七十八話 伝説の触手
見たくないものを見た。
何故、気が付かなかったのか。
気が付いていても、予定を変更することは出来なかった。
とはいえ、町の状況で、少しは考えが及んでいたってよかったはずだ。
予期せぬ事が起こるのは嫌いだ。
なのに、考えることをまたしても放棄していた。
というよりも、時が経つほどに気が緩んでいっている。
自分を殴りつけたかったが、それでこの状況が変わるわけでもない。
なるべく無視だ。
いや、考えろ。
俺が良くても、向こうが大人しく無視されていてくれると思うか。
出来ることは、精々心の準備だけだが、気合を入れる。
それは、船室へ向かうところだろう客と、擦れ違ったときのことだった。
その客は、白黒の二人組みだった。
最も会いたくない二人だ。黒い制服の軍の髭面と、白い制服の祖国の残党である女騎士。
どうせ避けられないのならばと、足を止めて相手の出方を待った。
目が合った。
俺は睨んでいただろう。
だが俺の気構えに対して、相手は苦笑を残し、去っていった。
俺は肩透かしを喰らって呆然としつつも、姿が見えなくなると安堵した。
自意識過剰だっただろうか。
さすがに、俺を追うために仕事を放って国を出ることはないだろうから、別の目的だとは思う。
海向こうの国々との交渉事。
それに見合った地位と理由が、あいつらにはあるな。
いきなりどっと疲れが襲ってきた。
「おい、遅れるな。仕事はこっちだぞ」
今日のところの相棒が、通路の曲がり角を戻ってきた。
何度もこの仕事をしている経験者で、今回は新顔の監督も含まれているだろう。
仕事に集中しようと、気持ちを切り替えて、相棒の後を追った。
その日の午前中は、船内の巡回で終わった。
巡回経路を覚えろよってことだろう。
一応、前日に仕事内容の説明や、船内の案内は受けたが、実際に出港してしまうとまた違った雰囲気がある。
閉塞感というか、そこまで大きな船ではないが、積荷に埋まった船倉の合間を縫って歩いていると、迷路のようだと感じる。
荷崩れはないか、縄はしっかり固定されているかなどを確認して回る。
不審者がいないかを見て回るのも、含まれているようだ。
俺達だけでなく、二人組みと定期的に擦れ違った。
一定間隔で常に見回っているようだ。
それは、俺のような新人への警戒もあるのかもしれない。
盗賊かというよりは、怠けていないかって方を心配されているようだった。
そう考えると、一瞬とはいえ朝の遅れは失敗だった。
「で、ある日はよ、妙な物音がするって、箱を開けたら兎が大量に飛び出して、追っかけて連れ戻すのに一苦労したよ――」
相棒は、暇つぶしなのか、船内の珍事件を一人話し続けていた。
聞くともなしに相槌を打ちつつ、真面目に仕事に取り組んだ。
休憩は交代で取る。
昼飯時になり、その僅かな自由時間に、甲板に上がることにした。
商人達も、昼頃は上にいると言っていた。
見回すが、さほど人は出ていない。
女が船の縁に顎を乗せて緩みきっているのが見えた。
日を遮るものもないし、気持ちは分かるが溶けるぞ。
「一人か」
近付いて声をかけた。
「食べ終わったから、符を作るって部屋に戻ったよ」
女は相変わらず海を眺めているようだった。
だが、その視線はどこか遠くではなく、真下の方へ向けられている。
何見てる。
水面に視線を落とすと、時折、波間に浮かび上がる鱗が光を反射する。
「まだ食い足りないのか」
「んー良いお天気だし、伝説の怪物とか出てこないかなーって」
不吉なこと言うな。
「海賊の方がまだしも信憑性がある」
「そんなただの人間なんて、出てきても面白くないよ」
面白いとか面白くないとかいう話かよ。
「他人を巻き込むようなことを妄想するな。そんなの精霊溜りだけで十分……」
思わず言ってしまって、躊躇う。
あんまり昔の事を思い出させるようなことには、触れない方がいいだろうか。
女が鼻でせせら笑った。
「うじうじ虫が人に気を使うなんて、保存食十年分早いよ」
それは、悔しがればいいのかどうなのか。
食い意地だけは変わらんな。
どのみち、この世界に生きている以上、避けては通れないことだ。
「それで、伝説の怪物ってなんだよ」
「えーそこから」
呆れて言っているが、お前の知識は物騒な方向に偏っている。
そんなもんは知らなくていい。
「私も、港町で聞いたんだけどね」
お前も知らなかったんじゃないか。
途端に女は目をぎらつかせた。
暗闇に篝火が二つ揺らめいているようなぎらつかせ方だ。
これは、嬉しい時の癖のようだった。
知らずに見たら、脅されていると思うだろう。
口の端を上げて嗤いながら話し始めた。
「でっかい縄みたいな足を何本も持っていて、船を締め上げて真っ二つにするらしいよ!」
なんという子供騙し。
安易に船や海に近付くなとでも、教訓を込めて話されてるんだろう。
そんなもん信じるなよ。
しかし、縄みたいな足か。
「そういやポトラン焼きってのを食わされたが、あれがそんな感じだったな。紐みたいな足が何本もあっ、てえっ! 離せ!」
女に胸倉を掴まれていた。
その目のぎらつきは一層増している。
「食べたの。伝説の怪物を? なんで教えてくれなかったの!」
知るか!
こめかみを掴んで押しのけ、どうにか引き剥がす。
ただでさえ擦り切れているシャツが千切れるところだったろ。
「くっ、こんなやつに遅れを取るとは……不覚!」
よく分からない言い回しで悔しがっている。
そういや、大量に干物を貰ったな。
「あーもしかしたら貰った干物の中にあるか、もっ、落ち着け!」
また組み付きそうになる女から飛びのく。
「探しておくから。無くても文句いうなよ」
「さあ早く、暗くじめじめした船底を這い回ってきてよ」
それが人にものを頼む態度か。
面倒だから仕事に戻ろうかと振り向いたところへ、嫌な姿が視界を横切った。
「良かったな、不吉なもんが近付いてきたぞ」
女が、俺の示す先へ視線を向ける。
髭面だった。
そうだった。
この件について、伝えようと思っていたんだった。
「あいつらが乗っていたと、言いにきたんだよ」
なるほどと女は頷いた。
「後で、ユリッツさんにも伝えておく」
俺は奥歯を噛み締める。
女にとっては、他人事だ。緊迫感はない。
髭面は、声が届く程度の距離で足を止めて言った。
「どうせ逃げ場もないんだ。ゆっくり話そう」
御免だ。
こんな状況で、後一週間は乗っていなくてはならない。
「お偉いさんと違って、暇はない。仕事で乗ってんだ」
実際、そろそろ戻らないとまずい。
その場を離れる俺の背に、髭面の声が投げかけられた。
「こちらのことはいいが、彼女の話は聞いておくべきだ」
それを無視して船内へ戻った。
あの、女騎士の話。
何を聞くことがある。
鉱山で無理やり聞かされたことだけで十分だ。
そして俺の結論は、聞くに値しない。
やはり、女騎士と国の思惑は別なんだろうな。
髭面は、こちらのことはいいと言った。
俺に用はなくもないが、優先順位は高くない。
その理由と言うのも、女騎士の言い分を元にしているからではないのか。
いや、国が個人の言葉だけで、動くとも思えない。
そうだった、全てが動きだしたのは、元老院の宣託によるもの。
ならば、女騎士の言い分を担保するものが、元老院にあるのか。
「ぼけっとしてると樽に詰めて流すぞ」
鋭いな。
それともそんなに俺は顔に出易いのか。
考え込んでいるのを相棒に察知されていた。
頭から余計な考えを払いのけ、目の前の仕事に集中する。
棒に布を取り付けたような箒で、床の掃除に身を入れた。
晩飯時の休憩時間は、商人たちの船室を訪れた。
干物の箱を漁ったら、本当に干からびたあの得体の知れない生き物が入っていた。
覚えていたから、持っていったが失敗だった。
「懐かしいな」
漁村育ちの商人は、特に感動もなく受け取った。
だが懐かしいというからには、他の町では見られない珍しい食べ物なんだろう。
「おお、その異形はまさに怪物……」
女はふらふらと近付いたかと思うと、俺の手から串をひったくって齧りついた。
俺が食べたポトラン焼きとやらは、生のまま焼いたもので、弾力はあったが柔らかかった。
この干物を炙ったものは、噛みきれない程に硬くなっている。
料理人に、そういう食いもんだと言われた。
「うーん、革を食べてるみたい」
そんなことを言いながらも、満足気に顔を輝かせていた。
髭面達の話どころではなくなっていた。
腑に落ちない。




