85話[2章番外]役者になれなかった令嬢の回想
『タラッシオー!タラッシオー!』
『花婿よ!今夜は松明より熱く燃え上がれ!くるみはもうおしまいだ!槍を天に打ち立てろ!』
『戦は今か!?さあ花嫁のヴェールを純白のトゥニカごと剥ぎ取り城門を打ち破るのだ!』
私、ウンブリキア・テルティアと、私の旦那様となるマルクス・ウルピウス・トラヤヌス様だけになった寝室。
夫婦の営みの時間となった夜の差し掛かり。
固く締められた扉の外から聞こえてくるのは、私達の婚礼を祝う少女たちの声で紡がれる豊穣と子孫繁栄を願う祝婚歌。
魔よけのために歌われていることは頭でわかっていても、直接的な男女の交わりを囃し立てるその歌詞に、私の頬はカッと赤くなってしまう。
そんな私を、一緒のベッドでその太く力強い腕で愛おしそうに旦那様は抱きしめてくれています。
実直で誠実そうな瞳をした立派な殿方。
初夜とはいえ、まだ幼く身体の出来ていない私を気遣い、抱きしめるだけにとどめてくれている誠実なお方。
そんな誠実なお方の妻となれた我が身の幸福を、私は嚙みしめていました。
そう、当家……私には身に余るほどの良縁。
旦那様の家がヒスパニア・バエティカに広大な農地を持ち、旦那様のお父様の代には元老院への議席すら手に入れた名家であるのに対し、我が家はイタリア半島内の自治都市ポンペイ出身ではあるものの、ローマの上流階級としては軽く見られてしまう魚醤売りの家。
お爺様が一代で作り上げた魚醤事業には、私も誇りを持っています。
そのため魚醤売りであることを卑下するつもりはありません。
しかしそこには、純然たる壁が存在するのは否定しようのない事実です。
それ故に、私は旦那様が優しく包み込んでくれている胸の中から顔を出し、愛おしそうにこちらを見つめてきてくださる旦那様に、ずっと気になっていたことを尋ねてみました。
「マルクス様――旦那様は……私のような、旦那様の身分からすればつり合いが取れぬほど低い身分の家の娘を、どうして妻に選んでくださったのですか?」
「そう言えば君には話していなかったね」
私の疑問を聞いた旦那様は、少し照れたように微笑み、私の髪を優しく撫でながらその問いに答えてくれました。
「君を初めて見そめたのは、あのデキムス殿の屋敷の中庭だった。あの騒がしい講堂の熱気で昂っていた私の瞳に、デキムス殿のご令嬢と朗らかに笑う君の顔を見て、気づけばその姿を追っていた」
「あのお屋敷で……私を……?」
「あぁ。そして思ったのだ。これから益々隆盛を極めていく我が家の道のりは険しい。せめて家の中だけでも、君の笑顔のような和やかな場であってほしいとね。そしてそれは難しいとも思っていた。しかし、私に彼が……あの不思議な奴隷、ルシウス殿が縁をくれた」
ルシウスさん。
その名を聞いて、私は不思議な思いが胸にこみ上げてきます。
そう、思えば私がここローマに居るのも、彼の縁から。
いつのまにやら深まっていた縁で、彼は私を旦那様の前まで導いてくれていたのでした。
脳裏に、1年半前の出来事が思い起こされてきます。
……ルシウスさんとの縁は、たぶん……ルクレティア様とお友達になった、1年半前のお茶会。
初めて会った時の印象は、正直なところ、あまりよく覚えていません。
彼の名前と容姿が一致するようになってから見た彼は、穏やかな顔立ちをしていて、理知的で、言葉遣いもまるで大人のようでした。
けれど、ただそれだけのこと。
ローマ有数の保養地であるポンペイには、名家の方々が数多く訪れます。
彼ら彼女らの側に控えている少年奴隷の中には、頭の良い子は決して珍しくありませんでした。
ルシウスさんも、そんな『少し賢い奴隷の男の子』の一人に過ぎないのだと、当時の私は思っていたのです。
彼が単なる奴隷ではないと、私の小さな世界に初めて強烈な印象を残したのは、おじいさまが突然、帝都ローマへの進出を決められた時。
「テルティア、私はローマへと行くぞ。お前も一緒に来なさい。我が家は、カンパニアを出て帝国の中心へ打って出る!」
魚醤事業で成功を収めたものの、お父様やお姉さまに先立たれ、残る家族は私だけになって以来、かつてあったであろう野心など消え失せたと思っていたおじいさまの、まるで少年のように輝く瞳。
そしてその時、私は初めて知ったのです。
私のお友達であるルクレティア様が私に教えてくれた盤上遊戯『リバーシ』も、ルクレティア様と私がお友達になるきっかけを作ってくれた、あの優しい甘味の『麦の蜜』も……それらがすべて、あの少年奴隷であるルシウスさんが作ったものだということを。
その時、私はすこし、彼に興味が出ました。
でも、それは本当に少しだけ。
彼には既に愛する人が出来ていました。
そして、その愛する人と結ばれるため、そしてそのために忠義をないがしろにしないために100万セステルティウスという途方もない大金を稼ごうとしていることも、同時に知りました。
だから……ある意味、劇場で物語の主人公を見ているような気分でした。
しかし、どうやらおじいさまはルシウスさんに思っていた以上に入れ込んでいたようで、ローマに移り住んでからは徐々に接点が増えていきます。
そうして近くで見ることができるようになって、ようやく彼の異常さに気づくようになりました。
奴隷としてはあり得ないほど、広大で特異な人脈を築いていくルシウスさん。
ルクレティア様と一緒にルシアさんのお宅――サギッタ邸に頻繁にお邪魔するようになってからはそれがよくわかるようになりました。
最初はプリニウス様がいつもいる程度だったのが、急に皇族であるドミティアヌス殿下が出入りするようになり、更には紅海の貿易商として有名な大商人コスムス様や軍医として名声を得つつあるディオスコリデス様といった方々が屋敷に常にいるようになり、それに引き寄せられるかのように、若手の軍人や官僚の方々がサギッタ邸に出入りするように……。
そして、そんな状況が加速するにつれ、お爺様が不思議なことを言うようになってきました。
……事あるごとに、私にルシウスさんについての印象を聞いてくるようになったのです。
「テルティア、お前はルシウスをどう思う?あれほど才気にあふれるものはそう居ないし、顔立ちも悪くないだろう?」
そんな頻繁なお爺様の問いに、私は少しずつ不安を覚えるようになりました。
もしかしておじいさまは、ルシアさんという公認の恋人がいるにもかかわらず、私をルシウスさんに嫁がせようと目論んでいるのではないか、と。
確かにルシウスさんは魅力的な方ですが、彼を巡ってルシアさんやお友達のルクレティア様と波風を立てるようなことは、私の望むところではありません。
お友達と喧嘩をするのは嫌。
私は穏やかな関係のまま、この朗らかな日々を過ごしていたいだけなのです。
――けれど、それはまったくの私の杞憂でした。
ある日、おじいさまが弾んだ声で私に告げたお相手は、ルシウスさんではなく、旦那様でした。
「元は彼は、自らの主人であるルクレティア嬢を私に打診してきたのだけどね……君に心を奪われていることを知った途端、彼は快く君の祖父様を紹介してくれた。それだけならば家格の差であきらめねばならなかったが、君の祖父様は彼やデキムス殿と昵懇、つまりは君の家との縁談は、今を時めくデキムス学校との強い縁になる。そのおかげで、私は君を手に入れることができた。彼には、いくら感謝してもしきれないよ」
旦那様の温かい胸の中で、私の意識は現在へと戻ってきました。
ルシウスさんが、私と旦那様の縁を取り持ってくれた。
その事実に、彼への感謝の思いが湧いてくるとともに、知らぬ間にすべてが済んでしまったということに、少し寂しい思いも芽生えてきます。
おそらく、私は今までは彼の英雄譚の中にいたのだろうと思います。
しかし、私は役者が違ったのでしょう。
訳の分からぬままに演劇は進み、訳の分からぬままに与えられ、そのまま私はいつの間にか観客席へ。
しかし、それでよかったのかもしれません。
そう思うのには理由があります。
ある日、ちょうどルシアさんもルクレティア様も席を外されていた時に、中庭の対面に彼がひとりでいるところを見たことがあります。
――その時見た瞳は、私達ではない、とても遠くを見つめている気がしました。
おそらく、彼は英雄の中でも飛び切りな、歴史に永く名を残すであろう類の方なのでしょう。
手のひらに収まっていれば莫大な恩恵を得れるものの、近づきすぎれば輝きにあてられ灼かれてしまう。
私が彼の隣に立つ。
そんな未来も、確かにあったのかもしれません。
しかし、その先には今の旦那様と歩む未来とは比較にならないほどの苛烈な試練を乗り越える必要のある未来があった。
そんな気がしてならないのです。
「テルティア?寝てしまったのか?」
「……いいえ、起きていますよ、旦那様」
「どうしたのだ、急に黙り込んで。やはり緊張しているのか?」
「いいえ――今がとても幸せだということを、噛み締めていたのです」
私は旦那様を見上げてほほえみ、旦那様の優しくも力強い腕の中に再び深く顔をうずめました。
窓の外から聞こえる賑やかな歌声が、心地よい子守唄のように変わっていくのを感じます。
私は、ルシウスさんとのあり得たかもしれない未来の代わりに与えられた、この平穏で愛に満ちた新しい生活に身を委ね、静かに夢路へと意識を手放すことにしました。
祝婚歌:
婚礼の宴の最中から、新婚夫婦が寝室へ向かった後……つまり初夜の最中まで、その寝室の前で友人や少年少女の合唱隊によって歌われた。
そしてその歌詞の中には卑猥なものが含まれていた。
(なお夫婦が寝室に入った後に卑猥な歌を歌い続けるのは主に少女の役割だったらしい)
これは幸福の絶頂にある人間には悪い霊のようなモノや妬深い神々の悪意が向けられるという邪視の考えがあり、それへの対策として、卑猥なモノ=生命力の源という考えからそれらを利用して邪視を払うためと言われている。
なお、これらは辿っていくといわゆる男根信仰の一種である『チンチンナブルム』などにつながっていく。
初婚年齢とリスクへの対処:
古代ローマでは初婚年齢は現代よりも若く(法律上は12歳からな上、その前に婚約することも多かった)、医学的にも身体が妊娠に耐えられる年齢でない時に結婚し、初夜を迎えることも珍しくなかった。
そして家同士の政略としての結婚である以上、やみくもに母体を傷つけることは家同士の関係も悪化させることになる。
そう言う時、古代ローマの紳士はどうしていたかというと、破瓜の痛みを想像し怯える花嫁に対し『大丈夫だよ、慣れるまでは後ろでやろうか』などと提案していた。
ちなみにこの方法、修辞学者である大セネカ(ストア派の哲学者である小セネカの父)が推奨している方法である。
そもそも手は出すんかいとか問題の先送りで全く破瓜の痛みについて解決できてねえじゃねえかとか色々ツッコミどころはあるんですがどうなんでしょうねこれ。
ちなみに本作のトラヤヌスはちゃんと前も後ろも我慢してるよ。みんな安心して!




