76話 西暦79年8月24日
お嬢様を乗せた輿が道の先に消えるのを正門の前で見送り、俺はほっと息をなでおろす。
何やかんやで色々と振り返れば命がデンジャーな挙動をしてしまっていたようだがそれはそれ。
ドミティアヌス殿下による次期帝位奪取話は、俺の手を離れ、なんか穏便に事が進みそうな気配となっている。
お嬢様の補足説明によれば、内政面は製紙業と印刷業への有限責任組合形成の許可を通じ、紙と印刷の利権を元老院議員に分配すれば、穏健派と呼ばれる中立層は軒並みドミティアヌス殿下の擁護側につくだろうとのこと。
当然、先行者利益として元老院議員に根回しが完了するころには、工房のノウハウを蓄積しているであろうルクレティウス家は表面上は元老院議員たちが立ち上げる製紙工房の有限責任組合の小間使い的立ち位置に甘んじることになるが、実質的には元老院議会における穏健派にルクレティウス家は莫大な影響力を保持できることになる。
そしてそれは、後発で参加してくるウェスパシアヌス派や、何ならストア派などの帝政にとっての危険分子を抱える共和派でさえも同じ。
情報記録媒体として無限の需要がある紙やそれに情報を乗せる大量印刷の利権に噛まない元老院議員は、おそらく存在しないだろうとのこと。
それは、元老院議員全員の財布の一部をルクレティウス家が間接的に握ることを意味する。
そうなれば、今後議会の趨勢がどちらに転ぼうとも、騎士階級としての分限を超えない限りは元老院階級に一目置かれる存在となる。
俺は保守的と言われる元老院階級が、まだパピルスとの競争にすら勝利していない段階で食いつくかは疑問だったが、そこはデキムス商会という飛ぶ鳥を落とす勢いの商会を被保護者として抱えるルクレティウス家そのものの名声と、手付として連続式蒸留器を格安で提供すれば行けるとルクレティアお嬢様は見ているらしい。
特に社交界においては既に宴の最上級のもてなしとなっている『ワインの最も純粋な部分だけを抽出した酒』つまりは蒸留酒はルクレティウス家やそれに連なるポンペイオールスターズ関係者が作っているというところまでは特定されているらしく、『高貴な者の商売』としてワイン農場を保有していることも多い元老院階級にとっては蒸留の技術はまさに垂涎の的。
そして実際に連続式蒸留器を提供することにより、ルクレティウス家近辺が持つ技術を身をもって体験すれば、むしろ本格的に製紙業や印刷業が始まる前に前のめりで出資を申し出てくるだろうとのこと。
つまりは元老院階級へのアクセスさえできれば、印刷業と出版業の勃興までの道すじは舗装されているといってもいい。
そして法人制度とセットになった印刷業と出版業の勃興は、それだけで莫大な税収を生む。
本来、紙のコストが下がるということは、パピルスの需要を奪うことになり、有力皇帝属州であるアエギュプトゥスのパピルス利権、つまり皇帝利権を奪うことになるため、普通なら元老院と皇帝との対立構造を生む。
……だが法人制度とセットで運用される場合は税収=皇帝財産の増加につながるため、その対立は発生しない。
つまり元老院議員は新しい飯の種が増え、皇帝はパピルス利権の喪失を補って余りある税収と、行政コストの低下という利益を生むウィンウィンの構図なのだ。
それは財政がひと息ついた帝国にとっては天からの恵みとさえ言えるもの。
内政面での功績としては十二分の成果となる。
もう一つの軍事面にしても、大規模に銃とダイナマイトを作れるのであれば軍事に素人であるお嬢様から見てもそれは圧倒的なものとなるとのこと。
しかも都合の良いことに、征服先はダキアが最も今回の場合は最適だというではないか。
どういうことかというと、ダキアは先のローマ内戦の時にティトゥス殿下がローマに戻る際に殿下の指揮下の軍団への襲撃をしている上、ローマ内戦時に火事場泥棒を働いてきた周辺部族の中でもダキア地域は小規模な襲撃が繰り返される、とくに軍部にとってイライラが募っている地域になるらしい。
現状の俺の試算では上流階級が抱えているワイン冷却用に使われている硝石の在庫を吐き出させ、化粧品事業のナトロン精製の際に出る低品質ナトロン(つまりは炭酸ナトリウムや炭酸水素ナトリウム以外の成分が多いナトロン)由来副産物の硝石を使えば、おそらく基礎研究用と訓練用、初動1か月間の一個大隊程度の使用量程度は賄える。
そのわずかな硝石で時間を稼いでいるうちに、洗濯業者からアンモニアを多量に含む洗濯廃液を収集し、硝石丘を作れば長期的な供給も問題ない。
つまり軍事面でもドミティアヌス殿下が攻めるのにはちょうど良い場所があり、しかもそこは俺が欲しい材料があるダキア。そして武器弾薬の供給も問題ない。
ここまでの話をまとめると、
・一番めんどくさい元老院への政治交渉はルクレティウス家とピソ家がやってくれる
・軍事面では俺が欲しい石油があるダキアが征服対象になる
・内政面では元老院を味方に付ける=ルクレティウス家の政治的地位の安定がされる
というまさにパラダイスみたいな状況が出来上がっているのである。
しかも重要なところは、俺が苦手な政治面は全部お嬢様を始めとしたルクレティウス家とピソ家に丸投げできるというところ!
俺は気ままに技術チートを積み上げればこの状況は完成するところ!!!
何て素晴らしいのだろう。
そうだよ。
俺が目指してたのはこういうのだよ。
俺は現代の科学知識をお出しする気楽な地位に納まって、他のことは得意な人がやる。
それが効率的なRTAってものだよ。
いやーこれは奴隷解放RTAクリアと同時にスローライフルート突入できちゃうんじゃないでしょうか。
なんてったって俺が解放資金をためた後はルクレティウス家はローマにおいて影のフィクサー的立ち位置。
そして俺はローマ有数の新興商会の娘婿。
そして不本意だが俺の周りに集まってるガンギマリ共は政治面においても経済面においても有力者ばかり。
解放後の俺を害するということは、この面々を敵に回すということを意味する。
そして忘れがちだが、ローマ市民にとってもその時の俺は『愛と忠義を押し通し完遂した物語の主人公』だ。
俺を害することによるリスクとリターンがあまりにも見合っていない。
いけちゃう? いけちゃうんじゃない?
いやーまいっちゃうね。
長く苦しくも楽しかったRTA生活はこれにて終了です!
これからはルシウスチャンネルは『古代ローマでのんびり上流階級の暮らしを紹介するチャンネル』に変更になります。ご期待ください!
ようやく見えてきたゴールに浮かれながら、俺は大きく背伸びをしてリエーティを囲む山々を眺める。
「……ん?」
そうして南の方を見た時、声が漏れた。
南側の山の雲が妙に暗く、灰色だったのだ。
この時期のリエーティは雨の少ない時期。
新チャンネルに向けた和やかなエンディングロールが流れるには似つかわしくない空。
「まあ、そう言う天気の日もあるか」
そんな空模様を不審に思いつつ、俺は今後のスローライフを胸にプッさんの別荘へと戻る。
……それが、ヴェスヴィウス山の噴火によるきのこ雲が、夏の霞でぼやけた景色だったと気づくのは翌日のこと。
プッさんとの問答中に息を切らせた皇帝直轄の伝令がプッさんに第一報を伝えに来た時、俺はその日が西暦79年8月24日であったと知ることになる。
ヴェスヴィウス山の噴火日:
元々、小プリニウスなどの書簡から8月説が有力でしたが、ここ数年で10月説や11月説などもでている。
しかし今年に入って様々な検証が進んだ結果、10月説や11月説はどれも決定打に欠けるらしい。
と、いうことで本作では、ぎりぎりまで悩みましたが従来通りの8月説を採用することにしました。
結果的に皇帝とティトゥスが大喧嘩した翌日に噴火したことに……。




