第89話_留守番二人
ゆっくりと引かれた弦が弓をしならせ、数秒の静止の後に大きな音と共に元の形へと戻る。同じリズムで繰り返されるその音に雑音らしい印象は無く、同じ部屋で読書をしているナディアの意識を少しも邪魔することは無い。しかし時計を見た彼女は次に弦が放されたタイミングで、それを止めた。
「ラターシャ、そろそろ一時間よ」
「え、もうそんな時間?」
再び弦を引く動作に入りかけた彼女は、同じ時計を見上げて、やや脱力する。名残り惜しそうに弦を指先で弄った。
「はあ、集中しちゃうとすぐだなぁ」
弦を持たずに引く動作だけを空中で行った後、改めてラターシャは弓を部屋の端へと置いて稽古を終えた。肩を回し、柔軟を始めながら部屋を見回す。ナディア以外には誰も居ない。ラターシャが部屋で稽古をする時は必ず部屋の奥、扉とは逆側の端で行う為、誰かが部屋を出入りしても気付かないことが多いものの、誰も居ないことには少なからず驚きがあった。
「みんなは?」
「装飾品店に行ったわ。前からルーイが行きたいって言っていたところ」
「ああ」
その話自体には覚えがあった為、ラターシャは軽く頷く。あまり飾り物に興味が無い上、稽古中であったラターシャに声が掛からなかったことは不思議じゃない。ただ、此処にナディアが一人で残っていることに、少しの違和感があった。ルーイの外出時には、傍に付いていることが多いのに。
「あの、もしかして私の為に残ってくれた……?」
恐る恐るそう尋ねるラターシャに、ナディアは軽く視線を上げたが、無表情のままで再びそれを本へと落とす。
「私も偶にはのんびり本を読んで過ごそうと思って。贅沢な時間よね」
基本的にナディアはほとんど表情を変えることは無く、口調も抑揚が少ない。ともすれば冷たくも映る反応だったが、ラターシャはもうすっかり彼女の優しさを知ってしまっている。ありがとうを返されることも望まないだろう彼女の気遣いに、心の中でだけ感謝を述べて、「そっか」と答えた。
「ああ、これ? 魔法の初級編よ」
柔軟を終えたラターシャが、近くを歩いた時にふとナディアの本に目を向けると、視線に気付いたナディアは顔を上げてそう答える。アキラが最初に買った本だ。読み終えたものを借りているらしい。
「ごめん、つい覗いちゃって」
「いいのよ、私はね。でも覗いた方がダメージを受けないようには保証できないから」
「そうだよね……気を付ける……」
魔法の初級編について書かれた本を見て受けるダメージなど誰にも無いが、ナディアが普段読む本については話が違う。彼女は怪奇などの怖い話を好む傾向にあり、アキラを除けば誰もその分野には耐性が無かった。つまりナディアの読む本を覗き見ることは、ナディア以外の人間にとっては自傷行為のようなものだ。今ラターシャがつい手元を見たのも、怖いと思うが故に「また怖いものを読んでいるのかな」と窺ってしまっただけだろう。
「初級編と言っても、知らないことが沢山あって面白いわね」
「うん、私も読んだ時そう思った。小さい頃から当たり前だと思ってたから、ちゃんと勉強してまで知ろうとしていなかったなぁって」
「そうよね」
彼女達にとって『魔法』というのは、目にすることこそ珍しいものの、存在や知識についてはそうではない。娼館の出であるようなナディアでも、アキラに説明できる程度の魔法の知識があることから分かるように、一般常識としてそれは知れ渡っている。その為だろうか。アキラが本当に欲しかった『一般常識』はこの本から得られず、歴史などについてやけに多く触れてあって、ナディアやラターシャにとっても目新しい情報が多分に含まれていた。
「けれどアキラのあの記憶力は、『一切の知識が無かった』からの吸収力とは違うんでしょうね」
溜息を混ぜながらそう呟くナディアに、ラターシャも苦笑いで頷く。
アキラはまず、本を読むのが異常に速い。それは元の世界では広く『速読術』として知られている技術の一つではあるが、彼女らはそのようなものに触れたことが無かった為、最初は魔法の一つかと疑っていたくらいだ。ある意味では、スキルの一つではあるだろうけれど。
次に、アキラは一度読んだ本のほとんどを記憶している。勿論、読んだものなのだから内容を把握していることは当然だが、軽く触れられている程度の魔法名や人名までも一切の例外なく覚えており、時にはページ数まで言い出すものだから、ラターシャ達も知った時は一様に驚愕していた。
「異様に多才だし、きっとアキラは元の世界でも相当、優秀な人だったはずよ」
「……そんなアキラちゃんを、『奪って』きたんだよね、この世界は」
「考えるほど、とんでもないことだわ」
救世主という言い伝えはとても有名なのに、二人はそんな観点でこの言い伝えを考えたことが無かった。異世界から召喚された救世主様が寂しくないようにと此方の世界の人間が様々に関わった物語は多くあるけれど、『奪ってきた』という感覚が、何故か抜け落ちている。
此方の世界に例えれば、ウェンカイン国王が突然、消えてしまうようなもの。前触れなく国王を失った国はどれほど荒れるだろうか。アキラの国は王政ではないと言っていたし、彼女は間違いなく平民であるらしいのでこれは極論だけど、アキラを奪われたことによる影響は少なからず向こうの世界に出ているはずだ。
「私達は此方の世界の人間だから言えた口じゃないけれど。アキラの怒りは自然だわ」
ただし、彼女が語る怒りのエピソードの最後は必ず「沢山の女の子に囲まれるはずの休暇が奪われた」で締め括られる。それがアキラの怒りの本当の理由かどうかはよく分からない。アキラならば有り得ると思う一方で、アキラだからこそ、軽薄な話で誤魔化していることも充分に考えられた。
「アキラちゃんは本当に、戻れないのかな」
城の者に『戻れるか』を問い掛けた時、問われた者達が口を閉ざしたことは、ラターシャ達も聞いていた。だが、誰かが明確にそれを答えた話は知らない。つまりラターシャは、城の者が知らないだけで、本当は何処かに戻る手段が存在しているのではないかと考えている。けれど、ナディアはその考えに、少し難しい顔を見せた。
「アキラがその可能性に気付いていないとは思えないわ。それでも、私達を使って確認しようともしない」
真偽のタグを使えば、相手が城の者でなくとも確認できる。しかしアキラがそれを試そうとしたことは一度も無い。真実を知って絶望するのが怖い、と考えている可能性もあるだろうが、ナディアはそうではないと感じている。
「アキラは、私達を生涯養っても良いと言っていた。誠実な性格ではないけれど、守れない約束をする人ではないわ。まるでもう自分がこの世界で一生を終えると確信しているみたい」
「……じゃあ、もしかして」
「ええ。何らかの方法で、既にアキラは確認しているんじゃないかって思うの。そして戻る方法が無いことを、知ってしまっている」
語られる予想に、ラターシャはまるで自らが傷付けられたかのように悲痛な表情で俯いた。




