74話 ドミティアヌス殿下は兄思い()
ウェスパシアヌス帝とティトゥス殿下の口論の内容を語った後、ドミティアヌス殿下は両手で鼻と口を隠すように俯いてしまい、何かを言いよどんでいるようだった。
しかし、少しすると意を決したような目で俺を見つめ、口元を手で隠したまま、まるで懺悔でもするかのように思いをぶちまけ始めた。
「ルシウス、私はな……今の妻、ドミティアを略奪婚で手に入れた」
「略奪婚?」
「そうだ。私が彼女を愛してしまった時、彼女は既に元老院議員ルキウス・アエリウス・ラミアの妻だった。私にとって幸いなことに、そのころは父上は皇帝に即位した直後。父上の元老院に対しての姿勢が分からなかったラミア家は私に屈服し、彼は彼女を手放した。父に無断だったから、かなり怒られたよ」
そりゃそうでしょうよ、政権樹立直後の不安定な時期にそんなことされたらマジ切れでしょうよウェスパシアヌス帝。
いや、何やってんのドミティアヌス殿下。
元老院議員の妻を寝取るって……皇族とはいえ、なかなかロックなことしてるなこの人。
「結果的に私と彼女の婚姻は、彼女の父グナエウス・ドミティウス・コルブロの名誉を回復するものになったが……一歩間違っていれば私の横暴は、元老院の反発を招き、せっかく収まった内戦が再発する危うさがあった。父が怒って私を見限るのも無理はない」
そこで一回区切ると、ドミティアヌス殿下は椅子から立ち上がって俺の横に立ち、俺の肩に手を置いてくる。
「だが私はあの決断を後悔していない。もし時を戻せても、私は何度でも彼女を自らのものにするだろう。都合の良い面しか見ぬ愚か者どもは小カトーなどの考えになぞらえて『燃えるほどの愛は不道徳だ』と謗るが、ばかばかしい。愛こそ人間のもっとも純粋な善性だろうが」
そう言って俺の顔を覗き込んでくるドミティアヌス殿下の目には、ある種の願いのようなものが込められているように見えた。
なんとなく、殿下が望んでいるものが分かってきた気がする。
「私も愛のために無理を押し通している身、殿下の思いは……痛いほどわかります。愛があってこそ、人は人たりえると、私は思います」
なので、とりあえずこの場は俺が背負っている『愛と忠義の物語の主人公』『100万セステルティウスの奴隷』のイメージを崩さないために、同意をしておくことにする。
するとドミティアヌス殿下の顔は我が意を得たりとばかりに目に光が宿る。
「そうか!!知性を司る女神ミネルヴァの寵愛を得ているお前も、そう思うのだな!?」
「あの、殿下……お声がすこし」
内密の話なんでしょう? 声デカいんだけど?
「あ……す、すまぬ。そうであった」
俺の指摘にシュン、と小声になってしまうドミティアヌス殿下。
殿下は何というか、割と気分の上下が激しい方ではあるのだが、今回は特に兄と父の大喧嘩のせいでストレスがかかっているのか、いつもに増してテンションがおかしかった。
基本はただの高慢風好青年なんだけど、時折情緒不安定なんだよなぁ、殿下。
まあ、前世のネットの海に彷徨う同業者にはそんな連中は死ぬほどいたので、特に気にするほどではないが。
しかし、殿下の話を聞いて大体何が言いたいのかは理解できた。
このまま受け手に回ったままでは話が長くなりそうに感じた俺は、あえて先手を打って殿下の考えを確認してみることにした。
「つまり、自らは愛を押し通すことができたのに、兄にはそれが許されないというのは殿下も納得ができないということなんですね?」
「さすがはルシウス。お前だけは私のことを分かってくれる」
おいさっきまであれほど熱く語ってた奥さんはどこ行ったんだよアンタ。
愛を向ける相手と理解者は別とかそう言う理論?
「そう。私は愛する人と結ばれることが叶った。私でさえ愛の想いには抗うことができなかった。兄とてそれは同じはずだ。そして兄は、父が帝位を目指すときにまるで役に立たなかった私とは違い、兄はユダヤ戦争でも軍功を上げられ、その後は執政官として父を支えてきた。それほどまでに帝国に尽くし、父上を支え続けたあの兄上だけが、なぜ最愛の女性を捨てなければいけない?なぜ孤独な皇帝にならなければいけない?……私は、そんな残酷な話を見てはいられないのだ」
そんな俺の心の突込みをよそに、殿下は努めて声を押し殺しながら俺の横で胸の内をぶちまける。
ドミティアヌス殿下とティトゥス殿下が二人一緒にいるところは俺は見たことないが、ここまで兄のことを思って熱を込めた胸の内を吐露しているのだ。
どうやら結構兄弟仲は良いのだろう。
だが、実際問題そこに全肯定できるかは話は別。
「しかしベレニケ様とティトゥス殿下の間に御子ができてしまえば、ローマ市民にとってはクレオパトラ以上の悪夢になるのでは?」
「いや、そこは大丈夫だ。ベレニケはもう50近い。兄上と子を成すには少し年を重ねすぎている。もう20歳ほど若ければ可能性はあったかもしれないが、そこは安心してよい」
え?ベレニケってそんな歳いってたの?
つまり兄は枯れ専で弟は人妻スキーってこと?
……なかなかに業が深いんだなこの兄弟。
しかしそうすると単純にローマ市民の感情に屈してベレニケを排除しようという流れにウェスパシアヌス帝が同調しているという構図なのか。
確かにそれは兄弟としちゃぁ納得できないわな。
で、流れ的には俺に何かいい案がないかを聞いてくる流れだなこれ。
「――兄上の愛を応援したい。兄上がベレニケと共に歩める道を、私が作りたいのだ」
俺の予想通り、ドミティアヌス殿下は腰を下ろし俺の耳元で道がないかと囁いてくる。
……いや思いつかないって。
「さすがにそのような案は政事に疎い僕のような奴隷には思いつきませんよ?」
「それは分かっている。案は私が持っている」
そう言うとドミティアヌス殿下は俺の耳にさらに顔を近づけ、周囲の様子を伺いながらつぶやいた。
「私が次の皇帝になればよいのだルシウスよ。しかし、それには功績が足りぬ。内政と軍事、両方の功績が。ルシウス、何か策はないか?」
ドミティアヌス殿下の言葉に、俺は思わず目を見開いて殿下の方を見る。
殿下の目は、去年の今頃、ウェスパシアヌス帝に講義を行った帰りに見た、感情の読めない目をしていた。
俺は背筋が一瞬で凍るのを感じた。
激しい愛は不道徳という謎概念:
ローマ人(特に上流階級)のよくわからない倫理観に『激しい愛は不道徳』『とくに妻を愛しすぎるのは姦通と同じくらい不道徳だ』というものがある。
後者はよく小カトーが夫婦仲の良い政敵に言ったなどの説があるが一次資料を見たことはないので俗説な感じもする。
というかそんな故事ができるってことは愛に惑わされて身持ちを崩した上流階級多かったんじゃね?という気もする。
話は変わるが、小カトーはクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスに求められて妻を渡していたりする。
そっちはなんか渡した方も『譲られた方』も美談風に語られてる。
まあこの故事はホルテンシウス側の目的は小カトーの妻目当てというか、小カトーそのものとのつながりを求めてのことなので、小カトーとしては妻をちゃんと政治の道具として理性的に扱っているため言論一致しているし、ドミさんの事例とは若干毛色が違うのだが……。
それでもドミさんが自らの婚姻にケチをつけてきた相手に対して『故事を適用するならこっちだろ!?(コルブロ将軍の名誉回復にもなっただろ!?理性的な政略ってしてくれてもいいだろ!?)』ってキレたくなる気持ちもわからないでもない。




