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第一話「新しい看板と夜の学校」

とある喫茶店の奥まった席で、青年が一人、文庫本を読んでいた。

店の隅には、長いあいだ誰も弾いていなさそうなアップライトピアノが置かれている。


「おーい!凪!物件何個か見繕ってきたぞ!ここなんかどうよ。日当たりは微妙だけど、ちょい入りにくそうな感じ、探偵事務所っぽくねぇ?」


大量のチラシを抱えた派手なシャツの男、大牙が文庫本を読む青年に声をかけた。


凪はしおりを挟んで本を閉じると、テーブルの端に置かれたコーヒーを一口飲んだ。


「あぁ、事務所だったらここ買ったから」


「……ここ?」


「うん。この喫茶店。マスターと看板モルモットごと」


「え!? ここ喫茶店だけど!?」


「まぁ、そういうわけだからさ、大牙。看板に探偵事務所って書き足しといてくれる?」


「いや俺かよ! 業者頼めよ!」


「ここの維持費もかかるから、お金かけられないんだよね。だからよろしく」


「買う金はあったのに!?」


「それとこれとは別」


「別かぁ……?」


大牙はしばらく看板と凪を見比べていたが、やがて大きくため息をついた。


「ちっ……しゃあねぇなぁ」



翌日、店先の看板には、少し不格好な文字で、こう書き足されていた。


看板「喫茶モルモット兼探偵事務所」


その看板のすぐ近く、店内の窓際には小さなモルモット用スペースがある。


中では看板モルモットのたまこが、昨日と変わらぬ顔で牧草を噛んでいた。


おそらく、店が探偵事務所になったことには気づいていない。



数日後。

カランコロン、とドアベルが鳴った。


「あのー、表の看板に探偵事務所って書いてたんですけど〜……」


入ってきたのは、ゆるくまとめた髪に、少し困ったような笑顔を浮かべた女性だった。


「あれ! すみちゃん先生じゃん! 何かあったの?」


カウンター近くにいた大牙が、ぱっと顔を上げた。


「あれ、もしかして探偵さんって大牙くん? 久しぶりねぇ〜」


すみちゃん先生と呼ばれた女性は、大牙に声をかけつつ、奥のテーブル席に腰を下ろした。マスターにアイスコーヒーを注文すると、ほっとしたように息をつく。


「元気してた?」


「元気だけが取り柄だからな! んで、どうしたの? 相談?」


大牙は向かいの席に腰掛け、いつもの調子で笑った。


「いやぁ……ちょっとね。こんなこと探偵さんに頼んでいいのか分からないんだけど……あなたなら大丈夫かな」


「どうしたのよ」


「うちの小学校の音楽室でね……夜中にピアノの音がするって噂になってるのよ」


大牙の笑顔が、少しだけ固まった。


「……夜中に?」


「そう。私一人で見に行くのもちょっと怖いし……頼めないかしら? ちゃんと許可は取っておくから」


「いやいやいやいや! そういうのは探偵じゃなくて神社とか寺とか、そういうとこの管轄でしょ! もしくは他の先生に頼みなよ!」


「先生たちは忙しくてね……さすがに頼めないのよ。それに話しても、ただの噂ですからって言われちゃって。でもね、この間忘れ物を取りに行った子が『誰もいない音楽室でピアノが鳴ってた』って泣いちゃってね……放っておけないのよ」


「いやいや無理無理! 管轄外!」


大牙が両手で大きくバツを作った、その背後で、本を閉じる小さな音がした。


「分かりました、受けましょう」


いつの間にか大牙の後ろに立っていた凪が、静かに答えた。


「いや、いつからそこで話聞いてたんだよ!」


「『あれ? すみちゃん先生じゃん』の辺りから」


「いや、ほぼ最初じゃねぇか!」


凪は大牙の抗議をさらりと流し、すみちゃん先生の方を見た。


「とりあえず、いつ頃行けばいいですか?」


「あら? よく見たら凪くんじゃない!受けてくれるの? 助かるわぁ〜。じゃあ明日の八時頃、鐘町小学校の正門前に来てくれる?」


「承知しました。では明日、学校前で」


「あ、でも報酬はどうしましょう。学校のことだし、あまり大きなお金は出せないんだけど……」


すみちゃん先生が申し訳なさそうに財布へ手を伸ばしかける。


「成功報酬で五千円。あと、先生方にこの店を宣伝してもらえれば十分です」


「五千円でいいの?」


「開業記念価格です」


「探偵事務所に開業記念価格とかあるのかよ」


「あるよ。今できた」


大牙が呆れた顔で凪を見る。


「じゃあ、それでお願いするわね。あと今度、たまこちゃんに小松菜持ってきてもいい?」


凪はほんの少しだけ真面目な顔になった。


「それは別枠で正式に受け取ります」


「そこはきっちりすんのかよ」


そのやり取りを聞いていたマスターが、無言で段ボールの切れ端に何かを書き、たまこのケージの前に立てかけた。


「あれ、どしたのマスター。なになに?1モフ1小松菜?」


プーーーイ!


その通りだと言わんばかりにたまこが鳴き声をあげた。



翌日の夜、八時少し前。


鐘町小学校の正門前に、大牙は立っていた。


「……なんで俺まで」


派手なシャツの上に薄手の上着を羽織り、腕を組んだまま校舎を見上げる。


夜の学校は、昼間とはまるで別の顔をしていた。


誰もいない教室。暗い窓。風に揺れる木々。

そして、校舎のどこかから聞こえてくるような、聞こえてこないような静けさ。


「依頼人が君の知り合いだから。僕の知り合いでもあるけど」


隣で凪が、いつもの調子で答える。


「理由になってねぇんだよなぁ……」


「ごめんねぇ、こんな時間に」


駐車場の方から、すみちゃん先生が小走りでやってきた。


「いえ。夜の学校なんてなかなか入れないですから」


「お前ほんとよく怖くならねぇよな……」


すみちゃん先生が鍵を開けると、校舎の中からひんやりとした空気が流れてきた。


廊下は非常灯の薄い明かりだけで、昼間見ればなんでもない掲示物や掃除用具まで、妙に知らないもののように見える。


「やっぱ夜の学校なんて来るもんじゃねぇよ……うわっ、なんか動いた!」


「カーテンだよ。大牙、怖がりすぎ」


「カーテンならもっとこう、物ですって分かるように動けよ!」


「自然現象に文句言われても……」


凪は肩をすくめる。


「あら〜……大牙くん、こんなに怖がりだったかしら? 昔はもっとやんちゃな子だったのに」


「そりゃ昼間しか会ってないからね!」


そんな会話をしながら、三人は音楽室の前までやってきた。


その時だった。


廊下の奥に、かすかな音が落ちた。


ぽん、と一音。

少し間を置いて、もう一音。


それから、たどたどしいピアノの旋律が、夜の校舎に広がっていく。


「でたー!!!」


大牙は反射的に凪の後ろへ隠れた。


「あら? この曲……」


「先生の知ってる曲ですか?」


「今度の合唱コンクールで、四年生が歌う曲だわ」


「そう言われてみれば昔歌わされたような気も……まぁ、とりあえず入ってみましょう」


「あら、覚えてるのね。凪くん、あの頃あんまり音楽室に来なかったのに」


「記憶力はいい方なので」


「出席率は悪かったけどな」


「そこは今関係ないでしょ。もう開けるよ」


凪が音楽室の扉に手をかける。


「待て待て待て、せめて心の準備を」


大牙の言葉が終わる前に、扉は開いた。


「わっ!」


ピアノの椅子には、小学生の女の子が座っていた。


「あら、莉子ちゃんじゃない。どうしたの、こんな時間に……」


「ごめんなさい……」


莉子と呼ばれた女の子は、鍵盤から手を離し、うつむいた。


「合唱コンクールに向けて練習したかったの。でも放課後は塾があって、この時間しかなくて……家だと近所迷惑になるからダメって、お母さんが」


「だからって、夜に学校へ忍び込むのはいけないことですよ?」


「ごめんなさい……。でも、伴奏で間違えたら、みんなに迷惑かけちゃうから……」


莉子は膝の上でぎゅっと手を握った。


「伴奏する予定だった子が手を怪我しちゃって……他にピアノやってる子がいないからって、頼まれたの」


すみちゃん先生は少し困った顔をして、それから莉子のそばにしゃがんだ。


「莉子ちゃん。練習したかった気持ちは分かったわ。でも、もし何かあったら、先生もおうちの人もすごく心配するのよ」


「……はい」


「なんだよ、子どもかよ〜。驚かせやがって〜!」


すっかり元気を取り戻した大牙が、莉子の前にしゃがみこむ。


「ちょっと怖かったんだからな、こっちは」


「ご、ごめんなさい」


「大牙くん、もう莉子ちゃんも反省してるんだから」


その時、パラ、と小さな音がした。


凪が振り返る。


教室の隅の棚に置かれていた古い楽譜が、一枚だけめくれていた。


窓は閉まっている。 エアコンもついていない。


めくれたページには、莉子が弾いていた曲と同じ題名が書かれていた。


「……」


「おい、凪。どうしたんだ?」


「いや。なんでもない」


楽譜がめくれたことには、凪以外、誰も気づいていないようだった。


「莉子ちゃん、あなた噂になってたのよ。このままだと、鐘町小学校の七不思議になっちゃうところだったんだから」


「えっ、私が?」


「そう。夜中に音楽室でピアノを弾く謎の何か」


「謎の何か……」


莉子は少しだけ泣きそうな顔になった。


「だから、練習はお昼休みにおいで。先生もできるだけ付き合うから。ね?」


「……はい」


「あ! そうだ、莉子ちゃんって言ったっけ?」


大牙がぽんと手を打った。


「うちの喫茶店、ピアノあるからさ。今度弾きにおいでよ」


「え、いいの?」


「いいよな、凪?」


「もちろん。店が開いている時間なら」


「じゃあ、週末にお父さんとお母さんも一緒に行くね!」


莉子の顔が、ようやく少し明るくなった。



週末の午後。


喫茶モルモットの隅に置かれていたアップライトピアノは、久しぶりにふたを開けられていた。


莉子は両親とすみちゃん先生に見守られながら、少し緊張した顔で椅子に座っている。


大牙は椅子を並べ、マスターは黙ってコーヒーを淹れ、凪は奥の席で文庫本を閉じた。


窓際では、たまこが牧草を噛んでいた。


最初の一音は、少し震えていた。


けれど、二音目からは、ちゃんと曲になった。


演奏が終わると、店の中に小さな拍手が起こった。


「よかったじゃねぇか。七不思議から演奏会デビューだな」


大牙が言うと、莉子は照れくさそうに笑った。


その時、店の奥で小さくピアノの音がした。


ポーン、と一音だけ。


大牙の顔が固まる。


「……今の聞いた?」


凪はカップを置いて、少しだけ笑った。


「聞いた」


「聞いた、じゃねぇんだよ」


窓際で、たまこがぷい、と短く鳴いた。

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