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第7話 ナナミ〔木口の手帳〕

 会議の終盤、木口は手帳を出した。今週の予定欄に、現場の準備作業の項目をいくつか書き込んだ。資材の搬入日、初期測量の予定日、現場小屋の設営日——順番に書いていった。書きながら、来週以降の欄も、確認した。


 三週間先の水曜日に、約束があった。六月の最初の水曜日。ピアノ発表会。娘の名前——ナナミ——の、初めての発表会だった。


 手帳の水曜日の欄に、すでに「ピアノ発表会」と書かれていた。妻からのリマインドの電話で、先週、書いたものだった。現場の調査が六月から始まる。現場初日は六月七日の水曜日。発表会と重なる。


 木口は、発表会の日程を最初は別の欄に書き写そうとした。しかし、書きながら、手が止まった。現場の準備で、発表会には行けないかもしれない、と思った。行けないかもしれない——という見通しはこれまでにも何度かあった。妻は理解してくれる。娘も、まだ六歳だが、父親の仕事については、ある程度、理解している。


 しかし、初めての発表会だった。木口は手帳に、現場の予定の隣に別の文字列を書いた。「ナナミ 水曜 ピアノ 忘れない」。


 書いた。


 書いた瞬間、その四つの語が自分への命令として書かれた。「忘れない」というのは、自分への命令だ。記録ではない。自分への命令。


 木口は書いた字を、しばらく見た。書いた事実が手帳に残っていた。会議室の他の出席者は誰もそれを見ていなかった。誰も見ていなかった、と木口は思った。


 しかし、野田は見ていた。野田は木口の隣に座っていた。木口が手帳に何かを書く姿は視界の端に入っていた。書いている文字までは、見えなかった。ただ、木口が「四つの語」を、丁寧にしかし速度の遅い字で書いている姿だけが見えた。


 書いている木口の手がわずかに揺れていた。書きながら、何かを「思い出している」ような動作だった。野田はその動作を自分の野帳に書かなかった。書く理由がなかった。


 しかし、後で、その動作を思い出すことになる。木口主査が現場で消えた、七月二十二日の後、野田は会議の日の木口の動作を、思い出した。手帳に「ナナミ 水曜 ピアノ 忘れない」と書いた手の動作。書きながら、何かを思い出していた手。


 その動作の意味を、野田は何度か考えそうになった。しかし、考えることを判断にしなかった。

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