第3話 選ぶということ
奴隷市場に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
王都の中心部とは違い、ここには整えられた秩序がない。代わりにあるのは、むき出しの欲望と、それに応じて値段を付けられた人間たちだった。
声が飛び交っている。値を吊り上げようとする商人、値切ろうとする買い手、そして沈黙したまま並べられている者たち。そのどれもが、この場所の“当たり前”を形作っている。
エレノアは、その光景を一瞥しただけで歩みを進めた。
足を止める理由はない。
ここに来ると決めた時点で、必要な覚悟はすでに終えている。
「……珍しいな」
すぐに声がかかった。
振り向けば、粗野な服装の商人が腕を組んでこちらを見ている。値踏みするような視線だったが、同時に興味も含まれていた。
この場にふさわしくない客がいる――そういう反応だ。
「何を探してる?」
問いかけは直接的だった。
遠回しな言い方はここでは意味を持たないのだろう。
「人材を」
エレノアは短く答えた。
「条件は?」
「状況を理解できる人間。指示を聞くだけじゃなく、考えられる者」
その言葉に、商人はわずかに眉を上げた。
「それはまた、高くつくぞ」
「構わないわ」
即答だった。
迷いのないその返答に、商人は小さく笑った。
「いいだろう。なら、案内してやる」
歩き出した背中を追う。
市場の奥へ進むにつれて、並べられている人間の質が変わっていく。単純な労働力として扱われる者から、明らかに“別の価値”を持つ者へ。
その中で、エレノアの足が自然と止まった。
一人の男がいる。
鎖に繋がれ、膝をついている。だが、その姿には奇妙な違和感があった。
崩れていない。
力を失っているはずなのに、姿勢は保たれている。呼吸も乱れていない。周囲の喧騒にも反応していない。
そして――目。
伏せられているが、完全に落ちていない。思考が残っている目だった。
「……あいつか」
商人が口を開く。
「元は貴族だ。潰れた家の出でな。まあ、扱いづらくてなかなか売れねえ」
「扱いづらい?」
「従順じゃないって意味だ」
それを聞いて、エレノアはわずかに口元を緩めた。
好都合だ。
ただ命令を聞くだけの人間は、長くは使えない。状況を理解し、自分で判断できる者の方が価値は高い。
「名前は」
問いかける。
男は一拍置いてから顔を上げた。
視線が交差する。
その瞬間、確信する。
――使える。
「レオン」
短い返答。
無駄がない。
「元は?」
「……聞く必要があるか」
逆に問われる。
わずかに間を置き、エレノアは頷いた。
「確認よ」
沈黙。
やがて、低く答えが返る。
「貴族だ」
予想通りだった。
ならば、話は早い。
「いくら」
価格を聞き、すぐに判断する。
確かに高い。だが、それだけの価値はある。
エレノアは迷わず支払いを済ませた。
鎖が外される音が、乾いた響きを残す。
それでもレオンはすぐには動かなかった。
立ち上がることもせず、ただエレノアを見ている。
「……なぜ、私だ」
当然の問いだった。
なぜ自分を選んだのか。なぜこの状況で買われたのか。
エレノアは一歩だけ近づく。
距離は最小限に。だが視線は逸らさない。
「生きるためよ」
簡潔に答える。
「私はいずれ、この国を離れる」
その言葉に、レオンの目がわずかに動いた。
完全には理解できない。だが、ただの気まぐれではないと感じ取ったのだろう。
「その後も生きるために、お前が必要になる」
続ける。
「主従ではない。契約よ」
はっきりと言い切る。
「働いた分だけ対価は払う。結果を出せば、自由も与える」
沈黙が落ちる。
短い時間の中で、レオンは考えている。
条件の妥当性。自分の状況。選択肢の有無。
そして――未来。
「……いいだろう」
やがて、低く答えた。
「その条件なら、受ける」
それで十分だった。
エレノアは踵を返す。
「行くわよ」
短く告げる。
背後で、鎖の名残が小さく鳴る。
だがその音は、すぐに消えた。
足音が続く。
契約は成立した。
それ以上の確認は必要ない。
市場の出口へ向かいながら、エレノアは次の手を思考する。
人材は確保した。
次は拠点。
そして、流れを作る。
すべては、積み上げだ。
急ぐ必要はない。
だが、止まる理由もない。
外へ出た瞬間、空気がわずかに軽くなる。
だがそれは、ただの錯覚だ。
本当に軽くなるのは、まだ先の話。
エレノアは足を止めずに言った。
「まずは、小さく始める」
背後の気配が静かに応じる。
「だが、確実に積み上げる」
それが、この計画のすべてだった。
やがてその積み重ねは、流れとなる。
流れは、支配へと変わる。
そしてその時。
この国はようやく理解する。
自分たちが、何に依存していたのかを。




