第二章 五話
大魔王とマルコが壺の分類を終える頃には、城の中にあふれていた物は少しずつ整頓されていた。
磨き上げられた壁や床、長く閉ざされていたガラス窓も、久しぶりに光を受けて美しく輝いている。
ウンディーネたちが洗い上げた壺を、バンシーが泣きながらひとつずつ飾っていく。
青白く澄んだ清浄なマナが壺の中に満ち、淀んでいた城の空気が、軽くなっていった。
「お義父さん、お義母さんを呼び戻す前に、お風呂に入ってくるッスよ」
「う……うむ。髪もぼさぼさであるからな」
「父上、服も一番の勝負服にするのじゃぞ。母上を惚れ直させねばならぬからな」
「分かった」
いそいそと湯浴みに行く大魔王の背中を見ながら、フィニアがため息を吐く。
「どうしたッスか?」
「……いや。我らも整理をせねばならぬな」
「妻さんがそんなこと言うなんて、珍しすぎて、空から天使でも降ってきそうッスね」
「魔界に天使を降らせるでない。あとお主、『妻さん』と呼ぶのをやめいと言うに」
「じゃあ、妻さんも俺のこと『お主』呼びやめるッスよ」
ぐっとフィニアが言葉に詰まった。
「それに、どう呼ぶッスか」
「それは……」
しばらく見つめ合っていたが、二人とも同時に真っ赤になった。
「い……今は父上の方が先じゃ」
「そ、そうッスね」
「逃げたわけではないぞ」
「ウッス」
「本当に分かっておるのか?」
「妻さんが可愛いのは分かってるッス」
「だから、そういうところじゃと言うとるのじゃ!」
フィニアは真っ赤な顔のまま、マルコのエプロンを軽く引っ張った。
大魔王が身なりを整えて、二人のもとへ戻ってきた。
「わぁ、強そうッス」
「父上。それ、勇者を迎え撃つ装備であろう?」
「そうだ。妻は以前、この姿をたいそう褒めていたからな」
「変な夫婦じゃ」
「人間界には、割れ鍋に綴じ蓋って言葉があるッス」
「マルコ様ト、フィニア様モタイガイ……」
言いかけたオークは、デュラハンに肘でつつかれて口をつぐんだ。
精霊界へ通じる妃の部屋の前で、大魔王は姿勢を正した。
世界を震わせた大魔王は、勇者を迎え撃つような装いで立っている。
けれど、その手はわずかに震えていた。
バンシーが泣きながら扉に取りすがり、妃へ呼びかける。
「お妃様ァァァ!! ドウカオ戻リヲ!! 大魔王城ハ美シク生マレ変ワリマシタ……!!」
全員が息を呑んで見守る中、扉がゆっくりと開いた。
清らかな風が、部屋の奥から流れ出す。
その風に乗って、かすかな花の香りが広がった。
扉の向こうから姿を現したのは、長い銀色の髪を持つ美しい精霊だった。
引き込まれるような金色の瞳に、赤い唇。薄く微笑むその姿は、魔界の淀んだ空気の中に差し込む光のようだった。
「我が妃よ……!!」
大魔王の声が震えた。
精霊の妃は、磨き上げられた廊下と、清浄なマナをたたえた壺、そして髪を整え、背筋を伸ばした大魔王を静かに見つめた。
「見ておりました。精霊の水晶越しに、あなたがたのことを」
大魔王は、ぐっと息を詰めた。
「では……この城がどれほど酷かったかも」
「ええ」
「私がどれほど愚かだったかも」
「ええ」
妃はほほ笑みながら、大魔王の顔へ両手を差し伸べた。
大魔王は、まるで救いを得たように目を潤ませる。
バチコーン!!
大魔王の両頬が勢いよく叩かれた。
全員が、痛そう、というように片目を閉じる。
「良いですか? このお城が再び大魔汚有城などと呼ばれることになったら、今度は離婚ですからね?」
透き通るような笑顔に、全員が震え上がった。
「は、はい……」
世界を震撼させた大魔王は、両頬を赤くしたまま、小さくうなずいた。
妃はくるりとマルコとフィニアの方へ向き直った。
「あなたがフィニアの伴侶ですか?」
「はいッス。掃除夫のマルコッス」
「よくまあ、汚城製造機の娘と結婚しようと思いましたね」
「俺、掃除洗濯が命ッス。妻さんが汚したら掃除できるから、毎日楽しいッス」
「お主、それ以上喋るでないわ」
フィニアが慌ててマルコの口を止めようとする。
妃は、そんな二人を見て、にこりと微笑んだ。
「フィニアも相変わらずなのね。そういうところばかりお父様に似たのだから」
「ごめんなさいなのじゃ……」
フィニアは小さくなった。
「今回は、この婿殿の働きに免じて戻って来ましょう。また汚城にしたら……分かっていますね?」
全員が、こくこくこくとうなずいた。
「あとひとつ、片づいていない問題があるようですね」
「えっ?」
マルコとフィニアは周囲を見回した。
どこもかしこも掃除され、問題らしきものは見当たらない。
しかし魔物たちはお互いに気まずそうに目配せし合っていた。
「あの、妻さん?」
「なんじゃ、お主」
妃がにこりと微笑んだ。
「それです」
「えっ?」
二人はまだ分からないというように、お互いを見た。
「夫婦問題に外野がとやかく言うものではありませんが、それを片づけないと、すっきりしませんね」
「……夫婦、問題?」
マルコとフィニアが、そろって首を傾げる。
「そうだぞ。フィニア、マルコよ。夫婦はお互いを『お主』とか『妻さん』とは呼ばぬ」
「あなたも、私の名を呼ぶまで三年かかりましたけれどね」
マルコとフィニアは、しばらく固まっていた。
やがて、同時にぼんっと真っ赤になる。
「つつつつ妻さんは妻さんッス!!」
「はははは伴侶をお主と呼んだって……」
「ダメです」
妃の静かな一言に、二人は同時に肩を跳ねさせた。
「愛しているなら、お互いに名前でお呼びなさい」
「「ああああ愛……!?」」
マルコとフィニアが、そろってあわあわする。
「マルコ様、男ヲ上ゲルデス!!」
「頑張ルデス!!」
「姫サマ、人間ナゾ『オ主』デ良イデス!!」
「お黙りなさい、リッチ」
マルコも、フィニアも、そろって「あー」とか「うー」とか言っていたが、やがてマルコが覚悟を決めたように両手をぐっと握った。
長い前髪の向こうで、カッと目を見開く。
「フフフフフィ、フィ、フィニアさんッ!!」
「はははははいッ!! マルコさんッ!!」
二人はぴたりと止まったあと、ぜえぜえと息をした。
「ま、今は『さん』付けでもいたしかたないだろう」
「そうですね。あなたのヘタレに比べたら、この子たちは優秀ですわ」
「ぐっ……」
「母上……」
「夫婦は少しずつ整えていけばよいのです。城と同じようにね」
「はいッス」
こうして大魔王の妃が戻り、磨き上げられた大魔王城は威厳を取り戻したのである。
後日、大魔王夫妻は人間界の風習にならい、マルコの実家へ挨拶に向かった。
その結果、人間界は上へ下への大騒ぎになったという。
─ 終 ─




