第十五話 名を失う朝
ユノはしばらく、なるべく目立たないように教会で過ごした。息を殺して過ごすことには慣れている。その間も子どもたちは何人か連れて行かれた。
嬉しそうについて行く子、不安そうな顔をする子、白衣の神官に泣いて縋る子。それでも決まって神官はこう言った。
「あなたは神に選ばれました。とても名誉なことですよ」
その笑顔はとても慈愛に満ち溢れていた。それでもユノは、とても救済を信じられなかった。
今日は教会内の清掃活動の日だ。ユノはこの日があまり好きではない。一見ただの清掃活動のように思えるが、ユノは監視されているような居心地の悪さを感じた。
白衣の神官は一緒に清掃活動をしているが、たまに見掛ける灰衣の神官はこちらを観察しているようだった。時折、何やら手元の書類に書き込んでいた。
全くいないと思われていた精霊たちだったが、清掃活動中はたまに精霊を見掛ける。子どもたちが精霊を目で追うと、決まって灰衣の神官が手を動かした。そして、翌日その内の一人が連れていかれるのだ。
ユノは極力、見えないふりをした。
ある日、いつものように朝食を取っていると、灰衣の神官が訪れた。
「ユノアス・ヴェイル」
低く冷たい声で名前を呼ばれる。心臓がドクンとはねた。白衣の神官はいつも通り嬉しそうに笑う。
「ああ、良かったわ。あなたはいつも一人でいて心配だったの」
その言葉にユノは絶望した。きっと彼女が“ 進言”したのだろう。この後はいつもの流れだ。
「あなたは神に選ばれました。救済がなされますよ」
白衣の神官に見送られながら、部屋を出る。二人分の足音が廊下に響く。前を歩く灰衣の神官は振り返ることなく歩いていた。声をかける素振りもない。こちらが逃げる可能性を少しも考えていないようだった。
否、逃げたくとも窓は高い位置にあり、例え届いたとしても通り抜けられない程小さい。そもそも自分には帰る場所すらなかった。
辿り着いた部屋は、薄暗い階段を降りた先にあった。部屋には窓はなく、中央には机と椅子が一つ置いてある。灰衣の神官はユノを椅子に座らせると、目の前に立っている黒い服の神官の斜め後ろに立った。黒衣の神官は一度だけユノを見ると、すぐに視線を持っていた紙に戻した。
「ユノアス・ヴェイル」
とても無機質な声だった。名前を呼ばれたのに、まるで自分の名前ではないような。実際、この神官にとって名前など意味のないものなのだろう。
「その名はもう使わない。今日からお前は103だ。返事を」
こちらの意思など関係ない。それは決定事項として、ただ事実を告げているだけだった。拒否権はない。
「……はい」
その瞬間、自分は個ではなく、ただの記号となった。
「質問がなければ、検査に移る」
返事をする間もなく、検査の準備が始められる。質問ではなく、形式的なものだったのだろう。
「精霊視認、反応確認済みです。体格は平均より下回りますが、問題ないでしょう」
灰衣の神官が袖をまくると、その腕に躊躇いなく細い針が刺される。
「……っ」
痛い。説明はない。ただ、刺された針から血が吸い上げられる。続いて、手や額に石のはまった器具を取り付けられた。そして、目の前には初めて教会に来た時に祭壇にあった盃が置かれる。
「あ……ぐっ……」
また、あの音だった。苦しそうな、引き裂かれそうな、音。頭が痛む。それでも体は言うことをきかず、盃から目が離せない。石の中では淡い光が苦しむように揺らめいていた。
「共鳴しています」
灰衣の神官が淡々と告げ、別の人が何かを書き込む。その後も記録を書き留める声が聞こえたが、もうユノの耳には入ってこなかった。
どこか遠くで叫び声が聞こえる。それは精霊の音と混じりあって、不協和音を奏でていた。
やがて記録が終わったのか、目の前の盃が片付けられた。そこで、ようやく自分が叫んでいたのだと気が付いた。
「はぁ……はぁ……」
ユノは冷や汗を流しながら、息を整える。服はじっとりと濡れていた。
「検査結果、良好です」
「よし、製造に回せ」
製造。
その言葉の意味は分からなかったが、自分は検査の結果、何かに選ばれたことだけは分かった。質問しても答えはないだろう。今は何も考えたくなかった。
部屋を出ると、廊下の先で何かが運ばれて行くのが見えた。白い布に覆われた、小さな担架。布の隙間から見えた、小さな手。
「あれはもう使えませんね」
「ああ、今回のは早かったな」
淡々と、事実だけを告げる神官。ぴくりとも動かない手を気にする者は誰もいない。ユノだけが、奥に消えていく担架をいつまでも見ていた。
自分もいずれ、ああして運ばれていくのだろう。ここには温かい食事も清潔なベッドもある。しかし、“救済”がなされるまで出ることは出来ない。
ここは、そんな場所だった。
血液検査苦手です。




