第一話 精霊の棲む森
森の奥に、一軒の小屋があった。もう日はとっくに昇りきっているというのに、その小屋に住む少女はまだベッドの中だ。ベッドに広がった銀糸のような髪が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。
その上を光を纏いながら飛ぶ小さな生物がいた。
「おはよう、リア」
リアと呼ばれた少女は、仕方なくベッドから起き上がる。まだ眠たそうな深い青色の瞳が、自分の周りを飛び回っている生物を追いかけた。
「おはよう、ミラ」
それは精霊と呼ばれるものだった。
今ではその存在を信じる者も少なくなったが、森では多くの精霊が息づいている。
リアは挨拶を返したものの、眠気に勝てなかったのかそのままベッドに倒れ込んだ。ミラと呼ばれた精霊は再度リアを起こそうとするも、手で払われてしまう。
「昨日夜更かしして本なんて読んでいるからですよ」
「だって、続きが気になって……」
くぐもった声でリアはそう言い訳し、枕に顔をうずめた。ミラは小さくため息をつくと、リアの頭上にふわりと降り立つ。
淡い光が一瞬だけ強まり、諭すように声をかけた。
「今日は町で売る薬を作るんでしょう? そろそろ冬支度の買い物もしないと……」
「……分かってる」
むぅっと唸りながら、リアはしぶしぶ顔を上げる。
リアは町があまり好きではない。人付き合いが嫌いというわけではないが、町の空気は居心地が悪い。
かつてこの国では、精霊と共に生きることが当たり前だった。だが人々はやがて精霊を忘れ、その存在を遠ざけた。
町には便利な魔道具というものがあふれているが、それは意志のない下位精霊の力を動力源としている。そんな資源のように使われる精霊を見るのは、あまり良い気はしない。
リアは気が進まないまま着替えを終えて外に出ると、森の匂いが流れ込んだ。湿った土、葉を落とし始めた草木、遠くの川の音。
ここでは精霊たちは自然の一部として息をしている。リアはそれを確かめるように、一度大きく息を吸った。それだけで町へ行く憂鬱は消えるようだった。
森の小道を歩くと、足元の苔がわずかに光る。リアが一歩踏み出すたび、精霊たちがさざめくように揺れた。
「今日は薬草の機嫌がいいですね」
ミラが薬草の様子を見ながら、低い位置を飛ぶ。リアは小さく頷き、腰に下げた籠を確かめた。
「昨日、雨が降ったからかな。今日は良い薬ができそう」
森の奥へ進むにつれ、空気はひんやりと澄んでいく。ぬかるんだ道を足元に気を付けながら歩く。リアは目当ての植物の前で足を止め、確かめるようにしゃがみ込んだ。
「これと……あとパン屋のおじさんが腰痛の薬が欲しいって言ってたかな」
「鎮静作用のある薬草はあれですね」
リアがミラの見つけた薬草に手を伸ばすと、葉の先がかすかに揺れた。
拒絶ではない、許可の合図だ。葉に付いていた雨粒がキラキラと輝きながら地面に落ちる。
「ふふ、ありがとう」
リアはそう囁いてから、必要な分だけを丁寧に摘み取った。根は残し、土を軽く撫でる。そうしてまた新しい葉が生える。ミラはその様子を黙って見守っていた。
精霊である彼女にとって、人が精霊や植物に敬意を払う姿は、懐かしくもあり、少しだけ誇らしかった。
「町の人たちは、こういうやり方を忘れてしまいましたね」
「……うん。精霊は今もここにいるのにね」
リアはそう言いながら寂しそうに笑った。
森では、無理に奪うことはしない。必要な分だけ、感謝を添えて受け取る。
それを忘れた世界に、リアは馴染めずにいた。
やがて籠が程よく満たされると、リアは小屋へ戻った。作業がしやすいように髪を手早くまとめ、窓辺に吊るしておいた古い鍋を竈に置く。火を入れると、下位精霊が小さく集まり、炎が安定した。
呼びかけたわけではない。最近ではそれが当たり前の光景になっていた。薬が煮詰まるにつれ、苦い香りが部屋に広がる。
「今日もうまくできそうですね。あなたの母の腕前に近付いています」
「ほんと? ミラにそう言われると自信が持てるな」
ミラの言葉にリアは素直に喜んだ。しかし、ふっと表情を曇らせると「でも」と続ける。
「まだまだ母さんには届かないかな……」
母はそれこそ魔法のように色々な種類の薬を作り上げていた。患者の症状を聞いて適した薬を処方すれば、あっという間に患者は元気になっているような、そんな薬師だった。
リアはそこまで言ってしんみりしてしまった空気に気づき、パッと顔を上げると慌てて笑う。
「これだけあれば鎮痛剤も咳止めも足りるし、冬支度のためのお肉もたくさん買えそうだね」
側で漂っていた精霊たちも、リアの嬉しそうな声に呼応するかのように淡く瞬いた。
翌朝、リアは薬を抱えて森を出た。まだ霧の残る木立を歩いていると少し肌寒い。冬が近付いている匂いがした。
「今日はちゃんと起きられましたね」
「ミラが朝起きないからって本を没収したんじゃない」
拗ねたように文句を言うリアを見て、まだまだ子どもだなと思いながらクスクス笑う。
うまれた頃からミラは側でずっと成長を見守ってきた。彼女の両親が亡くなってからは片時も離れたことがない。永きを生きる精霊にとっては人の一生など短いものだが、それでもこれからもずっと一緒にこの子の成長を見続けたいとミラは願う。
森を抜けると、やがて石畳の道が見えて来る。森のざわめきが、背後でふっと遠のいた。
「……やっぱり、落ち着かないな」
町が近づくにつれ、空気が重くなる。精霊の気配は消えていない。けれど、それらはどこか鈍く、森のような自由さはない。
町の門をくぐると人々の話し声が聞こえる代わりに精霊の声は一切聞こえなくなった。通りには人と同じくらい魔道具が溢れている。
街灯、水汲み装置、暖房用の炉。
人々が生活具と呼ぶそれは、どれも古く、精霊の力を前提に作られたものだ。下位精霊たちの力を借りながら、魔法が溢れていた時代と変わらずそこで動いている。それが何を動力源として動いているのか、忘れたまま。
通りに並んだ街灯の中で、淡い光が静かに揺れている。そこには確かに精霊の気配がするのに、周りの人々は誰も気にしていない。リアは少し息苦しさを感じて、そっと視線を逸らした。
「早めに用事を済ませよう」
薬を売って買い物をする。干し肉、保存用の豆、厚手の布。リアは必要な物を指折り数えながら足早に歩く。
その後をミラはそっとついて行った。
パン屋では、いつものおじさんが笑顔で迎えてくれた。
「おお、リアちゃん! 薬を持ってきてくれたのかい?」
「うん、腰痛の分と咳止めも少し。その後痛みはどう?」
「大分良いよ。この間もらった分がなくなりそうだったから、ちょうど良かった。リアちゃんの薬は良く効くんだよなぁ」
そう言ってパン屋のおじさんは笑う。森の薬草には精霊の力が宿っている。薬草だけではなく、土や水にも。
ミラが当然だとでも言うように強く光るのを横目に見ながら、リアは曖昧に笑い返して薬を手渡した。
「そうだ、保存用のパン買ってくだろ? おまけしとくからまた頼むよ!」
「わぁ、嬉しい! ありがとうおじさん」
そうして薬とパン代を精算してリアは他の買い物もすべく、露天商へと向かった。薬を売りながら必要な物を買い揃えていく。
「よし、今日はこれくらいで良いかな」
「あまり買い込んでも一人では持ち帰れませんからね」
「おや、リアじゃないか」
買ったものを確認していると、ふと露店の女性に話しかけられた。その人は今でも精霊のことは見えているが、見えることを隠して町で生きている者もいる。
「こんにちは、おばさん」
「今日は買い物かい?」
「うん、そろそろ冬支度を始めようと思って」
「森は寒いからねぇ、しっかり準備しな」
リアはそう言われて、門の方を見る。門には町の中の気温を調整する魔道具があり、完全とは言わないまでも滅多なことがなければ雪は降らない。
町の暮らしは楽だろうが、リアにとってここは精霊の声も聞こえず、居心地が悪いのだ。
「そういえば聞いたかい?」
露天商の女性はそう言って周囲を確認すると、リアの耳元に顔を寄せる。そして、極力声を落として話し出した。
「王都で精霊を見たって言って教会に連れていかれた少年がいたらしい」
「王都で?」
王都はここから十日ほど歩いたところにある。乗合馬車も出ているので行きにくい場所ではない。ただ、王都では精霊を否定している教会の影響が強いため、精霊もあまり近寄らない。
「まぁ、信憑性が薄いってことですぐ解放されたらしいがね。しばらくは騒がしいだろうから、リアも気を付けな」
「わかった、教えてくれてありがとう」
リアは丁寧にお礼を言うと、町をあとにする。教会は精霊が見える人を連れて行ってどうするのだろうか。この町外れにも教会はあるが、わざわざ足を運ぶ人は少ない。
もちろんリアも近付いたことはなかった。
「ミラは教会に連れていかれた人がどうなるか知ってる?」
「いいえ、考えたくもありません。想像は出来ますけどね」
「それってどういう……?」
リアの疑問にミラは一瞬顔をしかめると、それっきり口を閉ざす。
――あんなものは知らない方が良い。関わる必要などないのだから。
「さぁ、思ったより時間がかかってしまいました。日が落ちる前に家に帰りましょう」
この話は終わりとでも言うように、ミラはリアの周りをくるりと回って森へと向かう。ミラが教会の話をあまりしたがらないことを失念していた。
森の入り口が見え始め、リアは少しだけ足を早める。行きとは違い、森に近づくにつれ、精霊の気配が濃くなってくることに安堵した。
精霊と共に生きるこの場所が、いつまでも安全であるとは限らない。その予感だけが、胸の奥に静かに残っていた。
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