第1話 思い出した結末
最初に崩れたのは、音だった。
誰かが息を呑む気配。衣擦れ。遠くで鳴る靴音。それらがゆっくりと引き剥がされていき、やがて大広間には、妙に澄み切った静寂だけが残る。
その中心に、私は立っていた。
逃げ場はない。見上げる先にあるのは、天井を支える柱と、飾り立てられた装飾。そして、それらと同じくらい冷たく整った、人々の視線。
どの顔にも、迷いはなかった。
すでに結論を知っている者の顔だ。
「エレノア・ヴァルディエ」
呼ばれた名に、わずかに背筋が強張る。
正面に立つのは、第一王子。婚約者であり、そして――これから私を切り捨てる人物。
その表情に感情はない。怒りも、悲しみも、ためらいも。ただ、手続きを進める者の顔をしていた。
「お前との婚約を、ここに破棄する」
ざわめきが起きる。
だがそれは驚きではない。確認だ。形式をなぞるための音に過ぎない。
続けられる言葉も、知っている。
嫌がらせ。傲慢な振る舞い。貴族としての品位の欠如。どれも単体では致命的ではないが、重ねられることで逃げ道を消す“理由”になる。
視線が、私からゆっくりと逸れる。
王子の隣に立つ少女へと。
柔らかな光をまとったような存在。控えめに伏せられた視線。だがその奥に、わずかな安堵が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。
――ああ。
ここまでか。
胸の奥に広がるのは怒りではなかった。むしろ、妙な納得に近い感覚だった。
これは感情のもつれではない。
構造だ。
小さな出来事を拾い上げ、形を変え、積み重ねる。証言と証拠を揃え、誰もが疑問を抱かない形に仕上げる。
その結果が、今ここにある。
やがて宣告は、より決定的な形を取る。
――国外追放。
――私財の持ち出し禁止。
それは単なる罰ではない。社会的にも経済的にも完全に切り離し、二度と戻れない場所へ押し出すための処分だ。
そこで、意識が途切れた。
*
「――お嬢様」
低く、控えめな声が耳に届く。
現実に引き戻される感覚とともに、視界がゆっくりと開く。目に入ってきたのは、見慣れないはずの天井だった。白を基調とした装飾、均整の取れた意匠、そして静かに揺れる光。
身体を起こすと、柔らかな寝具がわずかに音を立てる。
ここがどこか、理解するのに時間はかからなかった。
エレノア・ヴァルディエの部屋。
そして、自分がその身体にいるという事実。
記憶はすでに馴染んでいる。名前、家柄、周囲との関係、そして――先ほど見た未来。
すべてが矛盾なく繋がる。
「……夢、ではないわね」
呟いた声は、思っていたよりも静かだった。
驚きはある。だが混乱はない。むしろ思考は驚くほど整理されている。
目の前にあるのは、ほぼ確定した未来だ。
断罪。婚約破棄。追放。
そして、すべてを奪われるという結末。
「ご気分はいかがでしょうか」
控えていたメイドが、慎重に言葉を差し出してくる。
その声音は丁寧だが、どこか距離がある。完全な忠誠ではない。かといって露骨な敵意でもない。
――扱いづらい主人。
そう認識されている空気だった。
「問題ないわ」
短く答えると、メイドはわずかに安堵の色を見せたが、すぐに引っ込めた。
その反応が、すべてを物語っている。
エレノアは好かれていない。
だからこそ、断罪が成立する。
視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。
回避は可能か。
一瞬だけ考える。
だが、その思考はすぐに切り捨てられた。
あの場にあったのは、単なる誤解ではない。積み上げられた“認識”だ。証拠と空気が揃った時点で、個人の努力では覆らない。
ならば――
選択肢は一つしかない。
受け入れる。
そして、その先で生きる。
立ち上がり、窓辺へと歩く。カーテンに手をかけて開けば、朝の光が室内へ流れ込んだ。
王都が広がっている。
整えられた街並み。動き始めた人々。穏やかに見える光景。
だが、この場所もいずれ自分とは無関係になる。
すべてを奪われるのだから。
「……なら、先に用意するだけ」
自然と結論に至る。
奪われることが確定しているなら、その前に別の基盤を作ればいい。
必要なのは、金と流れだ。
この国の経済は歪んでいる。流通は遅く、情報は偏り、利権が絡み合っている。その歪みは、同時に隙でもある。
そこに入り込めば、利益は生まれる。
そして、それは生存手段になる。
「今日の予定は」
振り返らずに問いかける。
メイドが一瞬だけ戸惑い、すぐに答えた。
「本日は特に外出のご予定は――」
「ならちょうどいいわ」
言葉を遮り、続ける。
「この家の取引先、分かる範囲でまとめて頂戴。急ぎで」
沈黙が落ちる。
背後で、空気が変わるのが分かる。
当然だろう。これまでのエレノアが、そんなことに関心を持つはずがない。
「……かしこまりました」
戸惑いを残したままの返答。
それで十分だった。
再び外へ視線を向ける。
流れを掴めば、すべては変わる。
物資も、金も、人も。
その中心に立つことができれば、追放など問題ではない。
そして。
その時が来たなら――
窓ガラスに映る自分の姿を、静かに見つめる。
これは復讐ではない。
怒りに任せて壊すつもりもない。
ただ、帳尻を合わせるだけだ。
「……精算する」
小さく呟く。
誰にも聞こえない言葉。
だが、その意味は重い。
選んだのは向こうだ。
ならば、その結果を受けてもらう。
静かに、確実に。
そのための準備は、もう始まっている。




