負の
パワーが増しそうで嫌だった。でも、男性は男に親近感を覚えていたのも事実だった。
そんな微妙な関係は二年近く続き、まもなく卒業を迎えようとしていた。小学校からの
解放にこれといった意味はない。中学に進んだとしても、自分の立ち位置に期待を持つ
ことなどなかったから。そんな中で行われた卒業間近のキャンプも行事として参加する
程度の思いにしかならない。だが、そこで男性は生涯忘れられない体験を目にすること
となる。皆が寝静まった夜中、同じように眠りについていた男性は体を揺らされて目を
覚ました。目を開くと、そこにいた男は口元に人差し指を当て、喋るなという無言の要
求をしてくる。そこから男の誘導で周りの人間を起こさないように慎重にテントを出た。
時間は分からなかったが、外は暗闇に包まれている。何をするのかと思ったが、男は紙
と着火機を取り出し、おもむろに火をつけた。すると、男はそれを同級生のいるテント
の中へと何度と投じたのだ。男性は目の前で起こっている現実が強烈すぎて、何の言動
も出来なかった。その間にも、男は他のテントにも同じ事をしていった。止めるべきだ
ったが、まだ小学生だった男性は完全に気持ちが竦んでしまい、体は全く動かなかった。
外で寝に入っていた引率の教師が気づいた時にはもう火の手は人間たちを網羅して、何
の手の出しようもなかった。膝から崩れ落ちる教師、現実を拒否する男性、その横で何
の感情にも行き着かないような乾いた瞳をしていた男は恐怖そのものだった。日は経ち、
地元では歴史的な惨劇とされた十七人の犠牲者を出した火事は事故と判断された。当然
に男から口止めを強くされ、夜中に恐くて男に付き添いをしてもらってトイレに行って
いる間に火事が起こってたと男性は主張した。それ以来、男と男性には妙な仲間意識が
生まれた。仲良くはしないが、変な繋がりを感じる関係。近づきすぎず、離れることも
しない。そんな関係がずっと続いていった。
本人に確かめた事はないが、何度と心内に抱いてる事がある。どうして、男は十七年
前の火事の時に自分だけには手に掛けなかったのだろうかと。一人でやった方が実行も
スムーズにいくし、その後の証言などにも手を焼かずに済む。リスクを背負ってまで、
何故そうしたのだろうか。それについて、男と接していくうちに辿り着いたものがある。
男は自分の事を仲間と思ってくれていたんじゃないだろうか、同じようにいじめられて
いる自分に同情してくれていたんじゃないだろうかと。だから、自分には手を掛けなか
ったし、その後にも付かず離れずの距離を持ち続けた。それが男なりの友情だったのか
もしれない。そして、男性もその男の思いに応えていった。男性にとっても、男は人生
で唯一の友達だったから。
同様に、もう一つ心内にだけ留めてる事がある。それは男の幼少期からの知り合いで、
小学校の五年生と六年生の時に同じクラスだった鞘谷のことだ。彼女は自分たちとは違
い、学級内でも中心的な存在だった。正義感が強く、クラスでいじめがあった時に報復
も恐れずにいじめっ子に食ってかかった。といっても、次やったら先生に言うからねと
強めの口調で言っただけだが。それでも、他のクラスメイトはそれも出来なかったわけ
だから彼女の行動は勇気あるものだった。実際、それから学級内でいじめられることも
なくなった。そんな彼女に対しても、男は手を掛けるつもりだったのだろうか。十七年
前のあの火事の日、彼女はインフルエンザで泣く泣くキャンプへの参加を断念する事に
なった。あの日、もしも彼女が病気にならずに参加していたら、男は彼女を十八人目の
犠牲者にしていたんだろうか。何度か心内に浮かんだが、それを聞くことはしなかった。
殺すつもりだった、なんて聞きたくはなかったから。彼女も助けるつもりだった、と勝
手な想像のうちにしておく。鞘谷は男性の初恋だった。同級生の中で唯一自分を助けて
くれた彼女へ淡い恋心を持っていた。決して届かせない、己の中だけで処理させる一方
通行の想い。自分にとっての彼女がそうだったから、同じ境遇にいた男には彼女に好意
を持っていてもらいたかった。
亀谷は姿勢を直し、車のエンジンをかける。これでもう大田恵一に係わることはない
だろう。男は多くを失ったが、一つの確かなものを得られた。友情、それで男は未来へ
歩いていけるはずだ。時間は長く掛かったが、男はようやく人間らしい人生を生きてい
ける。
そう彼は一つ息をつき、車を走らせていく。拘置所前の長い道を走っていくうちに、
一人の人間と擦れ違った。ただの通行人と思って通り抜けたが、すぐに彼は車を停める。
振り返り、後ろ姿をしばらく眺める。彼の思いはどうやら外れたようだ。友情の他に、
もう一つ男には得られたものがあった。
大田恵一は東京拘置所でしめやかに毎日を過ごしていた。心身が萎えてくるのは当然
だったが、それでも芯まで腐ることはない。男には生きていく糧ができたから。これま
では他人の人生なんてどれも同じでちっぽけなものでしかなかったが、やっと心を通じ
合わせられる人間ができた。亀谷から、今回の逮捕によって野木以外の全員が自分から
離れていったものだと思ってもらいたいと言われた。でも、それでいい。たった一人で
あろうとも、大切な存在に気づけたのだから。
今は裁判が始まるのを待つ日々だ。刑の重さは覚悟しなければならないが、命を奪わ
れることはないようだ。柴村忍の殺害については裁判で刑罰の対象となるが、十七年前
の事件については対象外になる。時効が成立しているのもあるが、亀谷がそこに関して
の全ての真実を隠したのだ。男を今まで闇から救ってやれなかった自らへの咎めとして、
男が新たな道を歩むために伏せる事に決めた。
「面会だ」
職員からの言葉に、男は顔を上げる。亀谷からは前回の面会時にこれが最後になると
言われていたし、野木にしても前回の面会から時間がさほど経っていない。それ以外の
人間が来ることも考えられなかったため、疑問を携えたまま男は面会室へと入り、そこ
にいた人物に吃驚する。
「どうして・・・・・・」
自然と漏れた言葉は、ガラス越しに立っていた片柳彩子にも伝わった。
「来ちゃいました」
久しぶりに男を目にできた感動で女の子はすでに涙ぐんでいた。それでもなんとか喜
色を表そうと、精一杯の笑顔を零していく。
「なんで、ここに」
「なんで、って・・・・・・会いたかったからです」
「こんなところに君が来ちゃいけない」
「どうしてですか」
どうしてもなにも、これからの輝かしい未来がある人間が犯罪者に感情を注ぐなんて
あっちゃいけない。
「君は俺から離れないといけない」
「何言ってるんですか。私は離れたりしませんよ」
「君の立場がまずくなる」
突き放そうとする男の言葉に、女の子はかぶりを振る。
「そのぐらいで離れるなら、それだけの関係だったってことです」
その言葉は、今ここにいる二人に投じてるものにも思えた。なら、ここにまで来た女
の子の男に対する想いはどれだけのものなのか計り知れない。
「知ってるだろ。俺は殺人犯なんだ。ただの極悪人だ」
「そんなことありません。あなたはそんなに悪い人なんかじゃない」
「君の事を利用しようとしたかもしれないんだぞ」
「初めて会った時、私の事なんて何も知らないけど助けてくれましたよね。だから、
それが本当のあなたなんです。あなたは優しい人なんです」
かぶりを振る女の子の両側の瞳から涙が流れていく。その健気さの一つ一つが男の胸
を刺していく。
「そういえば、まだ言ってませんでしたよね」
女の子は今出来得る最高の笑顔を見せ、ガラス越しの男を見つめる。
「・・・・・・私、運転手さんのことが好きです」
女の子からの言葉に、男はその場に崩れ落ちた。自分の犯した過ちに、今頃気づいて
しまった。
「私があなたに本当の愛を教えてあげますから」
こんなにも純粋な想いを自分は裏切ってしまったんだ。これだけの無垢な感情に、自
分はなんてことをしてしまったんだ。そう罪に悔いると、とめどなく感情の線を破った
涙が溢れてきた。
「待ってます、ずっと」
片柳彩子への恋情、野木晃彦への友情の他に男が得られたものだった。
これで「黒く滾る炎」は完結となります。
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。




